イラン情勢と言うけど、「イランってどこだ?」という人もいると思う。ましてや「白地図の中でイスラエルの位置を示しなさい」は、もっとできないだろう。長年、生徒に問題を出してきたけど、西アジア諸国ほど生徒が不得意にする地域はないように思う。政治情勢に無関心なうえ、宗教とか民族の違いが出てくると判りにくいんだと思う。生徒ならまだしも、社会科以外の教員にも(担当教科や生徒指導は大変立派な先生なのに)、「イランとイラクの場所が区別できないんだよね」という人が何人かいた。この30年位ほぼ毎日、新聞にこの両国のどちらかが載ってたでしょう、と思うんだけど。
まあ、僕は国名や歴史上の人名を覚える苦労をしたことがないので、要するに得手不得手の問題だろう。(自分の方が特殊なんだろうね。)でも僕は、「世界地図を手元におくこと」はとても大切だと思う。大相撲初場所優勝の大関「把瑠都」(バルト)関、出身のエストニアってどこだ? バルト三国を北から順番に言え、とか。ニュースで見たら、すぐに地図を見て確認が大切。
さて、イランとイラクに関しては、「イランが東、イラクが西」だよね。地図を見て下さい。ただ、問題は国名と場所を覚えると言うより、「民族の違い」をしっかり認識することにある。「オリエント世界」(オリエントは「東」で、ヨーロッパから見て東という意味だから、日本で使うのも変なんだけど)は、アラビア半島やイラクから、北アフリカ西端のモロッコまで、ほぼアラブ民族(宗教的にはほとんどがイスラム教スンニ派)が広がるけれど、それ以外の民族が4つほどある。
まずはイランで、はインド・ヨーロッパ系のイラン民族(ペルシア人)、そしてトルコがアルタイ系のトルコ民族である。(中央アジアのトルクメニスタンやウィグル人などもトルコ系である。)そして、「国家を持たない最大の民族」と言われるクルド民族が、イラク、イラン、トルコ、シリアなどの国境沿いの山地に住む。以上がイスラム教。そして、そこにもう一つ、第二次世界大戦後にユダヤ教のイスラエルという国ができた。
さて、今カッコの中に「ペルシア人」とも書いたけれど、この「ペルシア」と「イラン」は同じ。地名ではペルシア湾というし、世界史では「○○朝ペルシア」というのがやたらに出てくる。で、今はイランだから混乱してしまう人がいる。「イラン」は「アーリア人の国」という意味で自称の国名。他国にイランという国名を使うと通知したのは、1935年のことである。アーリア人というのは、古代インドのイスラム文明を滅ぼした民族として世界史の教科書に出てくる(最近は異説もある)、あのアーリア人。中央アジアに住んでいて南下した「インド・ヨーロッパ語族」とされる。アーリア人が南下してイラン高原に定住したのが、「イラン」=「ペルシア」となる。
世界の古い文明というと、多くの日本人が思い浮かべるのはまずエジプト、メソポタミア。そして中国、ギリシア、ローマ文明などというあたりだろう。ペルシアと答える人は少ないと思う。でも、ペルシアは古代ギリシアまで戦争に行って、「マラトンの戦い」などをした。「ペルシア戦争」(第3次まである)という。ペルシアは大昔から栄えた民族なのである。この時は「アケメネス朝」。イスラム教を受け入れたんだから、それ以前は暗黒時代のはずだが、イラン人は古代文明に誇りを持っている。自分たちは古くからの誇りある国で外国に侮られてはならない、と思っている。これは中国なんかもそうだし、第二次世界大戦下の日本もそんなことを言っていた。ここを間違えてはいけないと思う。外部からの制裁だけでは逆効果の場合もあるだろう。
「○○朝」というのが、世界史の悩みだった人も多いと思うけど、ペルシアはアケメネス朝があって、その後ササン朝というのがあり、正倉院にも伝わるというペルシア遺品はこの頃。その後、イスラーム帝国、セルジューク・トルコ、モンゴル帝国、ティムール帝国などの他民族の支配の時代が長かったけど、16世紀初頭に成立したサファヴィー朝(支配者の民族としてはトルコ系らしいが)が、現在のイランの基だと言ってよい。何しろイスラム教シーア派を国教としたのが、この王朝なのである。
