6月30日に、東京地裁で旧優生保護法による「強制不妊手術」に対する国家賠償を求めた訴訟の判決があった。判決は手術の「違憲性」を指摘しながら、除斥期間(20年)が過ぎていることを理由に賠償を認めず原告敗訴だった。この問題については、2019年に被害者に一時金を支給する法律が施行され、自分では何だか問題が終わった感じになってしまっていた。
しかし、国賠訴訟は継続されていたわけである。2018年1月に仙台地裁に最初の訴訟が起こされて以来、全国8地区で24人が裁判中だという。2019年5月に仙台地裁で最初の判決はあったが、それもやはり除斥期間を理由に賠償を認めないものだった。原告側は控訴して、仙台高裁で審理中である。違憲性の判断などで、今回の東京地裁の判断は、仙台高裁より後退したと言われている。こういう裁判の場合、東京地裁の判決は概ね国に対して有利な判断になる。

このようなニュースを時々目にするわけだが、とても居たたまれないような気持ちになる。憲法も法律も人間が作ったものである。手術をしたのも人間、賠償を求めているのも人間だ。国の最高法規である憲法に違反するような出来事があったとしながら、憲法の下にある法律で規定された「除斥期間」を理由に原告を敗訴にする。それをおかしいと感じないのだろうか。
実は「除斥期間」はやりようによっては、原告に有利なように解釈することも出来る。なんで裁判官は平気で原告敗訴を言い渡せるのだろう。裁判官は日本国憲法76条に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とされている。しかし、現行の裁判制度の下では、「最高裁判所の官僚的支配」が確立している。国に厳しい判決は、往々にして最高裁でひっくり返る。目の前の原告ではなく、人事評価者である最高裁を気にしているんだろう。僕は抜本的な最高裁改革が必要だと思っている。
(記者会見する原告)
今回のケースの原告は非常にお気の毒としか言いようがなく、評する言葉がなかなか見つからない。元の法律が合憲だったとしても、このケースは「違法」だと思う。15歳の少年を無理やり病院に連れていって、手術を受けさせた。それが1957年のことで、2018年に提訴されたから除斥期間を超えていて損害賠償請求権は消滅していると判示している。しかし、この人の場合は手術によって現在に至るまで生殖能力が奪われた。常識で考えれば損害賠償請求権が消滅するはずがない。現在も引き続き被害が生じ続けているのである。
15歳の中学生だって、セックスすれば子どもも出来る。しかし常識的に判断して、結婚も出来ない年齢なんだから、事実上「不妊」の被害は発生しない。一生結婚しないと思っていたが、28歳の時に縁あって結婚した。しかし、当然子どもは出来なかった。手術のことは妻に話せず、2013年5月に白血病で妻が亡くなる数日前に初めて伝えられたのだという。もしどうしても「除斥期間」を考えるのなら、僕はこの妻死亡時が起点かもしれないと思う。
人間はそんなに簡単に裁判を起こせない。普通は弁護士に頼まなければ訴状も書けない。弁護士に頼まず自分で書いてもいいんだけど、憲法や法律の条文に詳しくない「シロウト」には法律用語を駆使した文章が書けない。裁判の内容が内容だから、弁護士会で支援してくれるかもしれないが、それでも当初の実費分の負担はいるだろう。そういうお金の問題も大きいが、このケースのような裁判だと、「夫婦で共に闘う」のはなかなか大変だと思う。現在も婚姻継続中だったら、この人は果たして裁判を起こしただろうか。
そういう問題もあるが、「除斥期間」、刑事事件の場合は「時効」になるが、そもそも何故あるのだろうかという問題がある。私人間の争いの場合、土地の所有権や借地権、結婚の破綻や子どもの養育権、遺産相続など、世の中にはいろんな争いがあるものだが、確かに永遠に訴訟が可能ではおかしいだろう。一つは「証拠価値の低下」。何十年も経って言われても、もう関係者も死亡したり、細かいいきさつを忘れているから証拠上の決着が付けられない。
もう一つ「権利の上に眠るもの」には厳しくてもいいという考えがあるという。借金返済の督促をずっと忘れていて、何十年か経って親の死後に借用書が見つかって子孫が請求しても遅いだろうということだ。民事関係の争いでは、時間の経過で一種の既得権化が起こるわけである。
刑事事件の場合も同様な問題があり、「時効」が定められている。しかし、殺人等の重大犯罪においては2010年に時効が撤廃された。昔はなかった科学捜査が可能になり、DNA型鑑定で何十年か後で真犯人が見つかるようなことが実際に起こっている。時間が経っても新証拠が見つかるんだから、確かに時効の意味が薄れたのも理解出来る。
しかし、いかに重大事件とは言え、国家は何十年経っても国民を訴追できるのに、「国家の間違い」(=憲法違反の立法措置)に対しては「除斥期間」があって過去がチャラに出来るというのは、フェアじゃない感じがする。そもそも「国家の行為」に時効があるというのがおかしい。その時点で、国民は国家の判断に従うしかない。後になって間違いでしたと言われても、時間が経って賠償は出来ませんけどじゃ納得できるもんじゃない。国家が正義に依拠しないならば、国家の存在意義がない。国賠訴訟では「除斥期間」を適用できなくするべきだ。
しかし、国賠訴訟は継続されていたわけである。2018年1月に仙台地裁に最初の訴訟が起こされて以来、全国8地区で24人が裁判中だという。2019年5月に仙台地裁で最初の判決はあったが、それもやはり除斥期間を理由に賠償を認めないものだった。原告側は控訴して、仙台高裁で審理中である。違憲性の判断などで、今回の東京地裁の判断は、仙台高裁より後退したと言われている。こういう裁判の場合、東京地裁の判決は概ね国に対して有利な判断になる。

