尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

土方歳三生家から高幡不動、百草園へ

2021年12月06日 22時13分39秒 | 東京関東散歩
 しばらく散歩をしてなかった。マスクをしてると大変なのである。ようやく冬めいてきて、関東は冬だと晴れるから、少し寒さを我慢すれば散歩シーズンでもある。僕は神社仏閣に関心が薄く、行ってないところが東京近辺でも数多くある。そういうところを一つ一つ訪ね歩けば、行き先に困らない。前から一度行ってみたいと思っていたところに、高幡不動(たかはたふどう)がある。高尾山目指して京王線に乗れば、途中の大きな駅として昔から名前を知ってる。でも、本当は金剛寺というなんてのも初めて知った。ちょうど紅葉の最後の頃で五重塔も美しい。もっともどう見ても最近の建立で「平安初期の様式を模した」とある。
  (高幡不動五重塔)
 ところで今回まず行ったのは、そこではない。「土方歳三資料館」に行きたかったのである。映画「燃えよ剣」も公開され、人気も高まる新選組副長・土方歳三(ひじかた・としぞう)だが、生まれたのは現在の地名で言えば東京都日野市になる。多摩動物公園も日野だが、僕は今までそこしか行ったことがない。僕からすれば東京の西の隅のように思えるが、地図で確認すると東西で言えば東京の真ん中あたりで。(伊豆・小笠原諸島を除く。)まず京王線高幡不動駅から、多摩モノレールで一駅、万願寺駅へ。
 (多摩モノレール万願寺駅)
 多摩モノレールというのも名前は聞いたことがあるが、どこからどこへ行くのか初めて知った。たった一駅だから歩いてもいいんだけど、土地勘がないのとモノレールにも乗ってみたかったので試乗気分。高いところから多摩丘陵を望める(ジブリ映画「耳をすませば」の舞台にも近いあたり)が、駅からは写真が撮りにくい。そして万願寺えきすぐに、土方歳三の生家跡に土方歳三資料館がある。ところがここは日曜日に月2回だけ開館というところなのである。
   (土方歳三資料館)
 生家は建て直されていて、庭に入るとすぐに土方の銅像がある。内部は写真禁止なので撮影出来ない。「愛刀 和泉守兼定」や多くの手紙などが展示されている。しかし、まあ特に土方歳三の熱烈なファンでもない限り、わざわざ行ってみる必要もない感じがする。展示物だけでは、500円の価値があるかは微妙だが、全体合せてムード料というところだろう。
  (土方歳三資料館)
 上の写真のトップは歳三手植えの矢竹とある。2枚目の写真は、裏から受付を撮った感じだが実はそこに当時使っていたという木刀が飾ってある。最後は庭の写真。高幡不動に戻るにはモノレールを目当てにたどればいいと思って、歩き始めたら案外近かった。途中で浅川を渡る。多摩川の支流の一つである。下の2枚目の写真をよく見ると、真ん中に鷺がいる。遠くに山、川には鷺という風景は、やっぱりちょっと遠くに来た気がする。 
 (浅川)
 川を渡ってしばらく行くと駅が見えてくる。駅を迂回していくと地下通路があった。「不動尊は3分 不動産は3階」というビルの広告が面白い。駅前から参道が見えるから、高幡不動へは迷わない。結構立派な参道に見えたが、行ってみれば案外短かった。国宝はないが、重要文化財指定の建造物は幾つかある。下の3枚目の仁王門は参道の向こうに雰囲気を出している。ここにも土方歳三の銅像があって、「ひの新選組まつり」をやっている。日野全体で「新選組のふるさと」を宣伝しているが、今はもちろん「燃えよ剣」に出て来るような農村ではない。単に郊外都市というだけで、幕末ムードを偲ぶのは難しい。
  (仁王門)(土方歳三像)
 境内を歩いて行くと、不動堂がある。1342年建立で、重文指定。さらに奥に進むと大日堂があって、そこでは天井に「鳴り龍」の絵があるというけど、もう何だか面倒になってしまって見なかった。そのさらに奥に墓所もあって、そこにも興味深いところがあるらしいんだけどパスしてしまった。ここは紫陽花の名所なので、またいつか初夏の頃に訪れてみたい。
(不動堂) (大日堂)
 何だか土方歳三資料館も高幡不動もおざなりに見た感じだが、それはこの後「百草園」(もぐさえん)まで歩きたかったのである。高幡不動の隣駅が「百草園前」で、京王電鉄が所有する「京王百草園」という庭園がある。名前は知っていたが、場所は今回初めて認識した。12月5日まで「紅葉まつり」だというから、行ってみようかと思った。シーズン一回ぐらい紅葉を見たい。一駅だから高幡不動から歩けば、大分歩数も稼げるはず。地図を見る限り、道は一本道で判りやすい。行けども行けどもたどり着かないから、段々疲れてきたが、まあ歩くしかない。ホントにこの道でいいの? とその段階になってスマホで検索すると合っていた。やっとここで曲がれば百草園という道を行き、後130メートルと書いてあるところから、とんでもない急坂の連続で参った。
   (京王百草園)
 写真で判るように、紅葉は残っていた。最後に疲れてしまって、入ったらまたも坂なので、あまり頑張れない。なんとなく名前から「向島百花園」みたいなところかと思っていたら、全然違って山ではないか。いやあ、驚いた。
   (京王百草園) 
 上の写真の1枚目は池の風景。3枚目の展望は、本当なら筑波山も見えるというのだが、とても見える感じじゃなかった。最後の写真は若山牧水の歌碑と説明で、かつて牧水はここへよく来ていた。ある年は女性と泊まりがけで来たが、悲恋で終わったというようなことが書いてあった。芭蕉の句碑もあるというが、もっと上まで行く元気がなかった。まあ高幡不動は別の季節に来てもいいなと思ったが、百草園はもういいか。JR日野駅近くに、「新選組のふるさと歴史館」などがあるので、いずれそっちも行ってみたいと思っている。新選組ファンじゃないんだけど、幕末史の有名人には違いないから。
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東大生が教えてくれない勉強になる東京名所

2021年10月28日 22時28分12秒 | 東京関東散歩
 大体夜はブログを書いてるけれど、BGMが欲しいからテレビを付けてる。CDを掛けてると聞き入ってしまうから、テレビの方がいい。ずっと見てないと筋が判らなくなるドラマではなく、クイズとかヴァラエティ番組が多い。火曜日には林修先生の「今でしょ!講座」で「現役東大生が選ぶ東京の勉強になる名所ベスト25」というのをやってた。なんで東大生なのかというのは置いといて、結構なるほどなと思う場所が選ばれている。でも当然落ちているところもあるわけで、東京散歩の番外編として幾つか紹介してみたいなと思う。

 まず番組で紹介された名所を。下から発表したので、25位から。
神保町国立天文台台場飛鳥山公園浅草 
哲学堂公園アドミュージアム東京等々力渓谷大森貝塚中銀カプセルタワービル
日本科学未来館上野動物園東京タワー目黒寄生虫館国立西洋美術館
明治神宮神田川東京国立博物館江戸城跡国会議事堂
東京スカイツリー江戸東京博物館東京駅国立科学博物館東京大学

 いやいや一応全部知ってます。国立天文台と寄生虫館は行ってない。中銀カプセルタワービルも知ってるけど、見たことはない。哲学堂とか飛鳥山は昔散歩記をブログに書いた。中でお薦めはアドミュージアムかな。科学未来館も面白い。僕は歴史系だから、科博ではなく東博の方が好きで、学生時代はヒマなときによく行っていた。今は高くなってしまったし、コロナで予約制だからずいぶん行ってないな。

