チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

電子チケットの顛末

2021年11月13日 11時37分02秒 | 日記
こういう時代が来た
ある方がNHKフイギアスケートの観戦に誘ってくださった。入場申し込みはその方が行ってくれたが、本人確認の電子チケットは自分のスマホで行わなければならない
それが結構めんどくさいわからない
しばしば彼女の手を借りて何とか写真提出まで漕ぎつけた。しかし写真審査は不合格。大きさに決まりがあるらしい。もう一度出す
「常時の服装の写真にしてください」との注意のメール
「常時が着物です」と相手のメールを探
して伝える。その間一日かかった
「着物で観戦ですか」とメールが来る
「多分洋服です」
「ではその時の洋服の写真にしてください」
写真を取り直すのに時間がかかり、やっと出すも開催日の二日前、開催一日前に写真審査はオーケー、そして座席と入場許可のチケットが開催前日の夜九時に届いた

その旨お世話になった方にメールを入れて安心していただく
朝確認したらチケットは健在
用意をして出かける、大勢の人人人、念の為確認

チケットがスマホから消えた!!
「えっどうしよう」

ここまで足止めをされるということは、観戦断をするなということだと切り替え、電話をしたり、受付の人に話したりせず早々に退場

何かとスマホの機嫌が悪かったのに無理無理チケットを取ることにエネルギーを使っていたけど、もっと前にやめておけばよかった、そうするれば私の代わりにスム-スに入れる人に観戦権利を渡せた

想像するに大勢の中、きっと体も冷える、トイレも長蛇の列であろう。みたい気持ちと自分の年齢を考えれば、神様が必死に止めてくれたのだと感謝
それにしてもお世話かけた方に本当に申し訳ない

どの位置で断念するか、そのチャンスを逃してしまったことに自分の弱さを感じる。
「断るとき」
その「とき」の見極め方もっと勉強だな
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物が繋ぐもの 461

2021年11月12日 09時15分40秒 | 日記
きものおたすけくらぶ(丸富社長、富田清美氏の主催)の盛装の会に招かれ出席
秋の好天のもと神田にある「学士会館」で行われた
この建物は古く格調が高い、昔は学士さま、つまり帝国大学卒業(東京大学などの国立大学)の関係者しか入れなかったし、お部屋を使うこともできなかった

向かい側には一橋会館があり、そこは一橋大学の関係者の使う建物、その隣にはわが母校共立講堂がある
この共立講堂は東京空襲で焼け残り、人の集まる建物が少なかったころ、音楽会や講演会、芝居などはこの講堂がよくつかわれていた。NHKの、のど自慢大会の実況はこの講堂が当初使われていた

またその隣には小学館がある。もともと子どもたちの雑誌を多く出版していたのだ。さらに歩くと岩波書店、そして神田の古本屋街が軒を連ねている
つまり学徒の町神田

そこで正装ではなく、盛装した淑女紳士たちが秋の日差しを浴びながら歩く。神田の町が一気に華やいだ一日

盛装とは、「あなたが着たい着物を着て集まり楽しみましょう」年齢がどうの、色合わせもいろいろ、素材もなんでも、着方もあれこれ。そして大広間に100人ばかり、会場は色彩にあふれ、喜びにあふれ、お互いに褒め合い、笑い声が絶えず、声色もみんな一オクターブ高い、歩く姿も躍動。まさに笑いの天才女子学生の姿

古事記に現れる神々もかくやあらん
「アナ嬉し アナ楽し アナ可笑し」
日本人の生き方の基本の基本がこの言葉にあること多くの人が忘れているが、
心の底ではちゃんと「遊びにけりと生まれけり」とわかっているのだなと思う

富田社長は自ら変装してさらに出席者を楽しませていらっしゃる。それがこの会の目玉とか

丸富という会社は着物のお手入れを中心に縫製もしていて、まさに「きものおたすけくらぶ」
「着物を着ていく場所がないという方が多かったので、思い切ってこういう会を催すことにしました」
もう何年も続けているらしいがチャ子ちゃん先生は初めての参加。参加者の喜びあふれた顔顔顔がきっと富田社長を慰めるのだろう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩秋

2021年11月11日 10時29分15秒 | 日記
イチョウの葉が色づくと秋も終わりだなあと感じる
今朝の散歩では新宿はまだイチョウの葉は青々としている
しかし一昨日行った浜町のイチョウ並木は三分の一は色づいていた
場所によっては紅葉の仕方も様々
自然はその違いを如実に見せてくれる

しかし今
人間はみんな一様に同列平等を求めている。同じ木でも場所により太陽の光の受け方で微妙に違う、そこが個性だ

日本人は個性的でなくなった
もっと各々が光っていて面白かった時代を知っている
「日本沈没」という小説を書いた小松左京は、日本人が個性を失うことで、日本という国が無くなっていくのを、感じていたのだろうか
ある日気が付いたらみーーーんな一緒
時々テレビを見るとタレントの顔も話し方も一緒、誰が誰ってわからない
切りそろえられた芝生のようだ
上にいる人が使いやすい人がタレントに向いているのだろうか

この季節同じ場所に育った木々の葉も赤や黄色、そしてまだ青々とした緑がそれぞれ織りなしていて、光に向かってキラキラ輝いている。だから見飽きない。その下を歩いている人間はチャコールグレイの衣裳に白いマスク、下を向いて黙々と同じ方向に歩幅も同じように歩いていく

個性的にというと、一気に髪をオレンジに染めてみたり、真っ赤なズボンをはいて人との違いを強調するが、それは個性的とはいいがたい
人と違うことをするのが個性でもない
多数決というのも個性的ではない
みんな同じがいいということだ、嘆いても仕方がないが、個性ある人々が輩出しないと文化はすたる。文化のない国は亡びる

晩秋の美しさに会うと個性美を尊重したいと思わされてしまう
人生の終わりもかくありたいと願う


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怖いもの無し

2021年11月10日 08時54分00秒 | 日記
「チャ子ちゃん先生は怖いもの無しですねえ」
との感想をいただいた
ハッと気が付いた、そう怖くない!神を信じていれば、しょせん人間は神の手の中にいる
自分が自分がと思っていると怖くなる。苦しくなる

「何のために地球に来たのですか?」
という質問があったとき「何しに来たんだろう?」
走馬灯のように過去の出来事を思い出した、そして出た答えが
「体験するために来た」

体験はすべてこの宇宙の根源様に報告する義務があるんだなと思った
根源様は人間を作ることはできても、宇宙全体を作ることはできても、そこに肉体を持って生活することはできない。肉体があることのすばらしさをもっと感じなければいけない

根源様に借りた肉体だものこの地球を去るときお返ししなければいけない
しかしながらなんと雑に取り扱っていたことだろうか
すでに体に傷がある、無傷の体をいただいているのに汚してしまっている
人間の体の仕組みのすばらしさはいまさら説明するまでもないが、すべての臓器が自分の仕事を黙々と休む間もなく行っている

人は夜になると体を休めているが、私たちの臓器はそのまま休みなく働いているのだ。そういう体を誰が作った?人間でないことは確か

その肉体を養うために快食快便快眠がある
そして喜怒哀楽これも体験だ、喜怒哀楽があることは体が動き意識が働いているという証、そこに体験が生まれる
体験は肉体を持っていないと出来ない、宇宙の根源様はすべてのことがお出来になるが、体験はできない。だからその体験ができる人間から、体験とは何かを感じていらっしゃるのだと思う

幸不幸も体験してみないとわからない。何が幸せで何が不幸と感じるのか、其れも体験して初めてわかる

起きることは体験を感じたい神様のお心、そうだとすると絶対にどん底には落ちない。そこにたどり着くと、怖いものなしになる



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の学びかな?

