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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

鎌倉文学館の小津安二郎展から鎌倉大仏へ

2020年09月23日 22時01分11秒 | 東京関東散歩
 9月19日に鎌倉文学館小津安二郎展を見に行った。もう終わっているんだけど、一応写真を載せておきたいと思って。小津はきっかけで、もともと国登録有形文化財の鎌倉文学館に行ってみたかった。旧前田侯爵の別邸だそうで、三島由紀夫の「春の雪」に出てくるという。明治期に火事で焼失していたものを、1936年に洋館として再建したもの。前田邸と言えば駒場に本邸が残っているが、どっちも前田利為陸軍中将(戦死で大将)が建てた。さすが百万石の大名家の壮麗さだが、当主戦死のため相続税が免除されたという。
   
 鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて2駅、由比ヶ浜で降りる。バスや歩きでも行けそうだが初めて行くところは案内通りに行く方がいい。鎌倉も鶴岡八幡宮や北鎌倉の建長寺、円覚寺なんかは行ってるけど、鎌倉駅より西の方は実は一度も行ったことがない。若い頃に千葉県の市川に住んでいた時は、総武線(横須賀線)で一本だった。今は乗り換えも面倒で鎌倉もあまり行かない。江ノ電も一時は外国人客が多くて乗るのも大変という話だったが、今はもちろんそんなに混んではいない。駅からは案内通りに進んで約7分程度。
 
 山の方にゆるゆると登っていくと緑豊かな地区に入っていく。鎌倉文学館の門を入ると、トンネルがあるので驚いた。文学館内部は一切写真を撮れないので、庭から建物を撮るしかない。春はバラが咲くことで有名だというが、建物がピクチャレスクで見応えがある。中にはいると「鎌倉文士」の紹介がある。作家たちがこんなに鎌倉にいたのか。高見順の戦時期の日記に鎌倉に住む作家たちの様子が記録されているが、最近の作家も結構多い。
(小津安二郎展)
 小津安二郎展では幼児期から戦後に至るまで、日記や手紙などの実物資料がいっぱいあった。まあきちんと読むまでの気は起こらなかったけど。それにしても没後60年近いというのに、ずいぶん残されている。映画界初の芸術院会員だっただけのことはある。初のカラー作品「彼岸花」では赤いヤカンが出てきて印象的だったが、小津が特注させたのかと思っていた。そうしたらスウェーデンのコクムス社製という。もうすでに廃業している会社らしいが。

 最近神保町シアターの原節子特集で、「晩春」「麦秋」「小早川家の秋」を見直した。「麦秋」は3度目だが、他の2本は若い時に見て以来何十年ぶり。「小早川家の秋」は宝塚映画で作った映画で伏見の酒造家の話だが、「晩春」「麦秋」は鎌倉が舞台になっている。北鎌倉駅も画面に出てくるし、電車内のシーンもある。両者とも原節子演じる「紀子」の結婚をめぐる話だが、今から見るとずいぶん「変」である。紀子はすでに「適齢期」を過ぎつつあるが、その背景には「戦争」がある。戦後4年目、6年目の映画なんだから、戦争の影があるのは当然だ。「晩春」では戦争中に病気をしていたが、ようやく回復したのである。

 鎌倉文学館から大仏までは徒歩15分程度。一度も行ったことがないので、寄ってみた。長谷寺も途中にあるが時間の関係で省く。大仏があるお寺は正式には高徳院という。大仏がいつ作られたか正確には判っていない。鎌倉初期には出来ていたらしく大仏殿もあった。何回か地震や津波の被害を受けているが、鎌倉期の貴重な仏像として国宝に指定されている。お土産屋も並んでいて、栄えている感じがする。観光客も多かったが、あまり見ないでバスで帰ってきた。本当は大仏の中にも入れるということだが。
  
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白旗塚古墳と伊興寺町散歩

2020年05月02日 17時37分07秒 | 東京関東散歩
 だんだん暑くなってきて、陽射しも厳しくなってきた。マスクをしてると熱中症になりかねない。そうじゃなくても、マスク型に日焼けしそうで嫌だ。4月下旬は雨も多かったが、気持ちよく晴れ渡る日もけっこう多かった。そんな好天に家にいるのも鬱屈するが、今年はやむを得ない。しかし、誰とも会わない地元散歩ならいいだろうと、何十年ぶりに地元の史跡を歩いてみた。数日前の曇天の日のこと。

 僕の住んでるのは東京・足立区の北部で、もう少しで埼玉県である。もっとも江戸時代までは同じ武蔵国になる。埼玉と東京の境目には毛長川が流れている。「けなががわ」が正式なんだろうが、地元では「けながわ」と呼んでいた。毛長川の自然堤防や後背湿地が広がる地域には、弥生時代から人が住んでいた。僕の小さい頃はまだ田園地帯だったけれど、農家の同級生は畑を掘ると土器が出るんだよと言っていた。古墳群もあったが、「白旗塚古墳」だけが残されている。
   
 今は「白旗塚史跡公園」として整備されている。公園が出来たのは1987年のことで、公園が出来てからちゃんと行ったのは初めてかも知れない。「白旗塚」という名称は、前九年合戦の時に奥州へ向かう源義家がここを通りかかって源氏の白旗を立てたという伝説から来ている。古墳自体は6世紀前半のものというが調査はされていない。江戸時代の絵図には8基の古墳が描かれているというが、他の古墳は取り壊されてしまった。公園には埴輪のレプリカが置かれていた。

