実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

(続)危ない  実戦教師塾通信四百二十九号

2015-02-13 11:52:48 | ニュースの読み方
 (続)危ない
    ~多くの反応をいただいて~


 1 消防士

 297号に、色々な反響をいただいた。どれも現在の状況に危機感を覚え、発せられたと思われるまじめな内容だった。しかし、気持ちは分かるが、肝心な部分はしっかり押さえたいな、というのが私の思ったところだった。
 少し時間をおいたので、知らなかったことも出てきたし、政府の発言にも少し変化が見られる。
「いてはいけない」
「行ってはいけない」
なる対応が、ようやく政府から出始めた。「ようやく」だ。いの一番に出たのは、
「許しません」
「闘います」
だったことを覚えておくべきだ。治安と武力の強化が第一にされた。これらが、私たちのはやる気持ちを挑発したと思った方がいい。
「火事があったら、消防士が火の中に入って救出活動をしないといけない」
とは話されたが、火事場のことは話されなかった。
「火事は海外だった」
ことをスルーしていたのを、誰も指摘しなかった。そして、
「火事の原因を究明し、対策を講じないといけない」
ことも話されなかった。

 
 2 スカーフ禁止
 まず、各メディアは、イスラム国の凶行批判に終始した。少し時間が経(た)って、冷静をわずかばかり取り戻した。そして、パリでの新聞社襲撃事件について、
「命を懸けて風刺画をやるものなのか」
「絵そのものは品のないように思える」
と、当たり前のことを語れるようにもなった。
 ネット上に出てきて思い出した人も多いと思う。原発事故の後に、足や手が三本になった力士が相撲をとっている絵だ。あの絵を描いた漫画家が、今回のシャルブ襲撃の時、新聞社で殺されている。あの絵は、原発事故があったというのに、オリンピックにうつつを抜かしている日本に向けたメッセージだったという。しかし私たちは、そんな指摘が込められていることなど知らなかった。それ以前に、あの絵からとんでもなく下品で無神経なメッセージを受け取ったからだ。あの時日本政府は、抗議文を送っている。しかしなぜか、当時の話とこの漫画家の受難が、公式に上がっていない。
 もうひとつ思い出したことがある。2004年のフランスにおけるイスラム教徒のスカーフ禁止法、である。公立学校に通(かよ)う女子生徒はスカーフをしてはいけないという法律を、当時の大統領シラクが提案している。
 おそらく相当に深いところに根っこがある。私たち日本人からすれば、スカーフごときファッションに、国が介入するのは変だということになる。しかし、ブルカ(スカーフ)着用が、イスラム法で規定するものだということであれば、それはフランスを凌駕(りょうが)する事実ともなる。「自由/平等/博愛」をうたいながらも、みずから「一級国」と称するフランスが、それを認めるのは難しいに違いない。追い打ちをかけているのが、長年に渡る移民政策の失敗だ。国内の少ない求人状況で、若者の不満の捌(は)け口は、結局「弱い」ところに向いている。ネオファシストの一部が、イスラム国に流れたという観測は間違いないと思われる。


 3 海外での戦争
 少し付け足せば、イスラム国のうたい文句と言える「忠誠」と「排他」は、ヨーロッパの歴史とも言える。欧米の歴史は、「わが国が『一級国』である」とするための歴史だったと言ったら言い過ぎだろうか。古代ローマが、ラテン語を唯一のものとしたように、フランスが自分たちの言葉を唯一のものとし、ラテン語を使用禁止としたのは、16世紀前半である。

「我々の言語は明晰(めいせき)……もっとも支障のない語順をもって……」
「同時に、我々の言語は美しさと優雅とにおいていかなる他の言語に劣(おと)りはしない」(『ポールロワイヤル文法』)