 それぞれ面白いところだと思うけど、見学できる場所としては国会議事堂よりも日本銀行の方が面白いと思う。(なお、コロナ禍で見学が制限されているところが多いので、それぞれ最新情報を確認する必要がある。)美術館としては国立近代美術館も素晴らしい。工芸館に使われていた近くの旧近衛師団司令部はどうなるんだろうか。街では神保町と浅草が入っているが、河童橋新大久保、あるいは谷中なども面白い。東大直下の本郷もとても面白い。案外古い町並みが残っていて、ぶらぶら歩きに最適。東大は駒場にもあるが、旧前田邸日本民芸館も一度は行っておきたいところだろう。

 しかし「勉強になる」という意味では、東大に限らず全大学生に見て欲しいのが、東村山市にある国立ハンセン病療養所多磨全生園ハンセン病資料館である。何でも医学部生は寄生虫館に行ってレポートを書く必要があるらしいが、本当はこっちにも行って欲しい。同じ東京でもちょっと遠いかと思うが、医学部だけでなくあらゆる学部で行ってみて欲しい。人権ミュージアムが東京には少ないが、ここは必須の場所である。
(ハンセン病資料館)
 また日本最大のモスクである東京ジャーーミイも一度は見て欲しい。お寺は行ったことがあるだろうが、キリスト教の教会は入ったこともない人がいると思う。お茶の水のニコライ堂などは見学できる。ロシアの正教だから珍しいと思う。もちろんどこの教会も寺院も自由に入れるけど、なんかイスラム教のモスクだと入りにくいと思う人がいるだろう。だから皆で見学する方がいいかなと思う。代々木上原(小田急、地下鉄千代田線)から5分程度。非常に美しい建物で、イスラム教のイメージが変わると思う。
(東京ジャーミイの内部)
 東京は日本の政治経済の中心というイメージばかりが強く、震災、戦災があって古い物が残ってないと皆思ってしまいがち。でも日本の古い大学は東京に集中している。戦災を越えて残っている建物も多いので、大学は格好の散歩道だ。1位が東大になっているのは、東大生だから当然か。三四郎池もあるし古い建物が多い。前に東大散歩を書いたことがあるが、これから銀杏並木の黄葉が素晴らしい季節になる。東大博物館もあるが、現在は東大生のみ公開になっている。しかし、もっと面白いのは私立大学に多い。

 慶應義塾大学三田キャンパスにある三田演説館は福沢諭吉が演説という日本語を作って実践した場所である。重要文化財だが、いずれ国宝になると思っている。ただし、通常は外観しか見られない。時々講演会や見学会で公開されるのだが、コロナ禍で今は難しいかもしれない。他にも図書館旧館も重文。早稲田大学演劇博物館も外観が独特で素晴らしい。こっちは坪内逍遙の作ったものである。演劇に関して様々な資料を展示している。他にも会津八一記念館など興味深いし、最近村上春樹ライブラリーも出来た。
(三田演説館) (演劇博物館)
 キリスト教系の大学には趣のある建物が多い。立教大学、明治学院大学はここでも書いたが、他にもいっぱいある。学習院大学にも古い建物が多いらしいが行ったことはない。大学博物館としてはお茶の水の明大博物館だろう。東京は近代日本の文化、学術の中心だったので、探していけばいろいろな物が残っている。特に大学は一般に無料公開している資料館なども多いし、学食も一般に開放しているところがある。今は警備が厳しいし、コロナ禍で立ち入れないところが多いと思うが、一度は行って見たいところが多い。東京以外でも京都の大学にも見どころが多いらしい。「観光資源としての大学キャンパス」という観点で町を見るのも面白いと思う。
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開高健記念館(茅ヶ崎市)を見に行く

2021年02月26日 22時21分40秒 | 東京関東散歩
 神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市にある開高健記念館に行って来た。開高健は1974年に茅ヶ崎に終生の住まいを作った。2003年にそこが記念館になって公開されたが、知らない人が多いと思う。僕も割合最近(と言っても数年前だが)に知った。何しろ金土日しか開館してないから、なかなか行きにくい。今日も雨の予想だったが、何とか持ちそうな予報に変わったので行くことにした。最近開高健を読んだから、こういう時期じゃないとなかなか行きにくい。

 茅ヶ崎と言えば、一般にはまずサザンオールスターズ(桑田佳祐の出身地)で、続いて加山雄三だろう。(父親の上原謙が邸宅を構えた。)有名人の出身者、居住者が多い町で、松坂桃李や今宇宙に行っている野口聡一さんの出身地とも出ている。映画監督の森田芳光の出身地で、小津安二郎の定宿だった茅ヶ崎館もある。大岡越前一族の墓があって大岡越前祭もやっている。茅ヶ崎で開高健を思い出す人はほとんどいないだろう。

 そんな茅ヶ崎だが行くのは初めて。遠いけれど乗り換え一回で行ける。上野駅で上野東京ラインの熱海行に乗って、ウトウトしてる間に着いてしまう。スマホでバスを調べたが、時間が全然違ってる。改札を出て南口寄りに観光案内所があり、ガイドマップが置いてある。初めて行く人には必須だ。コミュニティバスに開高健記念館というバス停があるが、時間が合わないので歩くことにした。徒歩20分とあるから何とかなるだろうと思ったが、まあ近くまでは問題なく行ける。問題は近くに案内が少ないことで大回りしてしまった。
   
 2枚目の写真にあるように、今も「開高健 牧羊子」と刻まれた表札のままである。入ると玄関前に碑がある。「入ってきて人生と叫び 出ていって死と叫ぶ」。館内では写真を撮らなかったが、戦場のヘルメットや釣り道具や酒、本が集まっている。「パニック」のアイディアの基となった新聞記事、開高が携わったサントリーの新聞広告、人生折々の写真など貴重な資料がいっぱいだった。主のいない書斎がそのまま保存され外から見られる。
  
 庭を歩けるが、開高は「哲学の小途」と名付けていた。開高家の本籍は福井県で、中野重治と同じ村だった。そのゆかりで庭には越前スイセンが植えられて今見頃だった。記念館には開高健の流通している本も集められて購買できる。全然知らない人には意味が無いところだと思うけど、そういう人はもともと来ないだろう。現代史の貴重な資料が残されていて僕は面白かった。
  
 記念館のそばに「茅ヶ崎ゆかりの人物館」というのがあって、共通券もあったから行ってみたが、ここは入る必要はないと思う。記念館の所在地は「東海岸南」だが、開高邸から海は見えない。砂防林があるからだ。5分ぐらい歩いて国道を越えると海が見えてくる。堤防まで行くと下が砂浜である。遠くに江ノ島が見えた。松林の中は散歩道が整備されている。歩きながらサザンビーチを目指す。途中に野球場があり、そこに国木田独歩の文学碑がある。
  
 明治の文学者国木田独歩は結核のため36歳で亡くなった。亡くなる前は茅ヶ崎にあった有名な結核病院、南湖院に入っていた。ここは当時非常に有名だった病院で、名前の「南湖院」はいかにも湘南っぽいけれど、実は所在地の地名である。(ただし「なんご」と読むらしいが、病院は「なんこいん」である。)平塚雷鳥の愛人だった奥村博史や詩人の八木重吉なども入っていた。近代文学史、思想史に大きな意味を持った場所だが、戦後進駐軍に接収され、現在は滞在型有料老人ホーム「太陽の郷」になっている。第一病棟などが現存していて公園として公開されている。ここも行きたかったのだが、雨がパラパラしてきたから今回は止めることにした。
 (茅ヶ崎館)
 そこでサザンビーチ前で曲がって「茅ヶ崎館」を探すことにした。まあここは現役の旅館だから外から写真を撮って帰ることにした。ビーチ沿いには夏ならばオシャレそうな店が並んでいたが、緊急事態下の冬の曇天(時には雨がパラパラ)だから、特にビーチリゾート感はなかった。でも町全体に何となく夏っぽいムードがある町だ。僕は一度も湘南ビーチに行ったことがない。千葉や伊豆はあるが、混んでそうなところは行きたくない。だから鎌倉と小田原の中間地帯は全然知らないが、そこにも興味深い史跡はあるので今後また行きたいと思った。
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菅谷館と嵐山渓谷ー武蔵嵐山散歩

