尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ゲゲゲのげ

2011年08月04日 23時37分48秒 | 演劇
 毎日映画を見たり、本を読んだり…で過ごしています。主にお金の問題で映画以外はあまり行けないのですが、時々は演劇や落語にも行きたいということで、そういうカテゴリーを追加。昨日見たオフィス3○○(さんじゅうまる)の「ゲゲゲのげ」の感想を簡単に。渡辺えり子「ゲゲゲのげ」は、1982年初演で83年の岸田國士賞受賞の傑作です。(野田秀樹、山元清多と3人同時受賞はこの時だけ。)僕は1985年の再演時に下北沢の本多劇場で見て、とても深く感動しました。(珍しく本を買った。)

 今回見たのは、渡辺えりが自分の演劇活動を再起動した意味を確かめたかったこと(最近は映画、テレビや他劇団の名脇役の活躍が中心だった)、「いじめ」という主題を今見てどう思うか、「ゲゲゲ」と言えば「女房」という時代にこの劇はどう感じるか、「座・高円寺」という劇場に行ったことがなかったので行ってみたかったなどの事情によります。見てみてやはり戯曲の力を感じたし、まだ平日は空席があるようなので、おススメで書く次第。前売・当日とも5千円。

 最後の点から書くと、最近各区で劇場を作ることが多いけど、なかなか行けない。まだ豊島区の「あうるすぽっと」は行ってないです。世田谷パブリックシアター、わが足立区の「シアター1010(せんじゅ)」は600か700も入るけっこう大きな劇場で足立も動員に苦労しているようですが(もすこしラインアップに工夫が欲しいな)、ここは200人台の小劇場でした。(地下にもう少し大きいのがあるようだ。)その小ささ、動きやすさを生かした卓抜な舞台設計と演出がなされていたと思います。せり出しの奥に、上下二重という舞台装置の魅力が素晴らしい。舞台転換が多い劇内容にふさわしい見どころの多い舞台美術だと思います。

 「いじめ」に関しては、まだあの中野の事件(1986年の「葬式ごっこ」事件)さえ起こっていない時だったので、はっきり言ってしまうと、「呼べば鬼太郎が現れる」という昔見たときの感動的な設定が少し胸に迫らなくなっていると感じました。(これは自分が年取ったからかもしれず、初見の若い人の感想を聞きたいと思います。)「妖怪」もその後「町おこしの材料」みたいになっていて、「ゲゲゲ」の持つ詩的、思想的な喚起力が市場の中に飲み込まれた感じもしました。何重もの重層的な劇的世界、「異界」との自在な交通性、戦争の時期と現在とをつなぐ少年の叫びと救い、と言った前に見て感じた切実性は、僕は少し薄れているような気もしたけど、それはそれで美しい叙情性は変わりなく輝いています。あのころは「戦争」がまだけっこう近かったなとも感じたけどね。あとセリフで「血液型」に言及するのは止めて欲しいなと思ったです。これはいつ書くけど、震災以後ぼくらがすべきことは「血液型で人を判断する」などという今の日本でもっとも身近な「非科学」をみんなで意識して止めることではないかと思ってます。  
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教員免許更新制度は本当に必要か?

2011年08月04日 22時12分20秒 |  〃 (教員免許更新制)
 今まで「コメントにコメント」はしてないのですが、最近のコメント二つは反論をするのが礼儀だと思うので、少し書いてみたいと思います。(教科書問題の方はもう少し後で。)

 教員免許更新制度の必要性を書いているコメント(モナー号船長さん)によれば、「教師は法令順守のうえ生徒に対して適切な指導をするものだっと思います、一部の教師ではそれができない以上、教員免許更新制度あって当たり前だっと思います」ということです。一応、これをベースに考えます。

 私が思うに、これは理由になっていません。教員免許更新制度を実施すればすべての教員が法令順守、適切な指導ができる、免許更新制でなければそれはできない、という論証がないからです。実際、この制度実施により、単なる事務的な理由で失職する教員が出るということが起こりました。私はその事態を、愚策による人権侵害と考えますが、賛成の人はその事態を「教育がよくなる政策」だと考えるのでしょうか。以下に、制度そのものと、制度実施上の問題にわけて、いくつかの具体的な論点を提出したいと思います。(ほとんどは前に書いてあることですが。)