 場所は東武伊勢崎線竹ノ塚駅西口から徒歩15分ぐらい。西口から少し行って尾竹橋通りを北上する。(詳しい行き方は省略)。今は「西竹の塚」なんて無粋な地名に変えられたが、元は「伊興」(いこう)という地名だった。白旗塚付近の信号は「伊興白旗」である。その周辺には多くの寺が集合していて「伊興寺町」と呼ばれる。関東大震災で浅草などにあった寺院が焼失して、この周辺に集団移転したのである。「伊興白旗」信号を左折すると、10以上の寺が伊興遺跡公園まで集合している。皆が由緒あるわけでもなく、何の案内板も立ってない寺の方が多い。だから数もカウントしなかった。
   (法受寺)
 まず最初の「法受寺」だが、ここは「牡丹灯籠」由緒の寺で、「三遊亭圓朝の怪談を読む」で触れた。「牡丹灯籠」の碑がある。(上の2枚目)このお寺は「新幡随院」と呼ばれる歴史ある名刹で、怪談噺の中では、美女の幽霊に見込まれた若侍が法力の高い新幡随院の和尚に頼るという筋になっている。922年に下尾久で創建され、その後下谷に移転した。徳川5代将軍綱吉の生母、桂昌院の墓(上の3枚目)があるぐらい格式高い寺だったが、震災後の1935年に現地に移った。
  (浄光寺)
 隣が浄光寺で、特に史跡もないようだが、ここは父親の葬儀を行ったお寺である。菩提寺は館林の曹洞宗のお寺だが、ここは浄土真宗。地元でやる必要からホールだけ借りたわけである。境内には親鸞聖人の像(上の2枚目)、蓮如上人の像(上の3枚目)があった。
 (伊興遺跡公園)
 幾つかの寺が続き、氷川神社を右手に見ながら歩いて行くと「伊興遺跡公園」に出る。ここも以前1回来ただけ。縄文末期から古墳時代にかけての遺跡が出ている。展示施設があるが、今は公園内にも入れなかった。竪穴式住居も復元されている。そこから裏の道をたどって元の尾竹橋通りに向かう。
   (易行院)
 門構えだけ載せても意味ないから、史跡があるところだけ。「易行院」には「助六の墓」(上の2枚目)がある。と言われても助六って誰? 歌舞伎に出てくる「花川戸助六」という人がいて、実は曾我五郎という設定だそうだが、侠客として人気が出て独自の芝居がたくさん作られた。実在の人物ではないが、モデルと言われた人がいて、7代目市川團十郎が1812年に助六とその愛人揚巻の墓を建てたんだという。ところで易行院の奥に「5代目三遊亭円楽の墓」(上の4枚目)がある。吉河家の墓で、1972年の日航機ニューデリー事故で亡くなったCAだった妹さんの墓もある。
  (東陽寺)
 次は東陽寺。ここは史跡が多い寺で、やはり震災後に八丁堀から移っている。塩原太助の墓があるというので、探し回ってしまった。寺の門前に置かれた墓石がそうなんだろう。塩原太助も誰?って感じだろうが、これも圓朝の落語になっていて、桂歌丸で聴いたことがある。上州水上から裸一貫で江戸に上って、炭問屋で大成功した人物である。成功後も質素な暮らしをして、社会事業に尽力して戦前は修身の教科書に載っていたという。「炭団」(たどん)を発明したという。
  (東陽寺)
 東陽寺には他にも、河村瑞賢(かわむら・ずいけん)の追悼碑(1枚目)や戸田茂睡(とだ・もすい)の歌碑(2枚目)もある。河村瑞賢は江戸時代初期に東廻り航路西廻り航路を開いたり、大坂の治水事業などを行った人物。戸田茂睡は江戸初期の歌人、歌学者で、国学の先駆けの一人とされる。名前ぐらいしか知らないけど。お堂の脇にある「十六羅漢」が面白かった。
  (東岳寺)
 尾竹橋通りに戻って駅方向に戻る。その頃から天気が崩れかかってきたので急がないと。前沼交差点に近づくと、東岳寺がある。ここは小さいけど、緑豊かである。安藤広重の墓(2枚目)があることで知られている。今ではそれは誰? って思う人もいるか。昔の教科書には「安藤」って載っていたけど、今は「歌川広重」である。「東海道五十三次」の浮世絵で有名だが、安藤は俗名(本名の姓)であって、絵師としては「歌川広重」が正しい。雨がかなり降ってきたので急いで帰る。都心部にあったお寺が移ってきただけあって、江戸時代の有名人の墓がけっこう集まっている地域なのである。
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さくらを見る会ー柴又散歩

2019年12月20日 23時03分31秒 | 東京関東散歩
 葛飾区柴又の散歩記。柴又は案外行きにくい。大方は京成金町線柴又駅から行くだろう。金町線というのは、京成高砂から柴又を経て金町駅に通じる短い線。金町はJR常磐線も通じている(が、JRじゃなくて東京メトロ千代田線しか止まらない)。寅さん記念館で昔の寅さん映画のビデオを見たら、京成電車が「押上」行になってたけど、今はそれはあり得ない。昔は上野や押上への直通電車があった。2010年に高架化され、すべての電車が金町ー京成高砂間の往復となったという。(今初めて知った。)
  
 駅前に「男はつらいよ」の寅さん像が造られたのが1999年。寅さんだけでは寂しいと「見送るさくら像」も2017年に立てられた。どっちもカメラ(スマホ)を向ける人でいっぱいだが、平日なら少し待てば大丈夫だろう。僕は寅さん像も初めてだけど、さくら像の方が見たい。実は寅さん映画の傑作が相次いだ70年代初期から半ばに掛けての倍賞千恵子が大好きなのである。だから「さくらを見る会」。
   
 倍賞千恵子はデビュー時から「下町の太陽」として人気を博し、寅さんシリーズでは助演で支えた。観客はどうしても渥美清とマドンナ女優を見てしまう。バイタリティあふれる妹もいて、どうも倍賞千恵子は「美人女優」と認識されず損をしてる。でも70年代半ばの寅さんシリーズを見ると、倍賞千恵子演じる「さくら」の美しさにはっとさせられる瞬間がある。上の写真は「寅さんから見たさくら」「さくらから見た寅さん」「寅さん像下の山田洋次の文章」「さくら像下の山田洋次の文章」。
 
 駅前から間違いようもなく帝釈天参道に出る。一回車道を渡るが、そのまま少し曲がりつつ帝釈天に至る。この辺りは文化庁の「重要文化的景観」に2018年に指定された。確かに古き良き情緒を感じられるが、案外短い。映画では全体を映さないから、浅草の仲見世ぐらいありそうな感じを受けるが、そこまでではない。昔からの団子屋に加えて、くず餅の船橋屋や亀戸升本など他地域の店もあった。
  
 参道はどうしても他の客が映り込んでしまう。撮ってる時は自分の意識内でシャットアウトしてるわけだが、後で見ると人が大きすぎる。それが帰りにまた通ったら、夕陽が向こう側から差し込み、客も少なくなって街灯も点いていい感じ。
  
 参道が終わると見えてくる山門が「二天門」。通れば題経寺(だいきょうじ)である。1629年開基と伝えられる日蓮宗寺院だが、この地域は下総中山の法華経寺の勢力が強く、その影響で開かれたと思われる。帝釈天とは何だとは僕もよく知らない。調べれば判るから省略。「庚申」(こうしん、かのとさる)の日が縁日で賑わう。漱石の「彼岸過迄」にも出てくるというが忘れた。現在のお堂がいつ建ったのか、全然出て来ないが、特に文化財指定もないんだから、割と新しいんだろう。
  
 帝釈堂の周りには仏教の縁起を彫った彫刻がズラッとあって「彫刻ギャラリー」と呼ばれている。庭園と一緒に有料で公開されているが、是非見るべき。1922年から1934年にかけ彫られたもので、仏教説話に基づく意味が書いてあるが不案内で判らない。庭園も見終わって江戸川土手に向かうと、お寺の外に石柱があって名前が彫ってあった。写真を拡大すると、渥美清倍賞千恵子三崎千恵子の名が刻まれている。その隣が春風亭柳昇で、昇太の師匠だった落語家。
   
 江戸川土手に登ると、広々して気持ちがいい。映画でも背景によく映ってる塔のような施設は「取水塔」で、「東京水道名所」に選ばれている。塔は二つあって、映画の背景によく出てきた。1枚目の写真左に見える「金町浄水場」で浄水され、東京東部の水道に送られる。確か小学校で見学したと思う。
  
 上の写真が「矢切の渡し」で、3枚目が「矢切の渡し」の歌碑。今は土日祝日しか渡し船は出ない。向こうは千葉県である。30数年前に乗って渡った思い出がある。
  
 そこから山本亭を見て、葛飾柴又寅さん記念館。公園の下にある立地にビックリ。リニューアルされて、なかなか充実している。「男はつらいよ」を全然知らない人は楽しめないだろうけど、そういう人は元々入らない。ファンだったら楽しめると思う。2枚目は上の方に昔の松竹映画のポスターが貼ってあった。左から「淑女は何を忘れたか」(小津)、「陸軍」(木下恵介)、「愛染かつら」「君の名は」「東京物語」で一番右が見えないけど「二十四の瞳」。「山田洋次ミュージアム」が併設されている。
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柴又の𨗉渓園と山本亭ー東京の庭園⑧

