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「チェリビダッケの音楽と素顔」フリードリヒ・エーデルマン著

2013-02-23 21:39:03 | Book
クラシック音楽を全く聴かない人でも、カラヤンの名前くらいは知っているだろう。それでは、セルジュ・チェリビダッケという偉大なマエストロの名前はどれだけの方がご存知であろうか。昔々、ミュンヘンの新聞にそのチェリビダッケによる「カラヤンはコカコーラの如し」というインタビュー記事の見出しが掲載されて、一大スキャンダルになるという事件があったそうだ。

さて、生前そのような辛らつな発言で舌禍事件を度々起こしていたというSergiu Celibidacheは、1912年ルーマニアで生まれた。音楽家を志すようになった17歳の時に、息子を大統領にしたいという願望をもった父親と対立して、お金ももたず着のみ着のままで家出をした。ブカレストでバレエスクールのピアノ伴奏者として働きながら上流階級の令嬢に燃えるような恋におちたが、彼女の両親の猛反対にあい、やがて数学や哲学、音楽を学ぶためにベルリンに渡る。1945年、戦時中にナチスの協力したという理由で指揮活動を禁止されたフルトヴェングラーの後任指揮者のオーディションを受け、見事にベルリン・フィルの首席指揮者のポストを得ることになった。

戦後の混乱期とはいえ、あの輝かしいベルリン・フィルの首席指揮者だ!やったね、チェリ。私が、彼が間借りしていた大家だったら、御礼と就職祝いの1ポンドのコーヒーなどプレゼントしてくれなくても、一緒にものすごく喜んだと思う。しかし、フルトヴェングラーの非ナチ化審理では、彼にアドバイスをして、47年に指揮が許可されると、チェリビダッケは尊敬するフルトヴェングラーに自らの意思で首席指揮者の地位を返還したそうだ。人格的にも器の大きさを感じるなかなかよい話なのだが、そのフルトヴェングラー亡き後は、カラヤンとのポスト争いに負けて失意のうちに去ったのは有名な話である。

著者のフリードリヒ・エーデルマンは、ハイデルベルク大学で数学を学んだ後に音楽家に転向し、1977年にミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席オーボエ奏者となった方である。(ちなみに2004年に退団した後は、奥様のチェリストのレベッカ・ラストさんと日本も含めて室内楽コンサートを行っているそうだ。)本書は、ひとりのオーケストラ奏者による「クラシックジャーナル」に連載されていた記事が好評のため、一冊の本にまとめたチェリビダッケの回想録である。

ある程度年季の入った熱心な音楽愛好家のなかで、彼の指揮による演奏を生で聴くという経験をされた方は、一生の幸運にも出会えたと言ってもよいのではないだろうか。そんな方たちへの私がめったに使わないと決めている”うらやましい”という感想がついでてしまうのも、手に取った時の軽さと活字の大きさから、よくある”素顔”という巨匠紹介エピソードものという予測とは違って、本書は音楽的にえるものが多かったからだ。チェリビダッケの音楽へのこだわり、スタイル、指揮を通じて、音楽という貴重な秘密の箱をほんの少しのぞいたような気持ちすらしてくる。

そのわけは、「音響理念とその現実化」という章にわかりやすく掲載されている。チェリビダッケは、従来からのオケの構成員から第一ヴァイオリンを増やすことによって、より均質だが豊かで深い音質と音調を生みだした。そして、すべての楽団員は他の奏者と各セクションを聴くことを、時間をかけたリハーサルを通して求められた。トレモロ、ボーイング、テンポ、チェリ流は、暗く豊かで重めのドイツ音楽を響かせていった。又、契約書というものを交わさなかったり、団員の入団オーディションには必ず出席したり、という音楽への情熱のこだわりをチェリ流で通したのだが、それがいつのまにか私が知っている”キャンセル魔”という気難しい指揮者という印象も残していったのだろう。

カラヤンを師と仰いだアンヌ・ゾフィー・ムターとの協演ではテンポ感もフレージングも全く異なっており、ゲネプロの後に彼女は病気を理由にキャンセルをしたというエピソードも、それも致し方なしと思える。

ところで、これほど優れたマエストロにも関わらず、所謂世間的には彼が知名度が全くないのは、プレイバック・レコーディングを最初に導入して豊富なビジュアル的にもこだわったカラヤンと違って、録音や録画を徹底的に嫌っていて、誰もが聞けるCDやDVDをあまり残していないことにもある。彼は音楽とは時間軸上の流れのなかでひとつのものとして生まれ、それらの音のつながりの関係性において音楽上の意味をもちうると考えていた。音の一粒のためにカット編集してつなぎあわせた録音など、彼にとっては音楽ではなかった。冒頭のカラヤン=コカコーラというのも、元々は新聞社オーナー夫人がレコーディングをすればヘルベルト・フォン・カラヤンに負けないほど有名になれるのに、というあまりにも素朴な意見に、間髪いれずに「有名というなら、コカ・コーラも大変有名ですよ」という知名度に関する価値観をチェリ流に答えたものを、誤解を招く表現に変えられてしまったというのが真相だ。

チェリビダッケ流儀は、実に正解だとは思う。しかし、後世の人間からすれば、生の演奏がかなわないのであれば、せめてCDでも聴くしかないのではないか。最近の音楽の傾向として、シャープで色彩豊か、クリアーであかるめの音楽になりつつあるようだ。フルトヴェングラーがふる「運命」とアシュケナージのそれは、全く別の音楽に聴こえる。現代的な音楽の方がなじみやすいのだろうが、ふくよかで暗く重めのドイツ音楽を求めていったら、許先生でなくてもやはりチュエリビダッケにたどりついてしまう。

■こんなアンコールも
『カラヤンの美』
『カラヤン生誕100年 モーツァルトヴァイオリン協奏曲』
「指揮台の神々」
「素顔もカラヤン」眞鍋圭子著
「ヒトラーとバイロイト音楽祭」ブリギッテ・ハーマン著


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2 コメント

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時間が止まる (calaf)
2013-02-28 22:14:15
こんばんは。チェリビダッケの日本公演があったのですが、聴き逃しました。チケットが高かったのと、演目がブルックナーだったためですが、聴くべきでした。時間が静止したとか、天国に連れて行かれたとか、普段辛口の友人がそういうのですから本当なのでしょう。ライブ関係の全集を持っていますが、チャイコフスキーの幻想序曲は本当に時間と空間が止まりました。もう一度書きます。ライブを聴いておきたかった。
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calafさまへ (樹衣子)
2013-03-01 22:07:30
そんなせっかくの機会を逃したとは!!
いつも思うのですが、CDと生の演奏は違うということです。
その点では、チェリビダッケの録音を拒否したこだわりも肯けるのですが、やはりそんな機会に恵まれない人の方のが圧倒的に多いわけで、今となればせめてCDだけでも・・・と思うわけです。

>演目がブルックナー

オーケストラ中のオーケストラ曲と言われているようですが、正直、私にはよくわかりません。
けれども、この作曲家が得意だったチェリビダッケでしたら私も天国の雲にのれたかも・・・です。

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