A.そもそも「制度設計の問題」として
①「一部の教師は適切な指導ができない」のなら、その一部の教師に研修を課せばよいだけなのではないかと思うが、特に全教員免許取得者(正規に採用された全教員ではない)に講習を課す意味はどこにあるのか?コストパフォーマンス的に無意味なのではないかと思うが、どうか?
②「一部の医師」「一部の看護師」「一部の介護士」「一部の弁護士」等々、皆不祥事を起こしていると考えるが、当然それらすべての公的資格も、10年ごとに講習を受け合格して手続きをしないと失効するという制度にせよという主張と解してよいか?もし、他の資格はやらなくていいけど、教員免許だけは更新制度にせよということなら、それはなぜか?
③すでに法令にある「10年研修」ではなぜだめなのか?職場で研究授業などを行う「10年研修」の方が、大学で座学をしていればよいことも多い「更新講習」より実質上の意味はあるのではないかと思うが、なぜ更新講習の方が効果があると考えるのか?
④正式に採用されている正教員だけでなく、非常勤講師、産育休代替教員、大学卒業後民間企業に勤務し30を過ぎてから教員を目指しているような人など、大変な中を教員を目指している人たちまで、更新講習を受けなくてはならない制度は、常識的に考えてあまりに酷な、おかしな制度とは考えないか?

B.制度実施上の問題について
⑤離島や山間部の教員、小さな子供や介護の必要な家族を抱えた教員、部活動などで夏休みや土日も学校で働いている教員など大変な中頑張っている教員が、「適切な指導ができない教員」でないのなら、わざわざ都市部にしかない大学で講習を受けないと失職する制度が必要なのか?かえって、やる気をそぐ制度とは考えないか?(インターネットで講習を受けることが可能な大学もあることはあるが。)
⑥校長、教頭(副校長)、主幹教諭の中にも一部だが行政処分を受ける人がいる。従って、上記の必要性の主張からすれば、「管理職や主幹教諭の講習免除規定はなくすべき」であるという主張と解してよいか?
⑦教師と言っても、校種、担当教科等により様々な種類がある。幼小中高特別支援、教科はあまりに多いので省略するが、養護教諭も含め、様々な教員はそれぞれ抱える問題意識や経験が違う。それぞれごとに別々に地域の教育委員会が実情に応じて研修を行う方が効果があると思うがどうか。今は、どの大学のどこの講座をとっても可ということになっているが、それは改めるべきという主張と解してよいか?(ただし、その場合、大学で講習を行うという大前提が難しくなると思うが。)

 大体以上のような論点になりますが、別に答えて欲しいわけではないけど、作った人に教えて欲しい。考えなしに「教員イジメ」で思いつきで作ったものだと思っていますが。この制度実施のために、文科省では多くの税金をつかってきました。問題教員がいるというなら、そのお金で十分な研修をすればいいと思うけど。(なお、単に大学に行けばいいだけだから、「指導力不足教員」対策には全くなりません。)

 ところで、今は「一部の教員が法令順守、適切な指導ができない」という前提で考えてきましたが、この前提自体は正しいか?人間社会において、あらゆる場面において完全な組織はありえず、一部の構成員は問題を抱えているのではないかと思います。学校は特にその程度が大きいですか?私はそんなことはないと思うのですが。むしろ教員が熱心すぎたり、頑張りすぎたりすることが問題の方が大きいと思うのです。民間企業なら「窓際族」で閑職に置いておくことができても、教師は少しは授業を持つから生徒に影響を与えるので、特に大変な問題と考えられるのは当然です。しかし、それはむしろ「学校を親や地域に開く」という「学校に自由の風を通す」政策により、学校を変えていく方法を考えて解決する方がいいのではないかと思っています。

 どんな職場だって一部の人は問題でしょ。その「一部」のために、研修が強化されたり監査がひんぱんになるのはガマンするとしても、せっかく勉強して得た資格そのものをなくして、失職させようという制度は普通に生活してマジメに仕事している人なら、おかしいと思うんじゃないでしょうか?
コメント (1)
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