2019年12月19日 22時40分54秒 | 東京関東散歩
 東京もそろそろ散歩の季節が終わりつつあるが、関東の冬には時に「陽だまり散歩日和」がある。今年は特に暖冬らしいから、まだまだ庭園散歩ができるかもしれない。都立庭園9つのうち7つに行ってみたが、紅葉の季節にはスタンプラリーもあって動機付けになる。しかし、東京には国営(新宿御苑や皇居東御苑)もあれば、区営や私営の庭園もある。夜に浅草で浪曲と落語を聞いた日、昼間は暖かな一日だったのでしばらくぶりに葛飾の柴又へ行ってきた。ここにも庭園がある。

 今年は「男はつらいよ」公開から50周年。なんと新作が公開されるということで、柴又も観光客が多くなりそうだ。「男はつらいよ」シリーズを見ていると、柴又帝釈天は東京中の人がよく行く一大観光寺院のように思えてくる。時々偶然のように寅さんとマドンナが柴又で再会したりするが、柴又はそんなに誰もが行くとこじゃない。地元の人を除けば、映画で知られたところだと思う。(客が多いのは浅草がダントツで、次は巣鴨のとげ抜き地蔵だろう。)僕も柴又に行ったのは2回だけ。一回は千葉県市川市に住んでいたときに「矢切の渡し」を使って往復した。だから京成線柴又駅を利用するのも2回目だ。

 柴又全体の話はまた別にして、今回は庭園に絞って。まず「𨗉渓園」(すいけいえん)だが、「すい」の字が「遂行する」じゃなくて難しい。誰も書けそうもない庭園で、名前を言われても判らない人が多いだろう。これは柴又の中心、映画では笠智衆が御前様を演じていた「帝釈天」つまり「経栄山題経寺」(きょうえいざん・だいきょうじ)のお庭のことである。そんなものがあるのかと思う人がいるかもしれない。「彫刻ギャリー」とセットで有料になったゾーンである。本堂の奥の方に回廊で続いている。
   
 上の写真で判るように、この庭園はとても素晴らしい。ウィキペディアで調べると、向島の庭師永井楽山の設計により1965年に作られたという。いわゆる池泉回遊式だが、今までに訪れた庭園は自分で歩き回るが、ここは周りの回廊から見る形式である。そこが不満でもあるが写真としては面白い面もある。まあ時間的には少し短いかな。本堂から回廊を歩くと、こんな感じで建物に入る。
   
 彫刻ギャラリーも含めて庭園の回廊めぐりも、靴を脱いで回る。靴下だけだから冬は寒いかもしれない。途中に休憩できる場所がある。それが最初の写真2枚目と下の写真1枚目。ちょっと庭に突き出た場所にある。無料でお茶を飲めるから、ここで休んで写真を撮ってる人が多い。400円掛かるが、柴又帝釈天へ行ったら是非寄ってみるべきところかなと思う。
 
 そこから少し歩くと「山本亭」がある。元は瓦工場があったが関東大震災で倒壊し、その後台東区でカメラ製造をしていた山本栄之助氏が庭園を整備した。1933年頃に完成したらしい。近代和風建築と純和風庭園が見事に調和とパンフに出ている。葛飾区が1988年に取得し、お庭を見ながら緋毛氈に座って抹茶を飲める喫茶をやってる。最近、外国人観光客に人気が出ていて注目されている。
   
 喫茶なしなら100円、近くの葛飾寅さん記念館との共通券は550円。僕はお茶は飲まなかったが、それはこのレベルなら他にもあると思ったからだ。ガラス戸越しに庭園を見るだけだから、はっきり言って日本人には面白くない。それだけで庭に出られないのである。正直、なんだという感じ。裏を回って「寅さん記念館」に行ける。その道も案外つまらない。今回は「庭園散歩」を目的にしているので、全然散歩にならないのでガッカリなのである。外国人観光客には珍しい日本情緒なんだろうが。隣が「柴又公園」でその下に「寅さん記念館」がある。その公園に登ると、山本亭が見晴らせる(最後の写真)。
   
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浜離宮ー東京の庭園⑦

2019年12月14日 21時10分12秒 | 東京関東散歩
 東京の都立庭園の中で「浜離宮」にはしばらく行ってなかった。ここは隅田川が海に出る辺りで、浅草から隅田川を下る「水上バス」の発着所がある。昔は本当に「ポンポン蒸気」という感じの船で、ノンビリ水辺から東京を楽しめた。下町の定番デートコースで、僕も何回か行った気がする。実はそれ以来で、しばらくぶりで行ってみると、約25ヘクタールという大きさが印象的で風格の大きな庭園だった。今も海水を取り入れ「潮入の池」を楽しめる。国特別名勝特別史跡。正式名称は「浜離宮恩賜庭園」。
   
 浜離宮も芝離宮や小石川後楽園のように、周りをビルで囲まれている。だが園内が広いので圧迫感が少ない。上の写真で見るように、むしろ借景として楽しめるんじゃないだろうか。どうしてそこまで広いのかというと、ここは大名庭園ではあるけれど、もっと格上の「将軍庭園」なのである。1654年に4代将軍家綱の弟で甲府藩主だった徳川綱重が海を埋め立てて作った。綱重の子家宣が6代将軍になったのを契機に将軍家の別邸になったと案内に出ている。それ以来「浜御殿」と呼ばれ、鷹狩り、鴨猟場として使われた。今も正月には鷹を放つ「放鷹術」が行われている。(2、3日)
   
 訪ねた日は静岡旅行の前で、予報では晴れだったのに実際には曇っていた。例年なら紅葉も終わりだが、今年は東京都の「庭園へ行こう」というホームページを見ても、まだ各園の紅葉情報が載っている。ただ浜離宮は場所柄か日当たりが良さそうで、紅葉は盛りを過ぎていた感じだった。「浜御殿」は明治になって皇室所有の「浜離宮」となり、1879年にグラント米国前大統領が訪日した際は浜離宮の延遼館に一ヶ月間滞在し明治天皇が訪れた。浜離宮が「迎賓館」だったのである。延遼館は日本初の洋風石造建築だが、1892年に老朽化で解体された。舛添知事時代に再建計画があったが凍結。
   
 浜離宮は駅で言えば、都営地下鉄大江戸線汐留、築地市場が直近となるが、JRで言えば新橋駅12分。正門に当たる大手門から多分始めて入ったと思うが、これはまるでお城とお堀。さすが将軍の庭だと思う。中へ入ると、かなり広くて池が遠い。基本は池泉回遊式庭園だが広くて歩き甲斐がある。
  
 海辺というか川辺に出るとこんな感じ。4枚目は海水の取水口。
   
 気持ちのいい道を歩く。中が広いから、ところどころ池も川も見ない山の中の小道みたい。
  
 園内にはかつて多くの建物があった。少しずつ再建されていて、「中島のお茶屋」(下1枚目写真の池向こう)では抹茶などを頂けたらしいが、工事中で見られなかった。「松のお茶屋」「燕のお茶屋」「鷹のお茶屋」が再建された。まだ古色がないから風情を感じないけど。その周辺を水辺を中心に。
   
 大手門近く左手に「三百年の松」がある。行く時には逆方向に歩いていて気づかなかった。この松は6代将軍徳川家宣が植えたというから、それが本当なら確かに300年だ。表から見ると大きく広がった感じに見えるんだけど、裏を見てみると遠くに根があってずっと広がっているのに驚いた。
  