2021年11月09日 08時48分56秒 | 日記
恥ずかしながら銀行に借金がある
この借金のため社長の座を降りられないでいる
借金を作ったのは社長なのだから、責任も社長にある
「株式会社 秋桜舎」は38期を終わった。若い人に会社を譲ろうとしたが、借金会社では譲れない、もちろん断られた

ここコロナ騒動で会社も小さくし、一人会社になった。悲壮感は全くない。根が楽天家なのだろう
決算期が終わり、いつもの面接の帰り友人と会った。そのとき「税理士さんに自己破産という手もあるよ」と言われたのよ。と口を滑らした
「ダメよそんな考え」
今まで弱音を吐いたことがないのでびっくりしたらしい

2、3日して、彼女の共同経営者が私に会いたいといってきた
「銀行だけですか借金は」
「そうです」
「いくらですか?」
「〇〇〇です」
「五年で返しましょう」
返済計画を練ってくださり、私の働き方も指示していただいた、その方には働いてお返しする

夢のような話で、今時男気のある方だなあと胸が熱くなった、その提案に心から感謝する
税理士さんに事の次第を連絡するとわがことのように喜んでくれた

件の友人
「比佐子さん最後のこの世の学びがお金だったのね、お金に関していつも涼しい顔をしていたので、会社がそん内情とは知らなかった、打ち明けてくれて嬉しい、私も時に役立つね」
「あなたは天使よ、嬉しいありがたい」
「これも循環ね、比佐子さんがいつも誰かを助けているから、その誰かから私達も背中を押されたのだと思う、いつも誠意ある付き合い方をしていただいているもの、恩返し」

お金を尊び、お金に振り回されず、だけどお金のエネルギーをキチンの受け止めて日々を送ろうと強く思う

そういう決心を固めていたら金融庁の告示が手に入り、日本銀行の筆頭株主がロスチャイルドであるときされていた

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立冬

2021年11月08日 09時45分50秒 | 日記
昨日は久しぶりにお茶室に
本格的なお茶室は落ちつく「炉開き」は部屋中が炉に向かって集中し、そこからまたエネルギーが部屋中に拡散する感じがする

濃茶の季節なのだが最も苦手
姉のお供でよくお茶会に連れていかれていたが、濃茶の関になると尻込みするので「飲んだふりして回しなしなさい」それでも席に出なさいと言われる

振りをしていいんだとおかしくなってしまうが、姉の茶道への姿勢は「ただひたすら楽しく」ということだったように思う

こちらの茶室には姉が残してくれた私のところにあった茶道具を使っていただいているので、何か懐かしく姉を思う時間となる

茶道については劣等生で耳学問になっていて、作法も身に付いていない。でも着物を端正に着る、着物を着て動く、目上の方への接触の仕方などなど人間としてのかかわり方の基本を学ぶ場所でもあると思う

着物を品よく格調高く着るなら茶道を教わるといい、といつも思っている

姉は長くいたお弟子さんに
「ヒサちゃんが真剣にお茶のお稽古をしてくれるとあの子はいい茶人になれると思う」
とつぶやいた時があったと姉の法事の席で聞いた
そういう下心もあって私をお家元の茶席に連れて行っていたのかといまに思うがーーーうーーん

あっ
結構なお点前でした。と思い出から現実へ

立冬という筋目に決心をした
来年から「比佐子つれづれ」の再開をするということ、其れと「いまさら聞けにあ着物の悩み」という相談日も作る

残された年数が少ないので、先輩たちに教わったことの、取材して感じたことなど、伝え続けて自分の人生を閉じたい。立冬日に固く思った


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物が繋ぐもの 460

2021年11月07日 09時29分22秒 | 日記
「そのきもの先生の本、12か月の着物の中にありましたね」
「いやーーー」
1999年に世界文化社から発刊した本で、その中の着物はすべてチャ子ちゃん先生の私物だった
22年前、モデルとしても出ていて、今を時めくIKKOさんのヘアーメイク。そのころ彼はデビューしたばかり、その前に出版した朝日新聞の「中谷比佐子の着物組」が彼の本格的デビューだと思う
そのとき「自分の夢はタレントにもなりたい美しい着物を着て」とおっしゃっていたので、今はその夢がかなって大満足。一生懸命に生きている方だと思った

