実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦的なⅤ  実戦教師塾通信二百七十七号

2013-05-03 15:29:01 | 子ども/学校
 若き教師に向けて

       ~その5「無能を乗り越える手だて」~part2「実際」二つ目


 1 ゴミとエサ


 このシリーズを始めた時に、これは今の学校における危機をどう乗り越えたらいいのか、ということを動機としていると言ったのをもう一度思い起こしておきたい。グチで子どもの現象をなぞって、あとは自己肯定に終始するという、みっともない姿をさらす多くの教師たちに、もううんざりだ、という若い教師に向けた「実戦的」手だてを示す、そのためにこの話は始めたのだ。この話の終着点はそこだ。

 前座で理解いただけたと思うが、給食をめぐる困難はひと通りではない。しかし、私たちは味覚というものが、生まれてすぐに具わっているものではないことも知っている。給食における危機は、チャンスでもあるということを、ある覚悟を秘めつつ胸に刻み、出発したい。途中で、そこまでやる必要があるのだろうかとか、そこまで出来ない、などという気分が発生するかも知れない。そうしたら、それは素直にそう思ってもらっていい。しかし、譲りたくないのは、そこまでやろうと考える立場/態度である。私たちが克服の対象としているのは、子どもの味覚や好みを支えている、「現在の」生活や社会なのだ。勝手放題に見える子どもたちの向こう側にあるものだ。ちなみに、ここでの給食の実際の場面は、拙著『学校をゲームする子どもたち』(三交社)に詳しい。本を補う形で書くことにする。

 さて、まず給食という仕事はまた言うが、「食事」に関わるということだ。大切な行程の、最後の締めくくりに参画しているという思いが必要だ。まず、配膳の作業だが、子どもたちは、とりわけ中学生は「かったるい」思いでこの作業に臨む。こんなことは「誰かにやってもらうこと」、いや「誰かがやるべきこと」ではあっても、自ら「喜び勇んで」やることではないからだ。そしてそれを待つ方も、授業でもないのに席について待つ意味が分からない。こんなの、家だったら電子レンジでチンだぞ、などと思うわけだ。だから、状態がいただけないクラスでは、盛り付けを自分でやってしまい、勝手にいただいているものもいるのだ。家と学校とでなんでこんなに違うの?みたいに思っているのが、現在の子どもの考えだ。ここでまたインポなグチ共に登場してもらえば、「残す」「食べない」というのが現状で、現代という時代なのだ、しょうがないだろう、文句を言うなら時代や社会に言っとくれといったところか。こういう態度は、もう給食という「食事の場所」に終わりを告げている。
 こういう担任のクラスでは、一部限られたものが自分の好物を、ある意味「つましく」食べるだけだ。食缶(料理の入ったバケツ)は、初めから半分ほどシチューや豚汁が残され、そこにさらに、子どもたちが残したものが戻される。一部動物の飼料になるとも言うが、無惨なことに変わりはない。配膳する奴らは、どっかのテレビのグルメ!番組かラーメン屋で見かけたのか、嬉々として器を台に並べて、そこにジャブジャブとおたまで注ぐ「エサ」スタイルだ。
 いや、好きな奴は堂々と次々にお代わりをするのではないか、という反論もあると思う。そうではない。すでに少し書いたが、単なる「好き嫌い」だというのに、それが「嗜好」として承認された家庭生活を持った、少なくない!子どもには、「嫌い」がステータスとなってしまう。信じ難いことだが、例えばサバを見て、
「こんなまずいものを!」(声がエコーしている)
と、喝破/断言/猪突猛進/茫然自失/頑迷固陋し、忌まわしいものでも見るようにする家庭(母親)さえ存在する。それが給食で出るのだ。ウチはフレンチざますの、なんてそこまで行かなくとも、こんな家の子どもが、給食そのものに顔を「醜く」歪めないはずがない。
           
         ここで一服。スターバックスコーヒーです。
          


 2 つぶさないといけない

 いや、そんな子どもは多くはないはずだ。それはそれでしかるべき指導をすればいいのではないか、という方もいらっしゃるだろう。そうは行かない。ここが大事だ。「実戦」的態度を貫くためにも、踏まえないといけないことがある。今の現実は、
「ステータスは、肯定の方ではなく、否定的態度で保たれている」
からだ。こんなケースでいの一番に思い出すことは、
「あの子、好き~」ではなく、
「あの子、嫌~い」
という子どもの現実だ。現状はつまり、給食の場合、「これ嫌い!」が、教室をリードする。
「オレが大好きなものにケチつけんなよ!」
という反撃はまず期待出来ない。だからせっかくのサバ好きな連中が「つましく」食べることになる。また、この場合ステータスな子どもの口から出るのは「嫌い」でなく「まずい!」なのだ。困ったことに、これはステータスなので、この「まずい!」が幅を利かせる。堂々の態度だ。こんなのが二人いれば、もう給食を台無しに出来る。給食に限らないぞ、大きく出ようか、歴史を動かして来たのだって、そのきっかけとなったのは、いいにつけ悪いにつけ、少数の人たちだ。分かると思うが、授業を左右するのも、ある一部生徒とのやりくりや、やりとりが鍵を持っている。また、無能な上にそれを無自覚に学校を引っかき回す教師が二人いれば、学校は崩壊する。放置出来ないのだ。指導は指導でも、こういう類は、「つぶさないといけない」のだ。
           
         デザートです

 私たちがこういう手合いと対決する時にぶつかる困難さは、繰り返すが、それが時代のもたらすものだからだ。時代がもたらす危機と対面しているからだ。危機は危機だ。チャンスとしてそれを変換することは、容易なことではない。「平常心で」などという、一般人の戯言は通用しないぞ。ドラえもんのような大きなポケット(ハート)の持ち主で初めて、通用する言葉だ。インポなグチ連中が太刀打ち出来るもんじゃない。かかって来い、という気持ちの中でしか「平常心」は育たん。かかって来い!

まずいだ?
うるさい!
嫌いと言え!
「嫌い」は許すが「まずい」は許さんぞ!
   (前掲書『学校をゲームする子どもたち』より)

 困難を排すべく、いざ「真打ち」の場所へ。


 ☆☆
小田原の酒匂中学校で、教室を荒らした犯人?捕まりましたね。2年生女子二人。2チャンネルで一応確認しましたが、教室内メチャクチャで、かなりの数の椅子・机が外に投げられていました。外や教室に散乱する学用品を見て、やっぱりみんな教科書持って帰ってないよな、などと学校関係者らしい感想も持ちました。住宅がそばにない学校なのかしら、さぞうるさかったと思います。3、4階から落としたのですから。女子が二人で?大変な労働だっただろうなと思ったりしました。ネットの見出しには「蛇口を上に向ける荒技」とあるんですよ。まったく「荒技」ではないわけで、これは生徒や学校関係者ではない、50代よりは上の人たちの記事だなあと思いました。

 ☆☆
憲法記念日。この日は私の両親の結婚記念日でもあります。死ぬ直前、司法書士の仕事についた父親は、大学の法学部卒です。いかにも父が思いつきそうな結婚記念日です。あまりお供えをしない私ですが、今日はどら焼を仏壇に添えました。

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