 新橋駅から浜離宮に行く途中に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」がある。日本最初の駅があった場所だ。前に見てるから今回はパス。
  
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六義園ライトアップー東京の庭園⑥

2019年12月07日 20時58分22秒 | 東京関東散歩
 JR駒込駅近くの六義園(りくぎえん)は、毎年秋に紅葉のライトアップをしている。(12月12時まで。夜21時まで開園。入園は20時半まで。)都立庭園で夜間に時間延長をしてライトアップしているのはここだけ。六義園は以前記事を書いたこともあるが、改めてライトアップだけ取り上げたい。

 「東京には緑がない」「東京砂漠」だなんて昔はよく言ってたもんだけど、そんなことはなくって東京には江戸時代からの「大名庭園」がずいぶん残っている。大都会だから人間関係は大変かもしれないが、案外心休める場はある。それらの庭園の多くは都立だから安いし、65歳を過ぎるとさらに安くなる。健康を考えて、軽く歩けて緑に親しめる場があるのはありがたい。
   
 ライトアップ期間は駒込駅直近(2分ぐらい)の「染井門」が開いている。いつもは閉まっていて、もっと南へ10分ほどの正門しか開いてない。つまり通常期は池をめぐって一周するしかないが、この時期は片方から入って抜けることが可能。夜だから寒いし、正門から入って染井門から出れば駅に近くて便利。多少は光がある時間の方が池面に映る風景が見られるし、染井門に近い「つつじ茶屋」ではお団子やこんにゃくなどを売っている。つつじ茶屋を出たあたりで、一番の見どころがある。紅葉がすごいし、さらに下の方には青い光を当てて川のような演出をしている。

 それらもいいけど、正門から入ってしばらく歩いたあたりの池も素晴らしい。夕方の光が残る時間なら、空と水面と池向こうのライトアップが趣が出る。スマホで撮ってるカップルや外国人が多いけど、急いで取ると失敗する。光量が少ないから仕方ない。念のためいっぱい撮っておいた方がいいかも。
  
 六義園は5代将軍綱吉の側近として名高い柳沢吉保の下屋敷だったところ。なんだか柳沢吉保は歴史の悪役という感じだが、子孫はずっと続いた。上州館林藩士から館林藩主だった綱吉に従って幕臣となり、川越藩、甲府藩主となった。その後甲斐国は幕府直轄となり、柳沢家は大和郡山に移された。幕末まで続き、六義園もずっと柳沢家の屋敷だった。水戸藩の「小石川後楽園」と並び、日本を代表する大名庭園だ。明治以後は荒廃し、そこを三菱の岩崎家が買い取って修復した。東京に残る庭園は、「大名から三菱へ」という系譜が多い。国特別名勝
 
 「六義園」の名称は、「古今和歌集」の和歌の分類法によるという。それにちなんで園内にはいろいろ趣向があるが、夜行くと全然判らない。ゆっくり紅葉を見るなら昼間の方がいい。やはり夜は寒くなって、急いで通り過ぎる感じになってしまう。でも一度は訪れてもいいライトアップかなと思う。
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真姿の池と武蔵国分寺跡ー国分寺散歩

2019年12月02日 22時47分26秒 | 東京関東散歩
 中央線国分寺駅前にある「殿ヶ谷戸庭園」を見てから、しばらく南へ歩く。都立庭園に国分寺散歩マップが無いのは困るけど、あちこちに「国分寺跡」の表示があるので間違えないだろう。「不動橋」(一里塚信号)を右(西)へ曲がって、気持ちいい道を歩く。「お鷹の道」までは案外遠いが、落ち着いた家並みが続くので飽きない。やがて「お鷹の道」入り口が見えてくる。尾張藩の鷹狩りの狩り場だったところで、そこに整備された小道が素晴らしい。ホタルのためにカワニナ保護の看板がある。
   
 ここは「お鷹の道・真姿の池湧水群」として環境庁(当時)の「名水百選」に選ばれている。選定は1985年のことだから、ずいぶん昔のことだ。僕はそれ以来日本各地で、多くの「名水」を訪ねてきた。「水」が好きなのである。それなのに、ずっと前から行きたかった国分寺は初めてである。初めて来て、こんなに気持ちのいい道が東京にあったのかと思った。湧水が豊富なうえ、透きとおっている。「お鷹の道」を歩くのは楽しい。やがて「真姿の池」方向への曲がり道になる。
   
 遠くに赤い鳥居が見える。「真姿の池」はどこだと思うと、その鳥居の場所だった。鳥居から池の中へ道が通り、向こうにお堂がある。池の水は透きとおっているが、樹に囲まれて薄暗くてよく見えない。池を通って先へ行くと階段があり、何があるんだろうと登ってみたら、旧国分寺の「僧寺北東地域」だった。何もない場所だけど、説明板があった。戻って「お鷹の道湧水園」へ入る。
   
 この「湧水園」は2009年に作られた施設で、入園料100円が必要だが入る価値がある。(入園料はすぐそばの史跡の駅「おたカフェ」で払う。一帯は国分寺崖線に面したところで、園内に湧水もある。この地区の地主の家だった場所で、入り口は風格ある門(2階に上れる)になる。庭の端には旧国分寺にあったという「七重の塔」がミニチュアで復元されている。また「武蔵国分寺跡資料館」(3枚目の写真)がある。旧武蔵国分寺を知るためには必見で、発掘で見つかったという観音像も展示されている。瓦などは別にして、旧国分寺由来の仏像としては唯一のものだそうだ。
   
 「武蔵国分寺跡」はすぐ近い。もっとも国分寺の区域全体は広いので、相当あっちこっち行かないといけない。今は何もなくて「解説板」があるだけだから、まあ金堂講堂があったところだけでいいだろう。日本中に作られた国分寺だが、そのまま残っている寺院はない。諸国の国分寺も中世になって荒廃したところが多い。武蔵国分寺は鎌倉末期の「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」(新田義貞と鎌倉幕府の戦い)で焼け落ちた。その後再建された「武蔵国分寺」も近くにある。そこには楼門や万葉植物園があるが、古代から続く寺院ではない。「国分尼寺」の跡はちょっと離れているので行かなかった。
   
 大分疲れてきたので、駅に戻ることにする。駅と言っても今度は西国分寺。駅の方へ行く道は広大な「都立国分寺公園」になっている。「都立多摩図書館」もある。まっすぐな道は古代の「東山道武蔵路」で、線路近くに展示施設が作られている。何だかよく判らないけど、発掘した昔の道跡だ。線路の北側に「姿見の池」がある。せっかくだから寄っていこう。やっとたどり着くと、鴨が泳いでいた。静かな池である。このように湧水が多い理由を書いてある説明板があった。(写真の最後)
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殿ヶ谷戸庭園ー東京の庭園⑤

2019年11月30日 22時54分15秒 | 東京関東散歩
 関東地方では11月下旬に寒い雨が降り続いた。一週間続いた雨が上がったので、寒いけど国分寺市に散歩に行った。多摩地区でただ一つの都立庭園である「殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園」が駅前にある。大昔の武蔵国国分寺があったところだが、日本中にあった国分寺の中で市の名前になっているのはここだけだ。だから中央線の駅名も国名が付かないただの「国分寺」になっている。
    