2020年11月26日 22時58分02秒 | 東京関東散歩
 埼玉県に嵐山(らんざん)町というところがある。なんで嵐山かというと、昭和初期に「京都の嵐山に似ている」と言った人がいて、1967年の町制施行に際して町名にしてしまった。日本各地の観光地に名前を付けたと言えば、明治の大町桂月が思い浮かぶが、こっちは本多静六という人である。誰だよ、知らないよと思ったが、調べてみると「公園の父」と呼ばれた東大教授で、すごい大人物だった。そのことはまた後述する。

 嵐山町になる前は菅谷村で鎌倉時代の武将・畠山重忠ゆかりとされる「菅谷館」(すがややかた)がある。国指定史跡で、続日本百名城に選定されている。ここには一度行きたいと思っていたので、紅葉の季節に合わせて訪ねてみた。どこら辺にあるかと言えば、東武東上線の池袋駅から1時間に一本出ている「川越特急」小川町行きに乗って54分。東松山市の北にあたる。比企丘陵が広がり、中世・戦国の城が集まっている地帯だ。

 駅に情報センターがあって、パンフや地図が入手できる。バスもあるが、史跡めぐりには不便。駅から国道を越えて15分歩くしかない。案内はあちこちにあって、迷うことはない。館跡に「県立嵐山史跡の博物館」が設置されている。館跡は相当に広くて、歩きがいがある。史跡公園になっていて、散策は自由。関東の戦国時代のことは以前に書いたけれど、扇ガ谷上杉山内上杉、さらには小田原の後北条氏をめぐる争いの最前線になった地帯だ。だから鎌倉時代のまま残っているわけじゃなくて、戦国期に補修されている。
   
 上の2枚目は拡大しないと判りづらいが、館跡の高台に作られた畠山重忠像である。重忠像は「嵐山史跡の博物館」にもある。ここは思ったより小ぶりな博物館で、歴史ファン以外は無理して見なくてもいいかなと思った。僕もきちんと見なかったけど、館内で写真が撮れた。
   
 畠山重忠は秩父氏の一族で、源頼朝の信頼が篤い有力御家人だった。後世「武士の鑑」とうたわれた。宇治川合戦や一の谷の戦いでの活躍が「平家物語」に描かれている。1204年に「畠山重忠の乱」で滅ぼされたが、北条氏の陰謀と言われる。生まれは今の深谷市といわれ、そちらに「畠山重忠公史跡公園」があって墓所もあるという。もう少し「菅谷館」の散策を紹介。
   
 ところで、嵐山町にはもう一人、重要な歴史的人物の足跡がある。それは木曽義仲である。「木曽」と言うから長野県出身かと思うと、実は武蔵の生まれである。父は源義賢で、為義の次男にあたる。つまり、源義朝の弟である。義賢は義朝と対立し、義朝の子・義平に討たれた。2歳の義仲は木曽に逃れて大人になって、北陸から京都に攻め上ったわけである。父義賢の墓は大蔵館跡にあるが、ちょっと離れていて今回は行けなかった。菅谷館から南へ都幾川(ときがわ)沿いにずっと歩くと義仲の史跡がある。川沿いに桜並木が続き、満開時は素晴らしいだろう。
   
 最初の写真は木曽義仲公顕彰碑である。歴史書の中では悪役か、そうじゃないとしても脇役程度の義仲だけど、関係する地元では顕彰されている。これがあるのは「班渓寺」で、結構場所が探しにくかった。3枚目は「木曽義仲生誕地の碑」で、4枚目は義仲の妻、山吹姫の墓とされる。
 
 その手前に鎌形大蔵神社があって、それが上の写真。ここに「義仲産湯の清水」があるというが、見なかった。もともとは坂上田村麻呂が宇佐八幡から勧請したという。この地の源氏勢力に信仰されたのだろう。
   
 そろそろ疲れてきたのだが、せっかくだから紅葉の季節に嵐山渓谷に行こう。これがまたずいぶん遠く、30分か40分歩くことになる。県道を歩き続けて、裏側から渓谷に近づくと案内版があった。あまり詳しく調べていかなかったので、行き方がよく判らない。渓谷に着いても最奥に与謝野晶子歌碑があると出ているが、もういいやという感じ。一面紅葉みたいな絶景を期待していたら、そうじゃなかったので、少しガッカリしたのである。
   
 上の1枚目の写真は「展望台」。2枚目はそこからの風景。最後の碑は「嵐山町名発祥の地」である。まあ「嵐山」は言い過ぎだと思ったが、昔はちゃんとした道や橋も出来ていなくて、もっと風情があったのだという。またいずれ別の季節に訪ねてみたいなと思った。最初に挙げた本多静六博士だが、埼玉県久喜市の出身で全国の多くの公園の設計、改良に携わった。日比谷公園や明治神宮、北海道の大沼公園、日光、箱根から軽井沢、小諸、大阪の箕面公園、奈良公園、湯布院温泉など「近代日本の風景美」に大きな貢献をした人だった。ところで、歩くのは距離があり、車で行くほど遠くもない。武蔵嵐山にはレンタサイクルの整備を是非望みたい。
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鎌倉文学館の小津安二郎展から鎌倉大仏へ

2020年09月23日 22時01分11秒 | 東京関東散歩
 9月19日に鎌倉文学館小津安二郎展を見に行った。もう終わっているんだけど、一応写真を載せておきたいと思って。小津はきっかけで、もともと国登録有形文化財の鎌倉文学館に行ってみたかった。旧前田侯爵の別邸だそうで、三島由紀夫の「春の雪」に出てくるという。明治期に火事で焼失していたものを、1936年に洋館として再建したもの。前田邸と言えば駒場に本邸が残っているが、どっちも前田利為陸軍中将(戦死で大将)が建てた。さすが百万石の大名家の壮麗さだが、当主戦死のため相続税が免除されたという。
   
 鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて2駅、由比ヶ浜で降りる。バスや歩きでも行けそうだが初めて行くところは案内通りに行く方がいい。鎌倉も鶴岡八幡宮や北鎌倉の建長寺、円覚寺なんかは行ってるけど、鎌倉駅より西の方は実は一度も行ったことがない。若い頃に千葉県の市川に住んでいた時は、総武線(横須賀線)で一本だった。今は乗り換えも面倒で鎌倉もあまり行かない。江ノ電も一時は外国人客が多くて乗るのも大変という話だったが、今はもちろんそんなに混んではいない。駅からは案内通りに進んで約7分程度。
 
 山の方にゆるゆると登っていくと緑豊かな地区に入っていく。鎌倉文学館の門を入ると、トンネルがあるので驚いた。文学館内部は一切写真を撮れないので、庭から建物を撮るしかない。春はバラが咲くことで有名だというが、建物がピクチャレスクで見応えがある。中にはいると「鎌倉文士」の紹介がある。作家たちがこんなに鎌倉にいたのか。高見順の戦時期の日記に鎌倉に住む作家たちの様子が記録されているが、最近の作家も結構多い。
(小津安二郎展)
 小津安二郎展では幼児期から戦後に至るまで、日記や手紙などの実物資料がいっぱいあった。まあきちんと読むまでの気は起こらなかったけど。それにしても没後60年近いというのに、ずいぶん残されている。映画界初の芸術院会員だっただけのことはある。初のカラー作品「彼岸花」では赤いヤカンが出てきて印象的だったが、小津が特注させたのかと思っていた。そうしたらスウェーデンのコクムス社製という。もうすでに廃業している会社らしいが。

 最近神保町シアターの原節子特集で、「晩春」「麦秋」「小早川家の秋」を見直した。「麦秋」は3度目だが、他の2本は若い時に見て以来何十年ぶり。「小早川家の秋」は宝塚映画で作った映画で伏見の酒造家の話だが、「晩春」「麦秋」は鎌倉が舞台になっている。北鎌倉駅も画面に出てくるし、電車内のシーンもある。両者とも原節子演じる「紀子」の結婚をめぐる話だが、今から見るとずいぶん「変」である。紀子はすでに「適齢期」を過ぎつつあるが、その背景には「戦争」がある。戦後4年目、6年目の映画なんだから、戦争の影があるのは当然だ。「晩春」では戦争中に病気をしていたが、ようやく回復したのである。

 鎌倉文学館から大仏までは徒歩15分程度。一度も行ったことがないので、寄ってみた。長谷寺も途中にあるが時間の関係で省く。大仏があるお寺は正式には高徳院という。大仏がいつ作られたか正確には判っていない。鎌倉初期には出来ていたらしく大仏殿もあった。何回か地震や津波の被害を受けているが、鎌倉期の貴重な仏像として国宝に指定されている。お土産屋も並んでいて、栄えている感じがする。観光客も多かったが、あまり見ないでバスで帰ってきた。本当は大仏の中にも入れるということだが。
  
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白旗塚古墳と伊興寺町散歩

2020年05月02日 17時37分07秒 | 東京関東散歩
 だんだん暑くなってきて、陽射しも厳しくなってきた。マスクをしてると熱中症になりかねない。そうじゃなくても、マスク型に日焼けしそうで嫌だ。4月下旬は雨も多かったが、気持ちよく晴れ渡る日もけっこう多かった。そんな好天に家にいるのも鬱屈するが、今年はやむを得ない。しかし、誰とも会わない地元散歩ならいいだろうと、何十年ぶりに地元の史跡を歩いてみた。数日前の曇天の日のこと。

 僕の住んでるのは東京・足立区の北部で、もう少しで埼玉県である。もっとも江戸時代までは同じ武蔵国になる。埼玉と東京の境目には毛長川が流れている。「けなががわ」が正式なんだろうが、地元では「けながわ」と呼んでいた。毛長川の自然堤防や後背湿地が広がる地域には、弥生時代から人が住んでいた。僕の小さい頃はまだ田園地帯だったけれど、農家の同級生は畑を掘ると土器が出るんだよと言っていた。古墳群もあったが、「白旗塚古墳」だけが残されている。
   
 今は「白旗塚史跡公園」として整備されている。公園が出来たのは1987年のことで、公園が出来てからちゃんと行ったのは初めてかも知れない。「白旗塚」という名称は、前九年合戦の時に奥州へ向かう源義家がここを通りかかって源氏の白旗を立てたという伝説から来ている。古墳自体は6世紀前半のものというが調査はされていない。江戸時代の絵図には8基の古墳が描かれているというが、他の古墳は取り壊されてしまった。公園には埴輪のレプリカが置かれていた。

 場所は東武伊勢崎線竹ノ塚駅西口から徒歩15分ぐらい。西口から少し行って尾竹橋通りを北上する。(詳しい行き方は省略)。今は「西竹の塚」なんて無粋な地名に変えられたが、元は「伊興」(いこう)という地名だった。白旗塚付近の信号は「伊興白旗」である。その周辺には多くの寺が集合していて「伊興寺町」と呼ばれる。関東大震災で浅草などにあった寺院が焼失して、この周辺に集団移転したのである。「伊興白旗」信号を左折すると、10以上の寺が伊興遺跡公園まで集合している。皆が由緒あるわけでもなく、何の案内板も立ってない寺の方が多い。だから数もカウントしなかった。
   (法受寺)
 まず最初の「法受寺」だが、ここは「牡丹灯籠」由緒の寺で、「三遊亭圓朝の怪談を読む」で触れた。「牡丹灯籠」の碑がある。(上の2枚目)このお寺は「新幡随院」と呼ばれる歴史ある名刹で、怪談噺の中では、美女の幽霊に見込まれた若侍が法力の高い新幡随院の和尚に頼るという筋になっている。922年に下尾久で創建され、その後下谷に移転した。徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の墓(上の3枚目)があるぐらい格式高い寺だったが、震災後の1935年に現地に移った。
  (浄光寺)
 隣が浄光寺で、特に史跡もないようだが、ここは父親の葬儀を行ったお寺である。菩提寺は館林の曹洞宗のお寺だが、ここは浄土真宗。地元でやる必要からホールだけ借りたわけである。境内には親鸞聖人の像(上の2枚目)、蓮如上人の像(上の3枚目)があった。
 (伊興遺跡公園)
 幾つかの寺が続き、氷川神社を右手に見ながら歩いて行くと「伊興遺跡公園」に出る。ここも以前1回来ただけ。縄文末期から古墳時代にかけての遺跡が出ている。展示施設があるが、今は公園内にも入れなかった。竪穴式住居も復元されている。そこから裏の道をたどって元の尾竹橋通りに向かう。
   (易行院)
 門構えだけ載せても意味ないから、史跡があるところだけ。「易行院」には「助六の墓」(上の2枚目)がある。と言われても助六って誰? 歌舞伎に出てくる「花川戸助六」という人がいて、実は曾我五郎という設定だそうだが、侠客として人気が出て独自の芝居がたくさん作られた。実在の人物ではないが、モデルと言われた人がいて、7代目市川團十郎が1812年に助六とその愛人揚巻の墓を建てたんだという。ところで易行院の奥に「5代目三遊亭円楽の墓」(上の4枚目)がある。吉河家の墓で、1972年の日航機ニューデリー事故で亡くなったCAだった妹さんの墓もある。
  (東陽寺)
 次は東陽寺。ここは史跡が多い寺で、やはり震災後に八丁堀から移っている。塩原太助の墓があるというので、探し回ってしまった。寺の門前に置かれた墓石がそうなんだろう。塩原太助も誰?って感じだろうが、これも圓朝の落語になっていて、桂歌丸で聴いたことがある。上州水上から裸一貫で江戸に上って、炭問屋で大成功した人物である。成功後も質素な暮らしをして、社会事業に尽力して戦前は修身の教科書に載っていたという。「炭団」(たどん)を発明したという。
  (東陽寺)
 東陽寺には他にも、河村瑞賢(かわむら・ずいけん)の追悼碑(1枚目)や戸田茂睡(とだ・もすい)の歌碑(2枚目)もある。河村瑞賢は江戸時代初期に東廻り航路西廻り航路を開いたり、大坂の治水事業などを行った人物。戸田茂睡は江戸初期の歌人、歌学者で、国学の先駆けの一人とされる。名前ぐらいしか知らないけど。お堂の脇にある「十六羅漢」が面白かった。
  (東岳寺)
 尾竹橋通りに戻って駅方向に戻る。その頃から天気が崩れかかってきたので急がないと。前沼交差点に近づくと、東岳寺がある。ここは小さいけど、緑豊かである。安藤広重の墓(2枚目)があることで知られている。今ではそれは誰? って思う人もいるか。昔の教科書には「安藤」って載っていたけど、今は「歌川広重」である。「東海道五十三次」の浮世絵で有名だが、安藤は俗名(本名の姓)であって、絵師としては「歌川広重」が正しい。雨がかなり降ってきたので急いで帰る。都心部にあったお寺が移ってきただけあって、江戸時代の有名人の墓がけっこう集まっている地域なのである。
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さくらを見る会ー柴又散歩

2019年12月20日 23時03分31秒 | 東京関東散歩
 葛飾区柴又の散歩記。柴又は案外行きにくい。大方は京成金町線柴又駅から行くだろう。金町線というのは、京成高砂から柴又を経て金町駅に通じる短い線。金町はJR常磐線も通じている(が、JRじゃなくて東京メトロ千代田線しか止まらない)。寅さん記念館で昔の寅さん映画のビデオを見たら、京成電車が「押上」行になってたけど、今はそれはあり得ない。昔は上野や押上への直通電車があった。2010年に高架化され、すべての電車が金町ー京成高砂間の往復となったという。(今初めて知った。)
  