サファヴィー朝は1722年にアフガン民族の侵入で滅亡する。混乱が続くが、群雄割拠の時代を終わらせたのが、ガージャール朝(1722~1925)。この王朝の時代は、ヨーロッパ勢力の侵攻により半植民地化が進んだ暗い時代である。19世紀初めの、2度にわたるロシアとの戦争に敗北し、グルジア、アルメニアなどのカフカス(コーカサス)地方を失った。(これらの国々はロシア革命後「社会主義共和国」となり、ソ連崩壊後独立した。スターリンはグルジア人だから、イランが領有したままだったら、世界史は今とは違った。)カージャール朝も建て直しをはかったけれど、その資金はロシアと対立するイギリスからの借款による他なかったから、鉄道などの利権はイギリスに与えられた。それらを反イスラーム的と見た国民により、激しい立憲革命運動が起こる。一方、日露戦争までは英露は対立したが、その後は台頭するドイツに対抗して、協調路線に転換する。1907年の英露協商は20世紀のアジアを決定づけた。
英露協商では、イギリスはインド支配を優先して、隣接するアフガニスタンを支配する。ロシアはカフカスと西トルキスタン(ウズベキスタンやキルギス)を支配する。東トルキスタン(ウィグル)とチベットからは英露とも手を引き、清国の領有を認める。(アフガンに1979年にソ連が侵攻したらどうして大問題になったのか、モンゴルは独立しているのにチベットは何故独立できないのか、などの問題は、すべてこのときの協定に原点があると言える。)そして、ペルシアは北半分をロシア、南半分をイギリスの勢力圏にすることで、折り合った。こうして、事実上英露の半植民地となったガージャール朝は、もはや命脈がつきていた。
1925年、軍人で首相だったレザー・パフレヴィーが皇帝を廃位し、自ら帝位について、最後の王朝パフレヴィー朝が成立した。この王朝で、ペルシアからイランへと国名改称がなされた。しかし、この王朝も外国頼りであることは変わらず、現に第二次世界大戦時、親ドイツ的傾向を見せた皇帝に対し、英国とソ連による占領が行われている。そして、1979年のイスラーム革命で皇帝が追放され、パフレヴィー朝は倒れた。その頃は、よく「パーレビ国王」とマスコミが呼んでいたが、最近の教科書などでは「パフレヴィー」という表記になっている。(長くなってしまったので、イスラム革命の話は次回。)
まあ、僕は国名や歴史上の人名を覚える苦労をしたことがないので、要するに得手不得手の問題だろう。(自分の方が特殊なんだろうね。)でも僕は、「世界地図を手元におくこと」はとても大切だと思う。大相撲初場所優勝の大関「把瑠都」(バルト)関、出身のエストニアってどこだ? バルト三国を北から順番に言え、とか。ニュースで見たら、すぐに地図を見て確認が大切。
さて、イランとイラクに関しては、「イランが東、イラクが西」だよね。地図を見て下さい。ただ、問題は国名と場所を覚えると言うより、「民族の違い」をしっかり認識することにある。「オリエント世界」(オリエントは「東」で、ヨーロッパから見て東という意味だから、日本で使うのも変なんだけど)は、アラビア半島やイラクから、北アフリカ西端のモロッコまで、ほぼアラブ民族(宗教的にはほとんどがイスラム教スンニ派)が広がるけれど、それ以外の民族が4つほどある。
まずはイランで、はインド・ヨーロッパ系のイラン民族(ペルシア人)、そしてトルコがアルタイ系のトルコ民族である。(中央アジアのトルクメニスタンやウィグル人などもトルコ系である。)そして、「国家を持たない最大の民族」と言われるクルド民族が、イラク、イラン、トルコ、シリアなどの国境沿いの山地に住む。以上がイスラム教。そして、そこにもう一つ、第二次世界大戦後にユダヤ教のイスラエルという国ができた。