 紅葉の名所でカメラ片手の入園者がたくさんいた。今年はどこでも紅葉、黄葉が遅れていて、都心では越年しそうな感じだ。殿ヶ谷戸庭園でもまだまだ紅葉狩りを楽しめそうだった。都心の多くの庭園が大名庭園だったのとは違って、ここは近代になって作られた別荘庭園である。北区の旧古河庭園も同様だが、今じゃ北区は都心に近いイメージだ。それに対して、殿ヶ谷戸庭園は都心からは離れたイメージはある。もっとも都庁が新宿に移転した今では、新宿まで30分もかからない通勤圏内だけど。
   
 作ったのは江口定條(さだえ)という人である。パンフには満鉄副総裁の後、貴族院議員を務めたとある。近代史上ではほぼ忘れられた人物だが、ウィキペディアに載っていて、三菱合資総理事を務めた実業家だった。東京高商(現一橋大)卒で、同校教諭も務めた。如水会(東京高商、一橋大学の後援組織)の初代総裁もしている。満州事変のあった1931年に満鉄副総裁に就任したが、翌年に民政党系を嫌った政友会の犬養毅内閣に罷免されたと出ている。1913年から15年にかけて別荘を築き、その時は「随宜園」(ずいぎえん)と名付けられていた。1929年に岩崎小彌太が買い取り「国分寺の家」として親しんだという。結局ここも三菱系の庭園だったのか。
   入り口を入ると左方向に資料館がある。広場風に芝生が広がり、その奥に木が続いている。高いところは洋風庭園で、そこから下がったところに湧水を生かした池を設けて和風庭園とする。これは旧古河庭園も同じだ。大名庭園のような大きな池泉回遊式庭園は海や川に近いところに作られた。一方、武蔵野台地国分寺崖線(がいせん)を生かしたのが別荘庭園。この地域は多摩川の河岸段丘が続いていて、その崖に沿って湧水が多い。湧水を利用した「治郎弁天池」を整備したのは、1934年のことで岩崎家になってから。
  
 上の写真の真ん中が湧水の出ているところ。池から上に登っていくと「紅葉亭」が作られている。そこは集まりに借りられる場所でもあるらしいが、庭園に向かった部分は休憩所として開かれている。そこから見る紅葉が素晴らしいわけだが、人も多くて写真は撮りにくい。それに昼間は逆光になる。
   
 樹を通して光がもれる様は抽象画みたいな感じ。そこから入り口に戻ると広場になるから、気が晴れる。かつて開発計画があり、庭園を守る住民運動があった。その結果、1974年に都が買収し開園した。2011年に国の名勝に指定されている。近代の庭園としては珍しいと思う。そんなに広くないし、駅から近いので散歩に最適。そこから「名水100選」指定の「真姿の池」や国分寺跡に足を伸ばしたが、それはまた別の記事に書きたい。
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旧芝離宮庭園ー東京の庭園④

2019年11月22日 21時07分25秒 | 東京関東散歩
 「東京の庭園」ミニシリーズの4回目は旧芝離宮庭園浜松町駅から徒歩1分で、駅からすごく近い都立庭園だ。その割に空いていて、お昼時に行ったけど、すごくガラガラだった。実は都立9庭園の中で、ここだけ行ったことがなかった。近くに広大な浜離宮があって、芝離宮は存在感が薄い。浜離宮は25万㎡もあって、4万㎡ほどの芝離宮は小さい感じがしてしまう。しかも周りがグルッと大きなビルになってしまって、囲まれた感じがしてしまうのだ。大きな池を回る池泉回遊式庭園
   
 園内に小高くなった山が作られていて、そこから庭園を見渡せる。そこが見どころだが、面積が小さい割に池が大きいから面白みが少ない。池をグルッと回るだけだし、池を撮ればビルの影が映り込む。これじゃ「インスタ映え」しにくいのかなと思った。日本式庭園は「池泉」が大切だから、水の得られる場所に作られた。今では別荘は高原かなんかに作るが、昔は海や川沿いの低地に作られたことが多い。芝離宮の池はもともとは海水を取り込んだ汐入湖だったが、今は締め切って淡水の池になっている。 
   
 上の写真の1枚目が海水の取水口だったところ。ここは江戸初期の大名庭園で、国の名勝に指定されている。元は埋め立て地で、1678年に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領した。幕末には紀州徳川家の屋敷で、明治になって有栖川宮家を経て、明治8年に宮内省が買い上げ、翌年に芝離宮となった。1924年に皇太子(後の昭和天皇)の結婚記念で東京市に「下賜」され、公開された。大名庭園の名残を残す4本の石柱が残っている。大久保忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたものだという。茶室の柱だったらしい。
 
 池に映るビルの影は下の写真を見れば印象的。南に東京ガス、北に汐留ビルがある。すぐ近くに劇団四季自由劇場がある。それより高速道路をはさんで、すぐ隣に都立芝商業高校がある。昔は隣に東京都公文書館があった。そこは研修で行った記憶があるが、そう言えば芝商は行ったことないな。(東京都公文書館は、今は世田谷の元玉川高校校舎に移転している。)
   
 芝離宮庭園は、正式には「恩賜」が庭園に前に入る。岩崎家が東京市に寄付した清澄庭園は「恩賜」が付かない。宮内庁管理の「皇居東御苑」は実は江戸城だが、これはまだ「恩賜」されていないわけだ。皇室から東京市に寄付されたのは戦前のことだから、わざわざ「恩賜」と言い続けるのもどうなんだろうか。国民主権の社会にふさわしくないと思うけど。ここには弓道場もあるが見なかった。曇天の日で、その影響もあってか、池に映るビルばかり印象に残った感じ。
   
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江戸と近代ー清澄白河散歩②

2019年11月17日 22時28分37秒 | 東京関東散歩
 清澄白河近辺には史跡も多いが、特に史跡と言うほどではないけれどムードある建築が豊富で、町並みを見ているだけで散歩が楽しい。古いものと新しいものが同居している。庭園・公園もあって、住んでみたいと思うほどだ。「白河」というのは、江戸時代の老中、白河藩主松平定信から来ている。定信の墓所が霊巌寺(れいがんじ)という寺にある。もっとも地名となったのは昭和の初め頃だという。深川江戸資料館に近いところにあり、多くの人が通っているけど、寺を訪れる人は少ない。
  
 霊巌寺は明暦の大火で、日本橋の霊厳島から移転したという。ここの文化財は、松平家墓所(国史跡)と江戸六地蔵5番目の地蔵菩薩像。定信墓所は近づけないように囲われている。松平定信は寛政の改革を主導した人物で、僕はどうも好きになれない。まあ地名になるほどの知名度はあるということだろう。江戸六地蔵って、全然知らないんだけど、18世紀初頭に作られ5つが現存しているという。
   
 霊厳寺の前は「江戸資料館通り」で、深川めし屋などが並んでいる。資料館そのものは単なるビルだから省略。前に見てるから、見学も略した。清澄白河駅にあった広告で、だいたいこんな展示かと判ると思う。立体的展示が多く、面白いことは面白いけど、まあ何度も見なくてもいいかな。
   
 近代建築で面白いのが「深川図書館」。清澄庭園の裏あたりにある。出来たのは1909年だと言うから、100年を超えている。その後改修はしているようだが、随所にレトロ感覚が残る。階段のステンドグラスも美しい。
  
 もう一つが「清洲寮」。1933年に作られた民間集合住宅で、一階には今はお店も入っているが、上の方は今も貸し部屋になっているようだ。実に不思議な感じだが、清澄白河には合っている。
  