 駅前に「男はつらいよ」の寅さん像が造られたのが1999年。寅さんだけでは寂しいと「見送るさくら像」も2017年に立てられた。どっちもカメラ(スマホ)を向ける人でいっぱいだが、平日なら少し待てば大丈夫だろう。僕は寅さん像も初めてだけど、さくら像の方が見たい。実は寅さん映画の傑作が相次いだ70年代初期から半ばに掛けての倍賞千恵子が大好きなのである。だから「さくらを見る会」。
   
 倍賞千恵子はデビュー時から「下町の太陽」として人気を博し、寅さんシリーズでは助演で支えた。観客はどうしても渥美清とマドンナ女優を見てしまう。バイタリティあふれる妹もいて、どうも倍賞千恵子は「美人女優」と認識されず損をしてる。でも70年代半ばの寅さんシリーズを見ると、倍賞千恵子演じる「さくら」の美しさにはっとさせられる瞬間がある。上の写真は「寅さんから見たさくら」「さくらから見た寅さん」「寅さん像下の山田洋次の文章」「さくら像下の山田洋次の文章」。
 
 駅前から間違いようもなく帝釈天参道に出る。一回車道を渡るが、そのまま少し曲がりつつ帝釈天に至る。この辺りは文化庁の「重要文化的景観」に2018年に指定された。確かに古き良き情緒を感じられるが、案外短い。映画では全体を映さないから、浅草の仲見世ぐらいありそうな感じを受けるが、そこまでではない。昔からの団子屋に加えて、くず餅の船橋屋や亀戸升本など他地域の店もあった。
  
 参道はどうしても他の客が映り込んでしまう。撮ってる時は自分の意識内でシャットアウトしてるわけだが、後で見ると人が大きすぎる。それが帰りにまた通ったら、夕陽が向こう側から差し込み、客も少なくなって街灯も点いていい感じ。
  
 参道が終わると見えてくる山門が「二天門」。通れば題経寺(だいきょうじ)である。1629年開基と伝えられる日蓮宗寺院だが、この地域は下総中山の法華経寺の勢力が強く、その影響で開かれたと思われる。帝釈天とは何だとは僕もよく知らない。調べれば判るから省略。「庚申」(こうしん、かのとさる)の日が縁日で賑わう。漱石の「彼岸過迄」にも出てくるというが忘れた。現在のお堂がいつ建ったのか、全然出て来ないが、特に文化財指定もないんだから、割と新しいんだろう。
  
 帝釈堂の周りには仏教の縁起を彫った彫刻がズラッとあって「彫刻ギャラリー」と呼ばれている。庭園と一緒に有料で公開されているが、是非見るべき。1922年から1934年にかけ彫られたもので、仏教説話に基づく意味が書いてあるが不案内で判らない。庭園も見終わって江戸川土手に向かうと、お寺の外に石柱があって名前が彫ってあった。写真を拡大すると、渥美清倍賞千恵子三崎千恵子の名が刻まれている。その隣が春風亭柳昇で、昇太の師匠だった落語家。
   
 江戸川土手に登ると、広々して気持ちがいい。映画でも背景によく映ってる塔のような施設は「取水塔」で、「東京水道名所」に選ばれている。塔は二つあって、映画の背景によく出てきた。1枚目の写真左に見える「金町浄水場」で浄水され、東京東部の水道に送られる。確か小学校で見学したと思う。
  
 上の写真が「矢切の渡し」で、3枚目が「矢切の渡し」の歌碑。今は土日祝日しか渡し船は出ない。向こうは千葉県である。30数年前に乗って渡った思い出がある。
  
 そこから山本亭を見て、葛飾柴又寅さん記念館。公園の下にある立地にビックリ。リニューアルされて、なかなか充実している。「男はつらいよ」を全然知らない人は楽しめないだろうけど、そういう人は元々入らない。ファンだったら楽しめると思う。2枚目は上の方に昔の松竹映画のポスターが貼ってあった。左から「淑女は何を忘れたか」(小津)、「陸軍」(木下恵介)、「愛染かつら」「君の名は」「東京物語」で一番右が見えないけど「二十四の瞳」。「山田洋次ミュージアム」が併設されている。
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柴又の𨗉渓園と山本亭ー東京の庭園⑧

2019年12月19日 22時40分54秒 | 東京関東散歩
 東京もそろそろ散歩の季節が終わりつつあるが、関東の冬には時に「陽だまり散歩日和」がある。今年は特に暖冬らしいから、まだまだ庭園散歩ができるかもしれない。都立庭園9つのうち7つに行ってみたが、紅葉の季節にはスタンプラリーもあって動機付けになる。しかし、東京には国営(新宿御苑や皇居東御苑)もあれば、区営や私営の庭園もある。夜に浅草で浪曲と落語を聞いた日、昼間は暖かな一日だったのでしばらくぶりに葛飾の柴又へ行ってきた。ここにも庭園がある。

 今年は「男はつらいよ」公開から50周年。なんと新作が公開されるということで、柴又も観光客が多くなりそうだ。「男はつらいよ」シリーズを見ていると、柴又帝釈天は東京中の人がよく行く一大観光寺院のように思えてくる。時々偶然のように寅さんとマドンナが柴又で再会したりするが、柴又はそんなに誰もが行くとこじゃない。地元の人を除けば、映画で知られたところだと思う。(客が多いのは浅草がダントツで、次は巣鴨のとげ抜き地蔵だろう。)僕も柴又に行ったのは2回だけ。一回は千葉県市川市に住んでいたときに「矢切の渡し」を使って往復した。だから京成線柴又駅を利用するのも2回目だ。

 柴又全体の話はまた別にして、今回は庭園に絞って。まず「𨗉渓園」(すいけいえん)だが、「すい」の字が「遂行する」じゃなくて難しい。誰も書けそうもない庭園で、名前を言われても判らない人が多いだろう。これは柴又の中心、映画では笠智衆が御前様を演じていた「帝釈天」つまり「経栄山題経寺」(きょうえいざん・だいきょうじ)のお庭のことである。そんなものがあるのかと思う人がいるかもしれない。「彫刻ギャリー」とセットで有料になったゾーンである。本堂の奥の方に回廊で続いている。
   
 上の写真で判るように、この庭園はとても素晴らしい。ウィキペディアで調べると、向島の庭師永井楽山の設計により1965年に作られたという。いわゆる池泉回遊式だが、今までに訪れた庭園は自分で歩き回るが、ここは周りの回廊から見る形式である。そこが不満でもあるが写真としては面白い面もある。まあ時間的には少し短いかな。本堂から回廊を歩くと、こんな感じで建物に入る。
   
 彫刻ギャラリーも含めて庭園の回廊めぐりも、靴を脱いで回る。靴下だけだから冬は寒いかもしれない。途中に休憩できる場所がある。それが最初の写真2枚目と下の写真1枚目。ちょっと庭に突き出た場所にある。無料でお茶を飲めるから、ここで休んで写真を撮ってる人が多い。400円掛かるが、柴又帝釈天へ行ったら是非寄ってみるべきところかなと思う。
 
 そこから少し歩くと「山本亭」がある。元は瓦工場があったが関東大震災で倒壊し、その後台東区でカメラ製造をしていた山本栄之助氏が庭園を整備した。1933年頃に完成したらしい。近代和風建築と純和風庭園が見事に調和とパンフに出ている。葛飾区が1988年に取得し、お庭を見ながら緋毛氈に座って抹茶を飲める喫茶をやってる。最近、外国人観光客に人気が出ていて注目されている。
   
 喫茶なしなら100円、近くの葛飾寅さん記念館との共通券は550円。僕はお茶は飲まなかったが、それはこのレベルなら他にもあると思ったからだ。ガラス戸越しに庭園を見るだけだから、はっきり言って日本人には面白くない。それだけで庭に出られないのである。正直、なんだという感じ。裏を回って「寅さん記念館」に行ける。その道も案外つまらない。今回は「庭園散歩」を目的にしているので、全然散歩にならないのでガッカリなのである。外国人観光客には珍しい日本情緒なんだろうが。隣が「柴又公園」でその下に「寅さん記念館」がある。その公園に登ると、山本亭が見晴らせる(最後の写真)。
   