さてこの本の話
その頃の着物サロンの編集長の石川清子さんが、この本の編集人になて下さっている。人柄の良い、静かな方だけど本質的なことをしっかりとなさる方だった
読者目線で本づくりをしようと思い、内容を告げたら
「ナカタニサン個人をもっと表に出した内容がいいと思う。モデルにもなってね」
という本づくりになり、じゃじゃじゃーんチャ子ちゃん先生登場ページが設けられた

その時に着ている着物が本を読んでくださった方の目に留まり
「あのおきものですね」
となる

ある時電車の中で
「ナカタニ先生ですね、そのおきもの大好きです。12か月の71ページに載っていましたね」
「えええーああありがとうございます」
「触っていいですか?」
「どうぞどうぞ」

着物を愛する方々はいいと思ったら食い入るように見ているのだなと、ヒヤッとした

このころ積極的に着物の柄を考え、コウデイネートに凝って、更に作る人の個性を生かしたいと様々な着物づくりに励んでいた
そしてその着物の装い方にも工夫をしたり、着物のもつ様々な表現を試してもいた。失敗もあったが、着物のことが本格的に理解できた時期だったと思う

久しぶりに出席した着物パーテイで、何十年ぶりかに着た着物を覚えていてくださった方がいて、嬉しいやら照れるやら

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物が繋ぐもの 459

2021年11月05日 10時45分52秒 | 日記
紡ぎ糸で織っていないのにどうして「大島紬」と呼ぶ?
明治40年まで真綿紬、玉糸紬などの紡ぎ糸が大島紬の糸の主流だった
明治40年に今まで絣を手で一本ずつくくっていたのを「締め機」という織機が開発され、その織機に使う糸は生糸ででないと使えないので、その後は縒り糸の生糸が大島紬の糸となり、あの光沢のある、衣擦れの音の美しい着物になった

元々は薩摩藩の統括であり、薩摩の高級お召し物として大島紬は存在していて、生産量も少ないことから、一般には出回ることはなかった
しかし噂は耳に入っていたので、明治に入ると一気に流行し生産が追い付かなくなって「締め機」が考案され大量生産の道を歩み始めた。と同時に絣もより細かいものが出来るようになった

といっても一柄16反なので現在のような機械織には程遠い生産量

売れ始めると絣の工夫が精密となり、大島紬の蚊絣や亀甲絣は着物痛の憧れとなった。絣を十字に合わせるというのも織り手にとってはなかなか困難。そこである主婦が考案したのが、木綿針を使って、針で経糸を救い上げ通した横糸の絣のきちんと合わせるという工夫。この技術は今でも続けられている

大正に入ると大島紬を持つというのはステータスになり、あれも我もと買い求めた。大島紬は絣を使わないバラ柄という島の娘たちの機織りの練習柄があり、織り上がったバラ柄は絹なので娘たちのちょっとした余所行きになっていた。バラ柄をきれいに織ると竜郷柄を織り恥縁るという順序があったみたい

竜郷という村は大島紬の織の本場のようなところで、最も盛んであったと言われている

奄美大島の基幹産業は「黒糖、砂糖づくり」それに今度は「大島紬」が入り、明治大正昭和平成はこの二つの産業が奄美大島を潤した

しかし
大島紬は昔のような力はなく基幹産業とは言いづらい。しかしここに住む人たちは、縄文時代から続いている織の技術をきちんと次の世代に繋ごうと黙々と技術を磨いている

絣や泥染めの追及に人々は日夜努力して、先人たち残した知恵を生かし続けている
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

着物が繋ぐもの 458

2021年11月04日 08時15分13秒 | 日記
何十年ぶりなのかな奄美大島に行ってきた
飛行場も新しくなり、前の飛行場の後には「田中一村」の美術館がたっていた
泥染めの工房で「チャ子ちゃん先生のライブ」をする
しかし離島の電波事情が素人の手に負えなくてとぎれとぎれの発信となり、ご覧になっている方にイライラさせてしまった