 清澄庭園の周辺は2階建てのレトロなムードの建物が並んでいる。こんな感じ珍しい。
   
 こういう風情ある建物や元工場みたいな懐古物件がこの地区には多い。近くの木場公園に「東京都現代美術館」があることで、ここにもギャラリーが増えてきた。そこに「サードウェーブ」と呼ばれるコーヒー店が集まり、東京でも注目の地区になっている。「第三の波」というのは、アメリカで言われている言葉で、インスタントが第一、スタバなど「シアトル系が第二、コーヒーをワインのように芸術品として品質管理するようなものを第三と呼ぶらしい。一番有名な「ブルーボトルコーヒー」が下の一枚目。混んでたから飲んではいない。昔の清澄庭園の半分は「清澄公園」として開放されている。ここも木が立ち並んで気持ちいい空間。こんな感じが都心に残っていた。
  
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芭蕉のいた町ー清澄白河散歩①

2019年11月17日 20時18分23秒 | 東京関東散歩
 清澄庭園に行ったのをきっかけに、その周辺も歩いてみたくなった。11月上旬のことで、少し時間が経ったけれど、まとめておきたい。清澄白河駅が出来るまで、そういう地名があることもあまり知られていなかった。これは駅近くの地名「清澄」と「白河」をつなげたもの。

 近くを隅田川が流れ、清洲橋が架かっている。駅からちょっと北へ歩くと、小名木川が通っている。これは隅田川と旧中川を結ぶ運河で、徳川家康の命令で作られたとされる。江戸の物流を支えた重要河川で、時代小説などによく出てくる。隅田川に一番近い萬年橋(まんねんばし)を北へ渡ると、地名が「常盤」(ときわ)に変わる。萬年橋は江戸時代に掛けられ、北斎や広重の浮世絵に描かれた。木造の橋は関東大震災に耐えたが、1930年に震災復興計画で建て替えられた。
 (今の萬年橋と葛飾北斎「深川萬年橋下」)
 萬年橋を越えると、そこは松尾芭蕉が住んだあたりである。ほんの少し歩くと、左に案内が出てくる。「芭蕉記念館分館」とある方に行くと、途中に小さな「芭蕉稲荷神社」がある。ここが「芭蕉庵」のあったところとされている。別に芭蕉が稲荷になったわけじゃなくて、1917年に地元の人々がその場所に稲荷神社を建立したんだという。「芭蕉案跡」の碑もあるが、本当にここだったのか。まああまり詮索しても仕方ない。今は小さな神社である。(都営新宿線森下駅からも同じぐらいの距離。)
  (稲荷神社、芭蕉庵跡碑、説明板)
 松尾芭蕉はなぜ深川に移り住んだのか。もともと伊賀上野の生まれだった松尾芭蕉(1644~1694)は、仕えていた藤堂家の若君、良忠(俳号蝉吟)のもとで「宗房」を名乗って俳句を始めた。1666年に蝉吟が死去し、芭蕉は仕官を退いた。1672年に句集「貝おほひ」をまとめ評判になり、1675年に江戸へ向かった。江戸では日本橋に住み、神田川の水道工事監督をしながら俳句修行を続けた。こういうような経歴は、今まで若き俳人の苦闘期で、水道工事もアルバイトのように思われていた。それに対し、10月末に新潮文庫で刊行された嵐山光三郎「芭蕉という修羅」は新しい視点を提示している。 

 嵐山著「芭蕉紀行」「悪党芭蕉」も面白かったので、「芭蕉という修羅」もさっそく読んでみて、なるほどと刺激的だった。伊賀上野は伊勢津藩の支配下にあり、その藤堂家3代目当主藤堂高久は4代将軍家綱の大老酒井忠清の娘を正室としていた。酒井大老は権勢を振るい、藤堂家もその余録に預かる。芭蕉が江戸で有利な「利権」である水道工事に携わったのも、その一つだという。俳句じゃなくて、「水道工事監督」が本職だったのである。1680年に家綱が死んで、弟の綱吉が後継となり酒井大老は罷免される。「越後騒動」など酒井が裁いたお家騒動は再審となる。そのような政界激動を受け、芭蕉も日本橋を引き払い、スポンサーだった杉山杉風の持つ深川の家に身を潜めたのだという。

 その当否は判らないが、深川隠棲は一種の逃避行だったというとらえ方は興味深い。しかし、1882年に「八百屋お七の大火」で芭蕉も焼け出され、甲斐に避難。翌年に戻るも、「野ざらし紀行」の旅に出て、1686年に芭蕉庵で「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を作った。蛙を題材にしたことが新鮮だが、嵐山光三郎が清澄庭園で一日観察していても、池に飛び込む蛙はいなかったという。蛙が水に入るときは、端からそっと入るという。もし飛び込むとすれば、蛇など敵に襲われた時しかないというのである。そうなると、芭蕉が詠んだ蛙も逃げていたのかもしれず、この句の鑑賞にも影響してくる。
   
 芭蕉稲荷神社から川へ向かうと芭蕉記念館分室があり、2階が芭蕉庵史跡展望庭園となっている。芭蕉像が置かれ、川を遠望している。芭蕉像が見ている川の様子が3枚目の写真。そこから川沿いに芭蕉の句の展示が続く。全部載せても仕方ないから「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」。
  
 江東区芭蕉記念館がすぐ近くにある。大通り沿いに入り口があり、川の散歩コースからは入れない。小さな記念館で、別に無理して見なくてもいいと思うけど、深川近辺に芭蕉がいたということは知ってていいかなと思う。ここにも「古池や」の句碑がある。
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キューポラと洋館ー川口散歩

2019年11月10日 22時50分00秒 | 東京関東散歩
 埼玉県川口市を散歩してきた。JRがやってる「駅からハイキング」に「学生駅ハイ」という企画があって、川村学園女子大学観光文化学科の学生が企画した「川口の歴史と文化に触れる」である。川口と言えば、どうしても「キューポラのある街」を思い出す。今はもう鋳物産業の町じゃないのは知ってるけど、一度は行ってみたいと思っていた。予約不要で、9時~11時に受付。まあ無理する気はなかったけど、何しろ休暇村とムーミンでバイキング3連続。少し歩きたいと思ったわけだが、帰ってスマホを見ると、2万7千歩も歩いてたのはビックリ。

 川口は京浜東北線で埼玉県最初の駅である。東京都北区の赤羽駅の次。案外近いんだけど、降りたのは初めて。2011年に鳩ヶ谷市を合併して、人口は59万人もある。政令指定都市以外では船橋市に次いで第二位だという。駅前の商業施設が「キュポ・ラ」、駅前広場が「キュポ・ラ広場」と名前に歴史を留めている。駅前にキューポラのモニュメントがある。キューポラ(cupola)というのは、鉄を溶かして液状にする溶解炉のことで、かつては屋根から突き出る姿が川口のシンボルと言われた。戦争直後には川口が日本の三分の一を占めた。「働く歓び」という鋳物労働者の彫像もある。
  
 川口の鋳物は、国立競技場の聖火台に使われた。1958年の第3回アジア大会に使われたもので、川口鋳物の代表作と言われた。鈴木万之助・文吾親子(完成品は文吾の作)が製造。1964年の東京オリンピックでも使われた。その聖火台が駅前に展示されている。国立競技場の建て替えに伴って、東北各地を回った後、2020年春まで置かれているという。鋳物産業は70年代が最盛期で、その後激減している。しかし、残っている会社もあって、日曜休みで見られなかったが、今回のコースに「日本唯一のベーゴマ製造」の「日三鋳造所」もあった。ここで作ってはいないが、ベーゴマ資料室がある。
  