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浜離宮ー東京の庭園⑦

2019年12月14日 21時10分12秒 | 東京関東散歩
 東京の都立庭園の中で「浜離宮」にはしばらく行ってなかった。ここは隅田川が海に出る辺りで、浅草から隅田川を下る「水上バス」の発着所がある。昔は本当に「ポンポン蒸気」という感じの船で、ノンビリ水辺から東京を楽しめた。下町の定番デートコースで、僕も何回か行った気がする。実はそれ以来で、しばらくぶりで行ってみると、約25ヘクタールという大きさが印象的で風格の大きな庭園だった。今も海水を取り入れ「潮入の池」を楽しめる。国特別名勝特別史跡。正式名称は「浜離宮恩賜庭園」。
   
 浜離宮も芝離宮や小石川後楽園のように、周りをビルで囲まれている。だが園内が広いので圧迫感が少ない。上の写真で見るように、むしろ借景として楽しめるんじゃないだろうか。どうしてそこまで広いのかというと、ここは大名庭園ではあるけれど、もっと格上の「将軍庭園」なのである。1654年に4代将軍家綱の弟で甲府藩主だった徳川綱重が海を埋め立てて作った。綱重の子家宣が6代将軍になったのを契機に将軍家の別邸になったと案内に出ている。それ以来「浜御殿」と呼ばれ、鷹狩り、鴨猟場として使われた。今も正月には鷹を放つ「放鷹術」が行われている。(2、3日)
   
 訪ねた日は静岡旅行の前で、予報では晴れだったのに実際には曇っていた。例年なら紅葉も終わりだが、今年は東京都の「庭園へ行こう」というホームページを見ても、まだ各園の紅葉情報が載っている。ただ浜離宮は場所柄か日当たりが良さそうで、紅葉は盛りを過ぎていた感じだった。「浜御殿」は明治になって皇室所有の「浜離宮」となり、1879年にグラント米国前大統領が訪日した際は浜離宮の延遼館に一ヶ月間滞在し明治天皇が訪れた。浜離宮が「迎賓館」だったのである。延遼館は日本初の洋風石造建築だが、1892年に老朽化で解体された。舛添知事時代に再建計画があったが凍結。
   
 浜離宮は駅で言えば、都営地下鉄大江戸線汐留、築地市場が直近となるが、JRで言えば新橋駅12分。正門に当たる大手門から多分始めて入ったと思うが、これはまるでお城とお堀。さすが将軍の庭だと思う。中へ入ると、かなり広くて池が遠い。基本は池泉回遊式庭園だが広くて歩き甲斐がある。
  
 海辺というか川辺に出るとこんな感じ。4枚目は海水の取水口。
   
 気持ちのいい道を歩く。中が広いから、ところどころ池も川も見ない山の中の小道みたい。
  
 園内にはかつて多くの建物があった。少しずつ再建されていて、「中島のお茶屋」(下1枚目写真の池向こう)では抹茶などを頂けたらしいが、工事中で見られなかった。「松のお茶屋」「燕のお茶屋」「鷹のお茶屋」が再建された。まだ古色がないから風情を感じないけど。その周辺を水辺を中心に。
   
 大手門近く左手に「三百年の松」がある。行く時には逆方向に歩いていて気づかなかった。この松は6代将軍徳川家宣が植えたというから、それが本当なら確かに300年だ。表から見ると大きく広がった感じに見えるんだけど、裏を見てみると遠くに根があってずっと広がっているのに驚いた。
  
 新橋駅から浜離宮に行く途中に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」がある。日本最初の駅があった場所だ。前に見てるから今回はパス。
  
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六義園ライトアップー東京の庭園⑥

2019年12月07日 20時58分22秒 | 東京関東散歩
 JR駒込駅近くの六義園(りくぎえん)は、毎年秋に紅葉のライトアップをしている。(12月12時まで。夜21時まで開園。入園は20時半まで。)都立庭園で夜間に時間延長をしてライトアップしているのはここだけ。六義園は以前記事を書いたこともあるが、改めてライトアップだけ取り上げたい。

 「東京には緑がない」「東京砂漠」だなんて昔はよく言ってたもんだけど、そんなことはなくって東京には江戸時代からの「大名庭園」がずいぶん残っている。大都会だから人間関係は大変かもしれないが、案外心休める場はある。それらの庭園の多くは都立だから安いし、65歳を過ぎるとさらに安くなる。健康を考えて、軽く歩けて緑に親しめる場があるのはありがたい。
   
 ライトアップ期間は駒込駅直近(2分ぐらい)の「染井門」が開いている。いつもは閉まっていて、もっと南へ10分ほどの正門しか開いてない。つまり通常期は池をめぐって一周するしかないが、この時期は片方から入って抜けることが可能。夜だから寒いし、正門から入って染井門から出れば駅に近くて便利。多少は光がある時間の方が池面に映る風景が見られるし、染井門に近い「つつじ茶屋」ではお団子やこんにゃくなどを売っている。つつじ茶屋を出たあたりで、一番の見どころがある。紅葉がすごいし、さらに下の方には青い光を当てて川のような演出をしている。

 それらもいいけど、正門から入ってしばらく歩いたあたりの池も素晴らしい。夕方の光が残る時間なら、空と水面と池向こうのライトアップが趣が出る。スマホで撮ってるカップルや外国人が多いけど、急いで取ると失敗する。光量が少ないから仕方ない。念のためいっぱい撮っておいた方がいいかも。
  
 六義園は5代将軍綱吉の側近として名高い柳沢吉保の下屋敷だったところ。なんだか柳沢吉保は歴史の悪役という感じだが、子孫はずっと続いた。上州館林藩士から館林藩主だった綱吉に従って幕臣となり、川越藩、甲府藩主となった。その後甲斐国は幕府直轄となり、柳沢家は大和郡山に移された。幕末まで続き、六義園もずっと柳沢家の屋敷だった。水戸藩の「小石川後楽園」と並び、日本を代表する大名庭園だ。明治以後は荒廃し、そこを三菱の岩崎家が買い取って修復した。東京に残る庭園は、「大名から三菱へ」という系譜が多い。国特別名勝
 
 「六義園」の名称は、「古今和歌集」の和歌の分類法によるという。それにちなんで園内にはいろいろ趣向があるが、夜行くと全然判らない。ゆっくり紅葉を見るなら昼間の方がいい。やはり夜は寒くなって、急いで通り過ぎる感じになってしまう。でも一度は訪れてもいいライトアップかなと思う。
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真姿の池と武蔵国分寺跡ー国分寺散歩

2019年12月02日 22時47分26秒 | 東京関東散歩
 中央線国分寺駅前にある「殿ヶ谷戸庭園」を見てから、しばらく南へ歩く。都立庭園に国分寺散歩マップが無いのは困るけど、あちこちに「国分寺跡」の表示があるので間違えないだろう。「不動橋」(一里塚信号)を右(西)へ曲がって、気持ちいい道を歩く。「お鷹の道」までは案外遠いが、落ち着いた家並みが続くので飽きない。やがて「お鷹の道」入り口が見えてくる。尾張藩の鷹狩りの狩り場だったところで、そこに整備された小道が素晴らしい。ホタルのためにカワニナ保護の看板がある。
   
 ここは「お鷹の道・真姿の池湧水群」として環境庁(当時)の「名水百選」に選ばれている。選定は1985年のことだから、ずいぶん昔のことだ。僕はそれ以来日本各地で、多くの「名水」を訪ねてきた。「水」が好きなのである。それなのに、ずっと前から行きたかった国分寺は初めてである。初めて来て、こんなに気持ちのいい道が東京にあったのかと思った。湧水が豊富なうえ、透きとおっている。「お鷹の道」を歩くのは楽しい。やがて「真姿の池」方向への曲がり道になる。
   
 遠くに赤い鳥居が見える。「真姿の池」はどこだと思うと、その鳥居の場所だった。鳥居から池の中へ道が通り、向こうにお堂がある。池の水は透きとおっているが、樹に囲まれて薄暗くてよく見えない。池を通って先へ行くと階段があり、何があるんだろうと登ってみたら、旧国分寺の「僧寺北東地域」だった。何もない場所だけど、説明板があった。戻って「お鷹の道湧水園」へ入る。
   
 この「湧水園」は2009年に作られた施設で、入園料100円が必要だが入る価値がある。(入園料はすぐそばの史跡の駅「おたカフェ」で払う。一帯は国分寺崖線に面したところで、園内に湧水もある。この地区の地主の家だった場所で、入り口は風格ある門(2階に上れる)になる。庭の端には旧国分寺にあったという「七重の塔」がミニチュアで復元されている。また「武蔵国分寺跡資料館」(3枚目の写真)がある。旧武蔵国分寺を知るためには必見で、発掘で見つかったという観音像も展示されている。瓦などは別にして、旧国分寺由来の仏像としては唯一のものだそうだ。
   
 「武蔵国分寺跡」はすぐ近い。もっとも国分寺の区域全体は広いので、相当あっちこっち行かないといけない。今は何もなくて「解説板」があるだけだから、まあ金堂講堂があったところだけでいいだろう。日本中に作られた国分寺だが、そのまま残っている寺院はない。諸国の国分寺も中世になって荒廃したところが多い。武蔵国分寺は鎌倉末期の「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」(新田義貞と鎌倉幕府の戦い)で焼け落ちた。その後再建された「武蔵国分寺」も近くにある。そこには楼門や万葉植物園があるが、古代から続く寺院ではない。「国分尼寺」の跡はちょっと離れているので行かなかった。
   
 大分疲れてきたので、駅に戻ることにする。駅と言っても今度は西国分寺。駅の方へ行く道は広大な「都立国分寺公園」になっている。「都立多摩図書館」もある。まっすぐな道は古代の「東山道武蔵路」で、線路近くに展示施設が作られている。何だかよく判らないけど、発掘した昔の道跡だ。線路の北側に「姿見の池」がある。せっかくだから寄っていこう。やっとたどり着くと、鴨が泳いでいた。静かな池である。このように湧水が多い理由を書いてある説明板があった。(写真の最後)
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殿ヶ谷戸庭園ー東京の庭園⑤

2019年11月30日 22時54分15秒 | 東京関東散歩
 関東地方では11月下旬に寒い雨が降り続いた。一週間続いた雨が上がったので、寒いけど国分寺市に散歩に行った。多摩地区でただ一つの都立庭園である「殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園」が駅前にある。大昔の武蔵国国分寺があったところだが、日本中にあった国分寺の中で市の名前になっているのはここだけだ。だから中央線の駅名も国名が付かないただの「国分寺」になっている。
    
 紅葉の名所でカメラ片手の入園者がたくさんいた。今年はどこでも紅葉、黄葉が遅れていて、都心では越年しそうな感じだ。殿ヶ谷戸庭園でもまだまだ紅葉狩りを楽しめそうだった。都心の多くの庭園が大名庭園だったのとは違って、ここは近代になって作られた別荘庭園である。北区の旧古河庭園も同様だが、今じゃ北区は都心に近いイメージだ。それに対して、殿ヶ谷戸庭園は都心からは離れたイメージはある。もっとも都庁が新宿に移転した今では、新宿まで30分もかからない通勤圏内だけど。
   
 作ったのは江口定條(さだえ)という人である。パンフには満鉄副総裁の後、貴族院議員を務めたとある。近代史上ではほぼ忘れられた人物だが、ウィキペディアに載っていて、三菱合資総理事を務めた実業家だった。東京高商(現一橋大)卒で、同校教諭も務めた。如水会(東京高商、一橋大学の後援組織)の初代総裁もしている。満州事変のあった1931年に満鉄副総裁に就任したが、翌年に民政党系を嫌った政友会の犬養毅内閣に罷免されたと出ている。1913年から15年にかけて別荘を築き、その時は「随宜園」(ずいぎえん)と名付けられていた。1929年に岩崎小彌太が買い取り「国分寺の家」として親しんだという。結局ここも三菱系の庭園だったのか。
   入り口を入ると左方向に資料館がある。広場風に芝生が広がり、その奥に木が続いている。高いところは洋風庭園で、そこから下がったところに湧水を生かした池を設けて和風庭園とする。これは旧古河庭園も同じだ。大名庭園のような大きな池泉回遊式庭園は海や川に近いところに作られた。一方、武蔵野台地国分寺崖線(がいせん)を生かしたのが別荘庭園。この地域は多摩川の河岸段丘が続いていて、その崖に沿って湧水が多い。湧水を利用した「治郎弁天池」を整備したのは、1934年のことで岩崎家になってから。
  
 上の写真の真ん中が湧水の出ているところ。池から上に登っていくと「紅葉亭」が作られている。そこは集まりに借りられる場所でもあるらしいが、庭園に向かった部分は休憩所として開かれている。そこから見る紅葉が素晴らしいわけだが、人も多くて写真は撮りにくい。それに昼間は逆光になる。
   
 樹を通して光がもれる様は抽象画みたいな感じ。そこから入り口に戻ると広場になるから、気が晴れる。かつて開発計画があり、庭園を守る住民運動があった。その結果、1974年に都が買収し開園した。2011年に国の名勝に指定されている。近代の庭園としては珍しいと思う。そんなに広くないし、駅から近いので散歩に最適。そこから「名水100選」指定の「真姿の池」や国分寺跡に足を伸ばしたが、それはまた別の記事に書きたい。
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旧芝離宮庭園ー東京の庭園④

2019年11月22日 21時07分25秒 | 東京関東散歩
 「東京の庭園」ミニシリーズの4回目は旧芝離宮庭園浜松町駅から徒歩1分で、駅からすごく近い都立庭園だ。その割に空いていて、お昼時に行ったけど、すごくガラガラだった。実は都立9庭園の中で、ここだけ行ったことがなかった。近くに広大な浜離宮があって、芝離宮は存在感が薄い。浜離宮は25万㎡もあって、4万㎡ほどの芝離宮は小さい感じがしてしまう。しかも周りがグルッと大きなビルになってしまって、囲まれた感じがしてしまうのだ。大きな池を回る池泉回遊式庭園
   
 園内に小高くなった山が作られていて、そこから庭園を見渡せる。そこが見どころだが、面積が小さい割に池が大きいから面白みが少ない。池をグルッと回るだけだし、池を撮ればビルの影が映り込む。これじゃ「インスタ映え」しにくいのかなと思った。日本式庭園は「池泉」が大切だから、水の得られる場所に作られた。今では別荘は高原かなんかに作るが、昔は海や川沿いの低地に作られたことが多い。芝離宮の池はもともとは海水を取り込んだ汐入湖だったが、今は締め切って淡水の池になっている。 
   
 上の写真の1枚目が海水の取水口だったところ。ここは江戸初期の大名庭園で、国の名勝に指定されている。元は埋め立て地で、1678年に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領した。幕末には紀州徳川家の屋敷で、明治になって有栖川宮家を経て、明治8年に宮内省が買い上げ、翌年に芝離宮となった。1924年に皇太子(後の昭和天皇)の結婚記念で東京市に「下賜」され、公開された。大名庭園の名残を残す4本の石柱が残っている。大久保忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたものだという。茶室の柱だったらしい。
 
 池に映るビルの影は下の写真を見れば印象的。南に東京ガス、北に汐留ビルがある。すぐ近くに劇団四季自由劇場がある。それより高速道路をはさんで、すぐ隣に都立芝商業高校がある。昔は隣に東京都公文書館があった。そこは研修で行った記憶があるが、そう言えば芝商は行ったことないな。(東京都公文書館は、今は世田谷の元玉川高校校舎に移転している。)
   
