チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

きものを識れば日本が見えてくる 7

2024年01月31日 07時14分40秒 | 日記
江戸時代豪商のほとんどは呉服屋だった
そして大正時代に百貨店へと変貌遂げて、今あるほとんどの百貨店は大正時代から健在
昭和50年代までは百貨店の呉服部長は出世頭だった
どの百貨店もワンフロワーが呉服売り場であった

京都の室町通は呉服問屋が軒を並べ全国の百貨店の仕入れ担当が肩で風切って反物選びをしていた
親方日の丸という立場にいる人たちのなんと偉そう
というのがそのころの若いチャ子ちゃん先生の感想

日本橋の堀留町も呉服問屋が軒を並べそのほとんどは京都の問屋の出店だが、東京が経済の中心であるため「本店」と銘打っていたところも多かった

百貨店の仕入れ担当への問屋の接待は当たり前で、特に京都の料亭や花街への接待が盛んだった
東京はカジュアルで、仕入れ担当との接待はゴルフとか居酒屋みたいなところで気炎を上げていて、フレンドリーな関係であった

そのため偉いさんは京都に行き、本当に品物を選びよく働く中堅どころは東京で問屋としっかり話し合っていた

きものの色や柄にも西と東の違いがはっきりあって、西向きの問屋、東向きの問屋と別れていた
しかしその問屋の多くが近江商人であった、もちろん高島屋なども近江の高島村出身が先代なので、近江商人がきものの販売哲学を持っていたということにもなる

近江商人の哲学は「三方由」というもので、作る人、売る人、買う人がそれぞれ幸せを感じる商いの仕方だ

確かに掛け率も今とは比較にならないほど低かったし、商品知識も深かった。更には作り手へのアドバイスも的確であった

一流の料亭に行ったり、花街で遊ぶのもそこで学ぶものがあったからで、一概に豪遊でいい気なもんだとは言えない
一流の客を相手に商いをするには一流を知っていなければならない

儲けの中からの接待で人を喜ばせ料亭や花街の景気に加担していた商人
今は投資で自分が潤う方に向いている



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