 駅前から10分ほどで南へ行って川口神社がある。川口の総鎮守であり、鋳物の神とされる金山彦命も祀っている。鳥居の裏にも鋳物工業繁栄の印が残されている。
 
 神社から少し歩いて「母子父子福祉センター」へ。ここは「旧鋳物問屋鍋平別邸」として国登録の有形文化財に指定されている。こういうところは気がつかずに通り過ぎてしまいやすい。企画地図があってこそ行く場所だ。普段は公開していないので、見学には事前連絡が必要。古い建物もあるらしいが、現在の姿になったのは1941年頃という。洋館に和室があり、離れも付いている。庭園も見事で、ちょっと前のお金持ちの家の風情がよく残っている。鋳物産業の繁栄を今に伝える貴重な文化財。
   
 それから川口市立文化財センターへ。施設だから写真は載せない。川口市の歴史について、とても勉強になった。実は僕の住んでる足立区と川口市は隣同士である。横どうしの交通がないから、行かないだけ。「赤山街道」という道が近くにあるんだけど、どういう意味か知らなかった。ここで初めて由来が判った。その後延々と荒川土手を歩いて工場地帯を下に見る。

 「大泉工場」というところでマルシェをやってたが、ちょっと見て通り過ぎてしまった。先ほど調べたら、この工場は実に面白いところらしくて、残念。また延々と歩き、「デイジー本店」でパンを買う。美味しそうなパンがいっぱいだが、食べ過ぎると来た目的を失う。かなり飽きてきたので地図のコースを離れてショートカット。ぶらぶら歩いていると、なかなか面白い民家が多い。最後に埼玉高速鉄道川口元郷駅近くの「旧田中家住宅」へ。ここはすごい。「君は旧田中家住宅を知っていたか?
   
 「旧田中家住宅」なんて言うと古民家みたいだけど、実は埼玉を代表する洋館建築。2018年12月に国の重要文化財に指定された。近代の重文は、未来の国宝だ。上の写真は最初の3枚が、国道122号の反対側から撮影。国道に面しているのである。外観は壮麗な洋館だが、中には和室と庭園がある。建てたのは4代目田中徳兵衛で、1923年に洋館が完成した。和館は1934年の増築。
   
 中はまあ普通の洋館建築なんだけど、なんと3階まである。東京の洋館は2階建てだ。そして3階まで開放している。周りは道路とマンションばかりだけど、庭を上から見られる。もともと田中家は農家だったが、明治初期に2代目が麦麹味噌を始めて「上田一」(じょうたいち)のブランドで全国で販売したという。4代目は埼玉味噌醸造組合長に就任、県会議員から貴族院議員になった。これが多くの客を接待する洋館を建てさせた動機なんだろう。だから自分用に和館が必要になる。
   
 最初の2枚が3階にある大広間。一番上に案内されて、客も驚いただろう。後の2枚は1階奥の和室棟。こういうところもないと、当時の日本人は暮らせない。そこから池泉回遊式の庭園が見渡せる。東京間近の国道沿いに、これほどの建築が公開されていたとは。ここの不思議な面白さは一見の価値がある。全然知らなかったけど、今日一番の収穫だった。
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清澄庭園ー東京の庭園③

2019年11月02日 23時24分55秒 | 東京関東散歩
 東京の庭園を訪ねる散歩、3回目は清澄庭園(きよすみていえん)。今までの向島百花園と旧古河庭園は、行ってから書くまでしばらく放っておいた。10月に31日あるうち、東京はなんと25日も雨が降ったという。だからあまり散歩する気になれなかった。10月下旬にようやく晴れ渡り、映画館や劇場が大好きな僕も町へ出たくなる。この地域は以前は駅から遠かったが、都営地下鉄大江戸線(2000年)、東京メトロ半蔵門線(2003年)の清澄白河駅が開業して、行きやすい地区になった。
   
 清澄庭園は上の写真で判るように、典型的な「池泉回遊式庭園」である。今は「清澄公園」として無料開放されている西側地域も、元々は同じだった。江戸時代には紀伊國屋文左衛門の屋敷だったが、大名庭園となり明治になって荒廃したという。その土地を三菱の岩崎家が買い取り、従業員慰安や接待のために整備した。一時はコンドル設計の大きな洋館もあったが、関東大震災で焼失してしまった。そして三菱が東京市に西半分を寄贈して、1932年に開園した。そのような経緯から、六義園や小石川後楽園に比べて面積も半分ぐらいだ。また国指定名勝ではなく東京都指定名勝に止まっている。   
   
 行った日は最近になく快晴で風もなく、もう水面は鏡のような感じ。この庭園はちょっと奥まった地点もあるが、ベースとしては大きな池をグルッと歩道があるだけのシンプルな構造になっている。だから写真を撮っても、同じような写真ばかりになってしまう。でも水面と松の風景が美しく、見応えがある。駅から近くて行きやすいし、僕も久しぶりに行って堪能できた。建物としては、「大正記念館」と「涼亭」がある。涼亭は池に面して張り出して美しいが、貸し出し施設のためただの客は入れない。 
   
 先の3枚の写真を拡大すれば、見えてくるのが涼亭。1909年建造で、都選定歴史的建造物。ただ1985年に全面的に改築されたという。最後の写真は大正記念館。戦災で焼失し、1953年に再建され、さらに1989年に全面改築されたという。なんで「大正記念」かというと、もとは大正天皇の葬儀に際して、参列者が並ぶ葬場殿と移築したから。どちらも集会などで借りられる。
   
 清澄白河駅A3出口を出て、徒歩3分とある。しかし信号を渡らないいけないので、もっと待つ感じ。案内表示は多いから迷うことはないだろう。上の最初が入り口。大きな通りではなく、少し入ったところに出入り口がある。最初は池が見えないが、すぐ見えてくる。後はずっと回るだけ。池は鴨がいて、冬は確かもっと多いと思う。駅からこんな近くに大きな池があるのにビックリするような場所だ。
   
 涼亭の近くに門があって、広場がある。菖蒲田があって、季節にはキレイなんじゃないか。ここに松尾芭蕉の「古池や」の句碑があった。この庭園の池を詠んだ句ではないが、実は近くに芭蕉の庵があった。少し行ったところに「芭蕉記念館」もある。案外東京の人も知らないけど、蛙が飛び込んだ古池は深川にあったのである。「奥の細道」もそこから旅立った。それを記念して句碑が建てられた。

 上に載せた写真、自分でも同じ写真を載せてるんじゃないかと心配。基本的に同じような光景が広がる庭園なのである。ただ池と空の風景は、晴れていれば気分がいい。この近くには「深川江戸資料館」など江戸情緒も残る。そもそも清澄白河の「白河」は白河藩主松平定信のことで、近くには墓も残っている。一方で東京都現代美術館もあって、近年はギャラリーがいっぱい出来てアートの街になっている。最近は「第三世代コーヒー」の聖地とも言われる。東京有数の観光スポットになりつつある地域で、芭蕉記念館などはまた別に近々散歩したいなと思っている。
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旧古河庭園ー東京の庭園②

2019年10月30日 22時41分24秒 | 東京関東散歩
 東京の庭園を訪ねるミニ散歩、2回目は旧古河庭園。ここは前にも書いたけれど、それは大分前のことだ。今回は前に行ったところも順番に訪ねたい。旧古河庭園は「バラと洋館」で知られていて、東京有数の「インスタ映え」スポットとして有名だろう。山手線駒込駅から北へ15分程度。南へ行くと六義園(りくぎえん)がある。駒込駅は豊島区、六義園は文京区、旧古河庭園は北区になる。
   
 10月の東京は晴天が少なく、2回行ったんだけど曇りの日だった。建物をつい撮りたくなってしまうが、どう撮っても実物の魅力には遠い感じだ。この地はもともと明治の政治家陸奥宗光(むつ・むねみつ、日清戦争時の外相)の別宅だった。陸奥の次男潤吉が古河財閥創始者の古河市兵衛の養子となって、この地は古河家所有となる。潤吉が若くして亡くなり、遅く生まれた市兵衛の実子古河虎之助が古河財閥3代目を継いだ。この虎之助が今の洋館を作った当主である。
   
 設計したのは、かの有名なジョサイア・コンドル。1911年に竣工し、1917年(大正7年)に完成した。コンドル設計の建築は、東京には「ニコライ堂」や「旧岩崎邸」がある。いずれも壮麗な建築だが、一番美しいのは旧古河邸じゃないだろうか。洋館の中では喫茶をやっているが、けっこう高い。時間を決めて内部見学も出来るというので、今回初めて参加してみた。洋館の中に2階には和室もある。不思議な空間を見るのも面白いけど、写真禁止で1時間の解説付き800円。まあ無理に見なくてもいいかな。
   
 ここは春秋に「バラフェスティバル」があり、晩秋に紅葉の時期に催しがある。庭園に入ると、洋館とその前の洋風庭園に目を奪われてしまうんだけど、内部見学のためには正面玄関(上の写真初めの2枚)に行く必要がある。そこからグルッと裏まで回れるんだと初めて知った。横から見るとまた違った感じだ。それが上の写真の3枚目。ただし、館には近づけない。最後の写真は洋風庭園。そこではバラが何十種類も咲いている。時期が少しずつずれていて、11月でも咲いてるらしい。花の種類は面倒なので書かない。ホームページを見れば載っている。バラフェス最中はバラのシューアイスを売ってた。
  
 旧古河庭園には日本庭園もある。本館完成2年後の1919年に出来たもので、京都の有名な庭師だった小川治兵衛による。洋風庭園と合わせて国指定の名勝となっている。洋館が一番高く、そこから少し下がって洋風庭園。多摩地区から続く武蔵野台地の一番東のあたりで、明治の金持ちは高台にお屋敷を築いた。その下に日本庭園があり、池がある。台地から下がる崖の部分に湧水があり、それも東京西部によくある地形だ。その水と段差をうまく生かした庭園になっている。
   
 これから日本庭園が一番美しくなる季節を迎える。古河虎之助は関東大震災では洋館を被災者に開放したという。その後子どもを失って心境の変化もあり、ここから転居した。洋館は古河財閥の迎賓館として使われ、戦後は連合軍に接収、古河家は財産税を払うために国に物納した。そして都立庭園として整備、公開されるわけだ。昔の日本映画を見ると、時々この洋館がロケに使われている。大島渚「日本春歌考」、蔵原惟善「何か面白いことないか」の他、名前をわすれちゃったけどギャング映画かなんかで悪党の首領が住んでいたところが「あっ、あそこだ」と思った記憶がある。
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運休間近、上野動物園のモノレール

2019年10月24日 22時46分34秒 | 東京関東散歩
 上野動物園にはずいぶん行ってない。東園と西園を結ぶモノレール10月31日をもって運休するというので、行ってみようかと思った。(上野で「真実」を見る予定だったので。)思い出が詰まってるわけじゃない。恐らく初めてだと思う。子どもの頃は覚えてないけど。家から遠くないから、上野動物園には何度も家族や遠足などで行ってるはず。でも乗ったのは「お猿の電車」(おサル電車)だ。1948年から1974年まで存在したアトラクションで、サルが先頭車に乗って動く電車。そんなものがあったのだ。
   
 上野動物園と言えば、パンダにズラッと並んでると思うだろう。でも今は違う。平日のお昼時はパンダはスイスイ進むのに対し、モノレールは20分待ちぐらい。所要1分30秒で、150円。正直言って、大人なら乗らずに歩いた方が早いし節約。だから今までは「いそっぷ橋」を歩いて渡った記憶がある。これは日本初の「モノレール」(懸垂式鉄道)で、正式名称は「東京都交通局上野懸垂線」。公道をまたぐため、動物園の施設じゃなくて東京都交通局が運転する路線なのである。都営地下鉄や都バス、都電、日暮里・舎人ライナーと並ぶ、ちゃんとした交通機関だったとは。いや、知らなかった。

 上野動物園に一番行ったのは、学生時代だ。上野は高校・大学時代にずっと通学に使っていた。ヒマなとき、元気ないときには、動物園に行ったり、国立博物館で仏像を見たりしていた。心が落ち着くんだよね。動物園だと特に「サル山」。面白くて飽きなかった。人間界を見ているような気がして、自分を振り返ることもある。今回久しぶりに見て、そんなには面白くなかった。時間がいくらでもあると思っていた青春期と違うんだろう。今じゃ旅行で何度も見て、ニホンザルなんか全然珍しくない。ドライブ中に出てきても、今じゃ止まることもない。今回はてっぺんで見渡しているサルが良かった。
   
 ジャイアントパンダも見た。実は初めて。一応見たんだけど、どんどん通り過ぎるからよく判らない。拡大すれば、写真に写ってはいる。(下の一枚目。)子どものシャンシャンだと思う。周りでそう言ってた。父親のリーリーも出てたけど、隠れていて写真に撮れてない。どうしてもうまく写らない動物がいる。そもそも出てないとか、遠くにいたり、動いてるとか、他の客がジャマだとか。そんな中で、ゼニガタアザラシは良く撮れていた。3枚目は動物の慰霊碑。あまり意識してなかった。
  
 モノレールで西園に行くと、コビトカバが2頭いた。何でも「ジャイアントパンダ」「コビトカバ」「オカピ」が三大珍獣なんだという。オカピも近くにいて、お尻だけちょっと見えた。全体は遠くの木陰に隠れて見えなかった。さて、コビトカバだけど、これかあ、と思ったのは小川洋子「ミーナの行進」を読んだからだ。ものすごく面白い小説で、これを読んだらコビトカバを見たくなるから。(最初の2枚。)3枚目はタテガミオオカミ。最後はバーバリーシープで、彫刻みたいに動かなかった。
   
 小さい頃は動物学者になりたかった。動物を見て歩くのは大好きだけど、美術館と同じく自分で動いていくのが今じゃけっこう面倒。それに日本の動物はかなり野生で見てるから、わざわざ動物園に行かなくてもいいかなあ。最後に上野動物園で一番の文化財だけど、すごく空いてる場所。それは寛永寺五重塔。東照宮のすぐ近くにあるが、何故か動物園の敷地内にあって、入園料を払わないと近づけない。重要文化財指定で、歴史散歩で見たい場所だが、動物園の入園料を払ってそれだけ見るのもなあ。一方、動物園目当ての親子連れや外国人客はほとんど近寄らないので、隠れたスポットとも言える。写真はあちこちから撮ったものだけど、全然判らないですね。
   
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