 芝離宮庭園は、正式には「恩賜」が庭園に前に入る。岩崎家が東京市に寄付した清澄庭園は「恩賜」が付かない。宮内庁管理の「皇居東御苑」は実は江戸城だが、これはまだ「恩賜」されていないわけだ。皇室から東京市に寄付されたのは戦前のことだから、わざわざ「恩賜」と言い続けるのもどうなんだろうか。国民主権の社会にふさわしくないと思うけど。ここには弓道場もあるが見なかった。曇天の日で、その影響もあってか、池に映るビルばかり印象に残った感じ。
   
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江戸と近代ー清澄白河散歩②

2019年11月17日 22時28分37秒 | 東京関東散歩
 清澄白河近辺には史跡も多いが、特に史跡と言うほどではないけれどムードある建築が豊富で、町並みを見ているだけで散歩が楽しい。古いものと新しいものが同居している。庭園・公園もあって、住んでみたいと思うほどだ。「白河」というのは、江戸時代の老中、白河藩主松平定信から来ている。定信の墓所が霊巌寺(れいがんじ)という寺にある。もっとも地名となったのは昭和の初め頃だという。深川江戸資料館に近いところにあり、多くの人が通っているけど、寺を訪れる人は少ない。
  
 霊巌寺は明暦の大火で、日本橋の霊厳島から移転したという。ここの文化財は、松平家墓所(国史跡)と江戸六地蔵5番目の地蔵菩薩像。定信墓所は近づけないように囲われている。松平定信は寛政の改革を主導した人物で、僕はどうも好きになれない。まあ地名になるほどの知名度はあるということだろう。江戸六地蔵って、全然知らないんだけど、18世紀初頭に作られ5つが現存しているという。
   
 霊厳寺の前は「江戸資料館通り」で、深川めし屋などが並んでいる。資料館そのものは単なるビルだから省略。前に見てるから、見学も略した。清澄白河駅にあった広告で、だいたいこんな展示かと判ると思う。立体的展示が多く、面白いことは面白いけど、まあ何度も見なくてもいいかな。
   
 近代建築で面白いのが「深川図書館」。清澄庭園の裏あたりにある。出来たのは1909年だと言うから、100年を超えている。その後改修はしているようだが、随所にレトロ感覚が残る。階段のステンドグラスも美しい。
  
 もう一つが「清洲寮」。1933年に作られた民間集合住宅で、一階には今はお店も入っているが、上の方は今も貸し部屋になっているようだ。実に不思議な感じだが、清澄白河には合っている。
  
 清澄庭園の周辺は2階建てのレトロなムードの建物が並んでいる。こんな感じ珍しい。
   
 こういう風情ある建物や元工場みたいな懐古物件がこの地区には多い。近くの木場公園に「東京都現代美術館」があることで、ここにもギャラリーが増えてきた。そこに「サードウェーブ」と呼ばれるコーヒー店が集まり、東京でも注目の地区になっている。「第三の波」というのは、アメリカで言われている言葉で、インスタントが第一、スタバなど「シアトル系が第二、コーヒーをワインのように芸術品として品質管理するようなものを第三と呼ぶらしい。一番有名な「ブルーボトルコーヒー」が下の一枚目。混んでたから飲んではいない。昔の清澄庭園の半分は「清澄公園」として開放されている。ここも木が立ち並んで気持ちいい空間。こんな感じが都心に残っていた。
  
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芭蕉のいた町ー清澄白河散歩①

2019年11月17日 20時18分23秒 | 東京関東散歩
 清澄庭園に行ったのをきっかけに、その周辺も歩いてみたくなった。11月上旬のことで、少し時間が経ったけれど、まとめておきたい。清澄白河駅が出来るまで、そういう地名があることもあまり知られていなかった。これは駅近くの地名「清澄」と「白河」をつなげたもの。

 近くを隅田川が流れ、清洲橋が架かっている。駅からちょっと北へ歩くと、小名木川が通っている。これは隅田川と旧中川を結ぶ運河で、徳川家康の命令で作られたとされる。江戸の物流を支えた重要河川で、時代小説などによく出てくる。隅田川に一番近い萬年橋(まんねんばし)を北へ渡ると、地名が「常盤」(ときわ)に変わる。萬年橋は江戸時代に掛けられ、北斎や広重の浮世絵に描かれた。木造の橋は関東大震災に耐えたが、1930年に震災復興計画で建て替えられた。
 (今の萬年橋と葛飾北斎「深川萬年橋下」)
 萬年橋を越えると、そこは松尾芭蕉が住んだあたりである。ほんの少し歩くと、左に案内が出てくる。「芭蕉記念館分館」とある方に行くと、途中に小さな「芭蕉稲荷神社」がある。ここが「芭蕉庵」のあったところとされている。別に芭蕉が稲荷になったわけじゃなくて、1917年に地元の人々がその場所に稲荷神社を建立したんだという。「芭蕉案跡」の碑もあるが、本当にここだったのか。まああまり詮索しても仕方ない。今は小さな神社である。(都営新宿線森下駅からも同じぐらいの距離。)
  (稲荷神社、芭蕉庵跡碑、説明板)
 松尾芭蕉はなぜ深川に移り住んだのか。もともと伊賀上野の生まれだった松尾芭蕉(1644~1694)は、仕えていた藤堂家の若君、良忠(俳号蝉吟)のもとで「宗房」を名乗って俳句を始めた。1666年に蝉吟が死去し、芭蕉は仕官を退いた。1672年に句集「貝おほひ」をまとめ評判になり、1675年に江戸へ向かった。江戸では日本橋に住み、神田川の水道工事監督をしながら俳句修行を続けた。こういうような経歴は、今まで若き俳人の苦闘期で、水道工事もアルバイトのように思われていた。それに対し、10月末に新潮文庫で刊行された嵐山光三郎「芭蕉という修羅」は新しい視点を提示している。 

 嵐山著「芭蕉紀行」「悪党芭蕉」も面白かったので、「芭蕉という修羅」もさっそく読んでみて、なるほどと刺激的だった。伊賀上野は伊勢津藩の支配下にあり、その藤堂家3代目当主藤堂高久は4代将軍家綱の大老酒井忠清の娘を正室としていた。酒井大老は権勢を振るい、藤堂家もその余録に預かる。芭蕉が江戸で有利な「利権」である水道工事に携わったのも、その一つだという。俳句じゃなくて、「水道工事監督」が本職だったのである。1680年に家綱が死んで、弟の綱吉が後継となり酒井大老は罷免される。「越後騒動」など酒井が裁いたお家騒動は再審となる。そのような政界激動を受け、芭蕉も日本橋を引き払い、スポンサーだった杉山杉風の持つ深川の家に身を潜めたのだという。

 その当否は判らないが、深川隠棲は一種の逃避行だったというとらえ方は興味深い。しかし、1882年に「八百屋お七の大火」で芭蕉も焼け出され、甲斐に避難。翌年に戻るも、「野ざらし紀行」の旅に出て、1686年に芭蕉庵で「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を作った。蛙を題材にしたことが新鮮だが、嵐山光三郎が清澄庭園で一日観察していても、池に飛び込む蛙はいなかったという。蛙が水に入るときは、端からそっと入るという。もし飛び込むとすれば、蛇など敵に襲われた時しかないというのである。そうなると、芭蕉が詠んだ蛙も逃げていたのかもしれず、この句の鑑賞にも影響してくる。
   
 芭蕉稲荷神社から川へ向かうと芭蕉記念館分室があり、2階が芭蕉庵史跡展望庭園となっている。芭蕉像が置かれ、川を遠望している。芭蕉像が見ている川の様子が3枚目の写真。そこから川沿いに芭蕉の句の展示が続く。全部載せても仕方ないから「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」。
  
 江東区芭蕉記念館がすぐ近くにある。大通り沿いに入り口があり、川の散歩コースからは入れない。小さな記念館で、別に無理して見なくてもいいと思うけど、深川近辺に芭蕉がいたということは知ってていいかなと思う。ここにも「古池や」の句碑がある。
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