実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か

実戦教師塾通信百八十九号

2012-07-16 18:11:57 | 子ども/学校
 大津市皇子山中事件 ④


 いじめは続く


 今回のことと関係ないと思うかも知れないが読んで欲しい。夫婦関係がうまくいかなくなった。本人同士の話し合いがうまくいかない。周囲が心配しだす。しかし二人は離婚すると決めた。親族がまず聞く。「一体何があったと言うんだ」。仕方なく両者説明するが、その説明の過程でまたもう一度泥仕合をする。その後も友人や知り合いから心配するがゆえの「どうした?」があるわけで、その都度また憎悪をぶつけ合う。とうとう折り合いがつかず、調停・裁判となる。今度はその調停・裁判の度に、「いつ・どこで・こんなことがあった」と主張する。確かに「親権」や「お金」のことでの「勝ち負け」はある。しかし、両者には何も残らない。ぼろぼろになるだけだ。積極的な方向があるとすれば、この話し合いのどこかで一方が、
「すみません! 実は浮気をしてました、お金も使い込んで家のことはほったらかしで、働いて妻のために頑張ってたなんてのはウソです!」
と泣いてわびる、とかいう局面にでもなれば訴えた方の傷も少しは癒える。
 分かってもらえるだろうか。いじめ問題というのは繰り返し本人(親たちをも)を苦しめ続ける。いじめた方にはいくらでも逃げ道はある。
・そんなつもりはなかった。からかっただけだ。
・いつのことを言っているのか? 誰のことを言っているのか?
・ぼくたちは友だちです。誤解もあるかも知れないけれど、よく遊びました。

すでにA君は死んでいる。だから両親がこのことを反証しないといけない。証明するためには
「あれがからかいと言えるのか」
「○月○日の午後、息子にこんなことがあった」
「初めは息子の友だちだと思ってました。でもある時期から…」

のように言わないといけない。その「いつ・誰が・どんなふうに」という具体的な回想と弁明は、すでに何度も学校関係者に繰り返し訴えたはずだ。その具体的な回想・弁明はその都度、恥ずかしさにも似た悔しさをもたらしたはずだ。いじめは続いているのだ。それが当事者というものだ。分かるだろうか。訴えをいじめた側が認めなかっただけではない。いじめの場合、必ず学校側もそちらに同じ形で加担するのだ。いじめの過酷さは、相手がその事実を認めない限り、そして相手が別な理由を掲げる限り、遺族は論駁の義務を背負うことだ。そしてその都度、
「その事実は本人をこんなふうに悲しませた」
「この事実は本人をこんなにもみじめにさせた」
「あのことは本人の誇りを微塵に吹き飛ばした」

と言わないといけないことだ。いじめは続くのだ。分かるだろうか、この反論のひとつひとつがまた一度、被害者(死んでしまった場合はその遺族)をみじめにさせ、苦しめる。
 もっともっともっと早い段階で、学校側の誠実な対応があれば、
「申し訳ありません。こんな悲しい結果にどんないい訳もできません」
という言葉があったらと、両親は悔しさを募らせ、そして息子に対する温かい言葉や対応がなぜないのだと、怒りに体を震わせたはずだ。
 私の目に触れたニュースでは、7月12日夜の臨時全校説明会で、校長の説明の前に全員の黙祷があった。そのことにきちんと触れたのは同日夜のNHKのニュースだけだったと思う。読売では「保護者の要請で全員の黙祷」とある。NHKによれば、校長が「学校は早期に調査を開始していた。報道にあるように取組が遅いということではなかった」なる説明をした時だったという。保護者の父親が、