さて、今カッコの中に「ペルシア人」とも書いたけれど、この「ペルシア」と「イラン」は同じ。地名ではペルシア湾というし、世界史では「○○朝ペルシア」というのがやたらに出てくる。で、今はイランだから混乱してしまう人がいる。「イラン」は「アーリア人の国」という意味で自称の国名。他国にイランという国名を使うと通知したのは、1935年のことである。アーリア人というのは、古代インドのイスラム文明を滅ぼした民族として世界史の教科書に出てくる(最近は異説もある)、あのアーリア人。中央アジアに住んでいて南下した「インド・ヨーロッパ語族」とされる。アーリア人が南下してイラン高原に定住したのが、「イラン」=「ペルシア」となる。
世界の古い文明というと、多くの日本人が思い浮かべるのはまずエジプト、メソポタミア。そして中国、ギリシア、ローマ文明などというあたりだろう。ペルシアと答える人は少ないと思う。でも、ペルシアは古代ギリシアまで戦争に行って、「マラトンの戦い」などをした。「ペルシア戦争」(第3次まである)という。ペルシアは大昔から栄えた民族なのである。この時は「アケメネス朝」。イスラム教を受け入れたんだから、それ以前は暗黒時代のはずだが、イラン人は古代文明に誇りを持っている。自分たちは古くからの誇りある国で外国に侮られてはならない、と思っている。これは中国なんかもそうだし、第二次世界大戦下の日本もそんなことを言っていた。ここを間違えてはいけないと思う。外部からの制裁だけでは逆効果の場合もあるだろう。
「○○朝」というのが、世界史の悩みだった人も多いと思うけど、ペルシアはアケメネス朝があって、その後ササン朝というのがあり、正倉院にも伝わるというペルシア遺品はこの頃。その後、イスラーム帝国、セルジューク・トルコ、モンゴル帝国、ティムール帝国などの他民族の支配の時代が長かったけど、16世紀初頭に成立したサファヴィー朝(支配者の民族としてはトルコ系らしいが)が、現在のイランの基だと言ってよい。何しろイスラム教シーア派を国教としたのが、この王朝なのである。
サファヴィー朝は1722年にアフガン民族の侵入で滅亡する。混乱が続くが、群雄割拠の時代を終わらせたのが、ガージャール朝(1722~1925)。この王朝の時代は、ヨーロッパ勢力の侵攻により半植民地化が進んだ暗い時代である。19世紀初めの、2度にわたるロシアとの戦争に敗北し、グルジア、アルメニアなどのカフカス(コーカサス)地方を失った。(これらの国々はロシア革命後「社会主義共和国」となり、ソ連崩壊後独立した。スターリンはグルジア人だから、イランが領有したままだったら、世界史は今とは違った。)カージャール朝も建て直しをはかったけれど、その資金はロシアと対立するイギリスからの借款による他なかったから、鉄道などの利権はイギリスに与えられた。それらを反イスラーム的と見た国民により、激しい立憲革命運動が起こる。一方、日露戦争までは英露は対立したが、その後は台頭するドイツに対抗して、協調路線に転換する。1907年の英露協商は20世紀のアジアを決定づけた。
英露協商では、イギリスはインド支配を優先して、隣接するアフガニスタンを支配する。ロシアはカフカスと西トルキスタン(ウズベキスタンやキルギス)を支配する。東トルキスタン(ウィグル)とチベットからは英露とも手を引き、清国の領有を認める。(アフガンに1979年にソ連が侵攻したらどうして大問題になったのか、モンゴルは独立しているのにチベットは何故独立できないのか、などの問題は、すべてこのときの協定に原点があると言える。)そして、ペルシアは北半分をロシア、南半分をイギリスの勢力圏にすることで、折り合った。こうして、事実上英露の半植民地となったガージャール朝は、もはや命脈がつきていた。
1925年、軍人で首相だったレザー・パフレヴィーが皇帝を廃位し、自ら帝位について、最後の王朝パフレヴィー朝が成立した。この王朝で、ペルシアからイランへと国名改称がなされた。しかし、この王朝も外国頼りであることは変わらず、現に第二次世界大戦時、親ドイツ的傾向を見せた皇帝に対し、英国とソ連による占領が行われている。そして、1979年のイスラーム革命で皇帝が追放され、パフレヴィー朝は倒れた。その頃は、よく「パーレビ国王」とマスコミが呼んでいたが、最近の教科書などでは「パフレヴィー」という表記になっている。(長くなってしまったので、イスラム革命の話は次回。)