初めて奄美大島に行ったときは鹿児島から船で行った
その時のサンゴ礁の美しさが今も目に焼き付いている
二度目に行ったときは鹿児島からプロペラ機で奄美に渡った。東亜国内航空だった。夏になると団扇を渡されみんなのんびり海を見ながら飛行機に乗っていた。その時も美しいサンゴ礁が私達を迎えてくれた
島に着くと蘇鉄の木がうっそうと茂り、赤い実がはじけていた。遠くは芭蕉の山近くはサトウキビ畑、なんとも長閑な風景だった
ハイビスカスの赤が青い空にくっきりと光り、生まれて初めて見るバナナの青い実、パパイアという果物の実、車窓から身を乗り出して眺めいった

勿論大島紬の取材に行ったのだ
なのに島の景色や食べ物の印象の方が強く、東京に戻ってもその話ばかりで先輩たちにあきれられてしまった

行った目的は「家庭画報装趣会」というページを設け、そこで家庭画報独自の着物を発表をしようという企画。それを通信販売までに持っていくというのが
本多編集長の狙いで、その独創的なデザインをする使命をもって編集長ともども訪れたのが第二回目だった

一回目は予備取材で、大島紬の工程をしっかり勉強をすることだった
東京からは問屋さんや業界紙の人は訪れるが、女性誌の記者が来るというのは珍しく大歓迎を受けた

その為景色と食べ物が一番印象に残ってしまったのだ
しかし20工程をみっちり見て歩き、その中でも特に印象的であったのは「泥染」の作業だった。てーちぎ(車輪梅)の木を斧で削り、その煮汁に糸をつけ、更に泥田に持って行ってその糸をつける作業を70回繰り返すと得も言われぬ温かみのある黒色になる。これが大島紬の特徴である地色。この黒は黄色人種の日本人の肌を美しく見せてくれる、サンゴ礁を砕いて中和をしていた
つまりは島にあるもので、この美しい色を作りだしていたのだ
(続きは明日)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

16時間の絶食

2021年11月03日 07時59分59秒 | 日記
今年の元旦から始めた一日二食、おやつ無し
珍しく続いている
それと一緒に行うことを決めた朝の散歩、それはもういい加減、できない日多し「朝活」に誘われても一か月しか続かない、つまり四回でギブアップ
睡眠が朝方で4時以降に熟睡するタイプ。その時間前後は地震があっても絶対気が付かない

というような人間が16時間の絶食が続いているのだ、驚異

此れもコロナ騒動のおかげだ
体を動かさず家に閉じこもっていると、どうしてもお茶飲んだり何か口にしたりが習慣になる。その結果お腹周りがぶよぶよ、しかもあちこちと不調を嘆くことになっていく

着物を着るとき「湯文字」をつけるのだが、その時お腹の贅肉が持ち上がり、その見苦しさにある日仰天した。それと同じように咳込むことが多くなった。咳が出るときは食べすぎの時。からだが「食べすぎですよ――」と教えてくれているのだ

それで元旦から朝食を抜くを始めた。朝はお茶と梅干、昼はたっぷりと頂き、夜は軽くする。18時には軽くいただき、8時のライブに備え、その時間以降は一切食べない。だから正確には18時間の絶食になる

手に入れたことは快食快便快眠
いつも心穏やかでいられる。それが大体6か月くらいから功を表した。再開した声楽では二つ高い音が出るようになった
さらにこの9月から再開したバレエも前より体が軽くなっているので、むつかしい振りにも何とかついて行けている。そのためワンランク上の注意を受けてそれにも挑戦中

怒りとか孤独とか、自分否定という感情が一切消え、常に楽しい、幸せ、嬉しい、面白い。人に親切にできるし、親切にされる。自分の視野にゆとりが出来たので、物事を俯瞰して眺められ解決は瞬時にできる

何より野菜や果物がおいしく、愛おしい。作る人に感謝の心が強くなる。そのうち一食になるのかな?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする