実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

サービス 実戦教師塾通信八百十号

2022-05-27 11:16:58 | 子ども/学校

サービス

 ~顔が見える場所~

 

 ☆初めに☆

先週は「うさぎとカメ」が、会食を再開して3度目でした。皆さん、お持ち帰りするものだと思っていた思惑とは全く反対に、回を追うに従い「満席」状態は膨らんでいます。そんな状態にこちらが対応し切れず、会食を再開して以来、文字通りてんてこ舞いを続けています。

これはもちろん、前も言ったように嬉しい悲鳴状態です。何より「お客さん」の笑顔が会場にあふれている。そんな中、私たちはずい分大切なことを経験し、学んでいる気がします。このことは、読者の皆さんにも伝えておきたいと思った次第です。

 

 1 雨の中での満席

 お知らせした通り、この日のメニューはから揚げと飾り寿司(太巻き)でした。食事をして行く方には、豆腐とワカメの味噌汁を用意しました。

これは仕込んでひと晩寝かし、二度揚げしたから揚げ。

これが皆さんに配布した飾り寿司。「桃の花」だそうです。そして、あくまで「看板用」の、特大に「うさぎとカメ」をかたどったもの!

右側の黒いエプロンをした方が、これらの飾り寿司を作ってくれた「ユウミ」さんです。飾り寿司の奥に、てんこ盛りのから揚げが見えます。手前の鍋には炊き立てのご飯が入ってます。

 

 2 「効率」とは違う場所

 写真で会食の様子をお知らせ出来ないのがとても残念です。前回より会食スペースを広げて開始したものの、すぐに対応できなくなり、配布スペースを縮小して食事テーブルを増やした。以前、配布するだけだった時は、人の動きが一方向だった。しかし、会食だと配膳コーナーを、皆さんの行き来することが分かった。ご飯とみそ汁で一回、その後おかずをもらいに来る。その配膳コーナーには、やがて「お代わり」の子が加わることも分かった。お皿とお椀を持ってくる子には、両方を渡せない。みそ汁を渡したあと「もう一度来てね」と言い渡す。この時、スタッフが「お盆」を思いついた。最初に全部渡せるし、お代わりもご飯やおかずの両方を渡せる。とてもいい方法だと思った。隣の調理室で見つけた小ぶりのお盆が役立ったと思った。しかし、これは間違いだった。

 大人は片方の手か両方の手に、大体が配布された食材やお米を入れたバッグを持っている。子どもはお菓子をポケットやリュックに入れているので、手には余裕がある。だからその子どもの手に、子どもが食べる分を配る。しかしこれを始めると、「お盆を持つのは無理な子ども」がいることに気づいた。それまでは一杯のご飯を大事そうに運ぶ、小さな子どもの姿があった。やがて、スタッフのひとりが、そんなお盆を見て「運びます」と、テーブルまで運び始めた。「お客さん」の方には余裕が出来たように見えた。一方、我々スタッフはテーブルと配膳コーナーを何度も行きかうようになり、いつの間にか担当するポジションを忘れた。何より、このやり方で余裕をなくした私たちは、もっと大事なことをしなくなっていた。

「ご飯の盛り付け、もういいと思ったら『ストップ!』って言ってね」

「みそ汁熱いから、下の方を持つんだよ」

等という声掛けを、いつの間にかしなくなっていた。会食が始まって、皆さんは必ず片づけをしていた。今まではお茶碗やお皿を両手に抱えた。しかしこの日、お盆を片付けようとする方に「そのままでいいですよ」と声をかけるスタッフが生まれた。

 「サービス」とは、人との会話を少なくする。あるいは、人との間を隔てるのが「サービス」だと気づいた。次回はさらに「改良」して、会場の一角に「お済みの食器・お盆はこちらに置いてください」というテーブルを置けば、皆さんにはわかりやすく、動きもスムーズになるはずだ。しかしこれだと、皆さんの「これはどうしますか?」という問いかけや、対面での「ご馳走さまでした」のやり取りが無くなってしまう。私たちの目指す「顔の見える子ども食堂」にはならない。

 では、私たちがやっていることは何なのだろう。この場合は、「おもてなし」も「サービス」と同じで、一方的で傲慢でしかない気がする。でも、「おかげ様」とか「お互い様」というものなのだろうか。まだしっくり来ない。

 

 ☆後記☆

昨日の夕方、旧知の友人が亡くなりました。十年以上会ってなかった。具合が良くないとは聞いていました。たまに電話すると涙声になることがあって、本当にそうなんだなと思ってもいました。西村ゴンベエと名乗り、周りもそう呼んで来ました。出会いは校内暴力の燃え盛った80年代の初め。今はスポーツジムとなっている駅前に、当時は「非行少年」と呼ばれた悪ガキたちと「寺子屋」を始めたのです。そんなわけで、私の教え子もずい分世話になりました。その後はパキスタンやフィリピンのスラムの人たちと繋がって、文字通り「架け橋」となって来た。たまたまですが、私が異動した中学校に娘さんがいました。もう30年前のことです。あの頃彼女は、「お父さんは最近、平気でパキスタンの言葉で話すようになっちゃった」と言ったものです。

知らせを聞いて自宅に駆けつけると、立派な髭は健在でした。まだ顔が温かったので耳は聞こえてるはずだと思い、お礼を言いました。72歳。


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