このようなニュースを時々目にするわけだが、とても居たたまれないような気持ちになる。憲法も法律も人間が作ったものである。手術をしたのも人間、賠償を求めているのも人間だ。国の最高法規である憲法に違反するような出来事があったとしながら、憲法の下にある法律で規定された「除斥期間」を理由に原告を敗訴にする。それをおかしいと感じないのだろうか。
実は「除斥期間」はやりようによっては、原告に有利なように解釈することも出来る。なんで裁判官は平気で原告敗訴を言い渡せるのだろう。裁判官は日本国憲法76条に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とされている。しかし、現行の裁判制度の下では、「最高裁判所の官僚的支配」が確立している。国に厳しい判決は、往々にして最高裁でひっくり返る。目の前の原告ではなく、人事評価者である最高裁を気にしているんだろう。僕は抜本的な最高裁改革が必要だと思っている。

今回のケースの原告は非常にお気の毒としか言いようがなく、評する言葉がなかなか見つからない。元の法律が合憲だったとしても、このケースは「違法」だと思う。15歳の少年を無理やり病院に連れていって、手術を受けさせた。それが1957年のことで、2018年に提訴されたから除斥期間を超えていて損害賠償請求権は消滅していると判示している。しかし、この人の場合は手術によって現在に至るまで生殖能力が奪われた。常識で考えれば損害賠償請求権が消滅するはずがない。現在も引き続き被害が生じ続けているのである。
15歳の中学生だって、セックスすれば子どもも出来る。しかし常識的に判断して、結婚も出来ない年齢なんだから、事実上「不妊」の被害は発生しない。一生結婚しないと思っていたが、28歳の時に縁あって結婚した。しかし、当然子どもは出来なかった。手術のことは妻に話せず、2013年5月に白血病で妻が亡くなる数日前に初めて伝えられたのだという。もしどうしても「除斥期間」を考えるのなら、僕はこの妻死亡時が起点かもしれないと思う。
人間はそんなに簡単に裁判を起こせない。普通は弁護士に頼まなければ訴状も書けない。弁護士に頼まず自分で書いてもいいんだけど、憲法や法律の条文に詳しくない「シロウト」には法律用語を駆使した文章が書けない。裁判の内容が内容だから、弁護士会で支援してくれるかもしれないが、それでも当初の実費分の負担はいるだろう。そういうお金の問題も大きいが、このケースのような裁判だと、「夫婦で共に闘う」のはなかなか大変だと思う。現在も婚姻継続中だったら、この人は果たして裁判を起こしただろうか。
そういう問題もあるが、「除斥期間」、刑事事件の場合は「時効」になるが、そもそも何故あるのだろうかという問題がある。私人間の争いの場合、土地の所有権や借地権、結婚の破綻や子どもの養育権、遺産相続など、世の中にはいろんな争いがあるものだが、確かに永遠に訴訟が可能ではおかしいだろう。一つは「証拠価値の低下」。何十年も経って言われても、もう関係者も死亡したり、細かいいきさつを忘れているから証拠上の決着が付けられない。
もう一つ「権利の上に眠るもの」には厳しくてもいいという考えがあるという。借金返済の督促をずっと忘れていて、何十年か経って親の死後に借用書が見つかって子孫が請求しても遅いだろうということだ。民事関係の争いでは、時間の経過で一種の既得権化が起こるわけである。
刑事事件の場合も同様な問題があり、「時効」が定められている。しかし、殺人等の重大犯罪においては2010年に時効が撤廃された。昔はなかった科学捜査が可能になり、DNA型鑑定で何十年か後で真犯人が見つかるようなことが実際に起こっている。時間が経っても新証拠が見つかるんだから、確かに時効の意味が薄れたのも理解出来る。
しかし、いかに重大事件とは言え、国家は何十年経っても国民を訴追できるのに、「国家の間違い」(=憲法違反の立法措置)に対しては「除斥期間」があって過去がチャラに出来るというのは、フェアじゃない感じがする。そもそも「国家の行為」に時効があるというのがおかしい。その時点で、国民は国家の判断に従うしかない。後になって間違いでしたと言われても、時間が経って賠償は出来ませんけどじゃ納得できるもんじゃない。国家が正義に依拠しないならば、国家の存在意義がない。国賠訴訟では「除斥期間」を適用できなくするべきだ。