「あなたたちは間違っている。なぜ、説明の前に黙祷しないのか」

と抗議した。そのことを「要請」と読売が言っている。その父親の声に会場は満場(800名近い保護者)の拍手だったという。そんなわけで、皇子山中の教師の良識はもう地に堕ちているようなので、保護者の「当たり前の感覚」そして、市長(側)の正道に期待するしかない現実のようだ。まあ、保護者の良識ある対応として端的だったのが、2006年、岐阜県の中学生の自殺でのことだったと思う。学校側が「いじめの事実調査をどうでこうで」と言っている間に、加害側の生徒の保護者が「謝罪したい」と速やかに動き始めてしまったことだ。今回それはない。ここで少し訂正。再び言うが、皇子山中が特殊なのではない。私はいじめ事件で学校側が「悲しむべき出来事を悲しむ」と明言した記者会見を知らない。せいぜい「本日、あってはならない出来事が起こりましたが…」とかいう枕詞をつけるのが関の山だ。その後は「現在、いじめがあったかどうか調査中」になる。「誠実な対応」が身体から抜け落ちて「正確な把握」に苦慮するマシンとなるのだ。こいつら一度として「とってもかわいい子だったのに…」「笑顔がかわいくて…」と言ったことはない。これらの言葉はすべて、児童生徒が交通事故や事件に巻き込まれた時の学校関係者の声だったはずだ。
 それにしても、ある時は「そっとしておいて欲しい」と自ら学校に頼んだ両親の、具体的な知られたくない事情にもこれから踏み込まれる。まだ多くのことが語られていないが、全国の津々浦々の人間に、そこまで知られてしまうのかということも出てこよう。そんな辛いことをまだ学校は止めることができる。まだ間に合うのだ。担任(どうせクズ野郎だ)が、加害生徒のところに行って、
「なあ、本当のことを言おうよ、こんなことA君はイヤだって思ってたんだろ? たまたま身体がぶつかったなんてウソはやめろよ。オレもおかしいと思っていたのに、こんなことになるまで何にもしなかった。オマエの父さん母さんにも一緒に、まずはご両親のところに謝りに行こうよ」

と、働きかけること、そこからしか始まらない。担任は説明会に出席しなかったらしいし、加害生徒は学校を休んでいるという(ネットでは実名がとっくからでている。そんな実名をネットで暴いてどうする? 全世界に実名ばらまいてどうする? 正義の鉄拳か!? ネット依存の臆病バカどもが!)。
 学校がいじめ問題を隠蔽するのは、
① 親・生徒に学校を信用されなくなる
② 加害生徒およびその周辺に重篤な影響を与えるかも知れない

といった理由で「正確な把握」を訴える。ひいき目に見れば「間違いであってくれたら」の思いがある。そして、
③ 学校の過失を認めれば「賠償問題」を引き受けないといけない

これは市民の血税なのだ、ということだ。こういったことをひっくるめて
④ 自己保身
以上で理由が完結する。
 学校だけではない、今の日本は「日々の流れの攪乱、システムの乱れ」を恐れる。日本のどこでも黄色や赤の警告ランプが点滅したままの状態で、なぜか、なぜかその日常を保っている。今の原発を見ていればそのことは明々白々だ。「それだけのことが起こった」という覚醒は、原発だけではない、この皇子山中事件もどうも不明瞭だった。
「警察も夜の家宅捜索だったから良かった。でなかったら土曜か日曜にやってもらわないと」と言ったのは、私の優秀な仲間。
「警察も、学校にはたくさんの生徒がいるんだから、あんまり大騒ぎして欲しくない」
とは、インタビューに応じた皇子山中の生徒の発言。
 学校(化社会)とは、こんな風にメカニックに自動化している。こんな状況になっているというのに、まだ「おおごとになったらどうしよう」という働きが動いている。

 真相解明・因果関係の解明に明日はない、という話、今日は少し触れることができたけれども、本論はまた延期。


 ☆☆
いいニュースはないのか。あります。冒頭写真が「ニイダヤ水産」の試作品です。昨日届きました。おいしい! 昨日は秋刀魚と銀鮭を食べました。社長が「腕に少しは自信がある」と言ってましたが、焼いている時の脂の感じといい、箸を入れた時の身のほぐれ具合といい、充分な手応え。そして「塩加減をどうしようか」と悩んでいたそれは、甘塩の、ご飯がはかどるいい塩梅ってやつだったと思います。試作品は無印ですが、本番は表に福島県を形どったラベルを貼るといいます。皆さんもおいしい「ニイダヤ水産」の干物をどうぞ。ネットでの閲覧も近いうち始まるということです。ちゃんとここで連絡します。

 ☆☆
白鵬、今日の取組(対豪栄道)さすがですねえ。白鵬の『相撲よ!』(角川書店)にある言葉を引用してこの号を閉じましょう。
「いつも、いつも、私の前には『これを越えてみろ』と言わんばかりに 『試練』という山が現れる」

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1 コメント

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忘れてはならないもの (リーガルハイ)
2013-07-20 17:44:07
邪法の僧達が(邪悪な勢力の)味方となって、
智者を失おうとする時は、師子王のような心を持った者が必ず成仏するのである。

繰り返す

邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は
師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし
(佐渡御書)
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