一体、どの母国言語も、その民族にとって「明晰」で「支障ない」ものだし、おそらくは「美しく」「優雅」であるとまで行かなくとも、そうありたいと思っているはずだ。私たちは、海外渡航者や生活したことのある人たちから、
「フランスで英語を話しても相手にされない」
とは、よく聞かされたところだ。ヨーロッパの病根は、ずっと深いところにある。
 先の「スカーフ問題」を、こういったプライドのフランスに的(まと)をあてたらいいのだろうか。それとも、自国の法律を遵守(じゅんしゅ)する人たちに的をあてたらいいのだろうか。
 どちらに軍配をあげるにせよ、私たちは、
「テロに屈しない」
なる単純な世界にはいない、という認識は必要だろう。ヨーロッパのたどった歴史と、イスラムの世界とがきしみあっている、その中で事件は起きている。海外での戦争を見る時、そこには自分たちの知り得ない出来事/歴史があるという、当たり前のことを私たちは踏まえるべきなのだ。


 4 「行ってはいけない」をめぐって
 新潟在住のカメラマンが、シリア渡航を止められたことが話題になっている。カメラマンが、まるで政府関係者から拉致(らち)されるのではないか、と思えるようなきわどいレポートは、その後、
「報道の自由を侵害するのではないか」
「誰が現地を取材するのか」
と結論づけるものが多い。一方、後藤さんの死から(と思われるが)三日後、自民党の高村副総裁は、
「後藤さんにむち打つつもりはないが、後藤さんの行為は『蛮勇(ばんゆう)』と言うべきものだった」
と言っている。「自己責任」ではすまされないものがあると言うのである。どっちが正しいのか。
 どちらも正しいと思える。「行ってはいけない」と言うのは国ばかりではない、周囲の人間も言わないといけないし、言ったに違いない。止めないといけない。多くの人が悲しみ傷つく。
 しかし、それでも行くという人を誰も止められない。それがこのカメラマンの正しいというか、正当性だ。カメラマンに言わせれば、もっと悲しいもっと傷ついている人たちがいる、自分の命と引き換えしてもいい、もっと大事なことがあるのだ、と言うのだろう。
 ちなみに言えば、「難民」とは、戦地を逃れてきた人たちだ。「(ここに)いてはいけない」思いで逃げてきた人たちだ。「いてはいけない」思いは、戦場でも同じなのだ。そのことは両者共に、とりわけカメラマンは踏まえないといけない。
 これら報道の中で、ひとつだけ間違っているものがある。「報道の自由」うんぬんを、伝家の宝刀ならん勢いで出している連中だ。自社の方針やいかに、と私は思うのである。では、あなたの会社はどこまで記者を派遣しているのか。シリアのどこまで派遣しているのか、ということである。その時の
「ここまでしか派遣できない」
という留意事項はどんなものか。これらすべては、
「報道の自由は必要だ」
を言う立場からすれば説明しないといけないことだ。これらをまったく考慮せずに記事を書いているとしか思えない。こういうのを、
「本当のところ、どう思っているか分からない」
と言うのである。少しずれるが、2011年、
「(原発から)30キロ圏外は安全」
と報道しておいて、自分たちは50キロ圏外に避難していたことを思い出す。

 平和憲法は私たちが作ったものではない。前も言ったように、そこに『帝国日本』が二度と立ち上がれないように、というねらいがあったことは間違いない。しかし日本は今、大急ぎでその『帝国』を復活させるかのようだ。
 「空手に先手なし」とは、近代空手の祖・船越義珍の言葉だ。かかって来たら避けねばならない、それから初めて反撃に転じるものだという教えだ。それは相手の攻撃があってのことなのだ。「行ってはいけない」。


 ☆☆
ポールロワイヤル文法なるものを持ち出したので、また「国語の先生は違うね」という声が聞こえそうで、ヤですね。これはフーコーやチョムスキーを読めば出て来ますが、分かりやすく、こんなものは国語とは関係がない、と言っちゃいます。
あと、アジア/日本でも「一級国」問題はあるわけです。とっても複雑でかつ非常に面白いと思っています。いずれ話題にしたいと思ってます。

 ☆☆
前回お知らせしたように、明日は第一仮設住宅への「区切り」の支援です。仲間と一緒の様子は次回にお知らせします。
そして、あとひと月で、あの日からまる4年。前から気になっているんですが、あの年の3月半ば、つまり原発事故の直後、柏に大量の「花粉」が降りたんです。不安になった市民/住民から、市役所や保健所に問い合わせが殺到しました。その時の答えが「花粉」だった。あの前もあのあともそんなことはなかったんです。あれは何だったのでしょうか。

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