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オカピーさまの1万本には遠く及ばぬながらも、それなりの本数になると予想されるが、中でも間違いなく生涯のベスト5に入るのが、「中国の小さなお針子」である。その中である象徴的な場面の音楽に使われたのが、「モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番」の第二楽章である。優雅で哀しい色に包まれたあかるい旋律を聴いて、私はメニューインを連想した。典雅で天国的な繊細な美しさをたたえたメニューインの演奏。先日のカラヤン生誕100年企画の「カラヤンの美」に引き続き、カラヤン指揮によるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番を、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督が撮影した作品が本作品である。
眼鏡をかけてグランド・ピアノに向かって、シュトラウスの「青きドナウ」を弾き始める普段着のカラヤン。するとヴァイオリンの主旋律が聴こえたかと思うと、メニューイン(Yehudi Menuhin)がヴァイオリンを弾きながらピアノの蓋からあらわれる。この演出は、冴えている。紺のVネックセーター(映画は白黒だがイメージ的には紺色)を着た彼は、当時50歳。額が後退しながらも、誠実だが複雑な性格を印象を与えるいかにもユダヤ人らしい面差しのメニューイン。彼よりも少し年長のカラヤンが微笑みながら、熱心に身振り手振りを加えて指揮論をはじめるところから、映像がスタートする。
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どうもカラヤンの講義によると、メニューインも小さな自分のオケで指揮もしているらしく、彼の小さなオケと自分の大きなオケ(ウィーンフィルやベルリン・フィル)との比較を述べ始める。メニューインに抽象的な指揮法や音楽論を語りながら、実際指揮をするのは、指揮者になるのはとんでもなく困難であることを諭しているように見えてしまうのは、年長のカラヤンが椅子に座りリラックスして微笑みながら熱弁をふる一方、メニューインの方はヴァイオリンを手にさげながら身じろぎもせずに、生真面目な顔でじっと立ちながらカラヤンの話しを聞いている姿勢のせいなのだろうか。(ちなみに、メニューインがバース音楽祭を主宰してバース・フェスティヴァル管弦楽団と共演したモーツァルトのVn協奏曲第3番は、私の愛聴盤である。)
年齢にふさわしい落ち着きがそなわったメニューインと、初老の域に達しても情熱的な若々しさを表情とスタイルに保持しているカラヤン。当代随一の最高の演奏家と巨匠の出会いにおける対照的な静と動は、構成上の巧まれた意図なのだろうか。なかなか興味深いものがある。
やがてお城の一室のような円形の部屋でリハーサルがはじまる。
第一楽章の出だしを第一ヴァイオリンが弾き始めると、すかさずカラヤンが演奏をとめ、「あかるい音でなくもっと憂いのある音で」と指定してメニューインに模範演奏をさせる。
メニューインが、弓を指板に近づけて演奏すると全く異質の憂いに満ちた深みのある音に変化する。今だったら、中学生でも知っている演奏方法の区別だが、同じ調の同じ音符とは思えないくらい音色が変化するのが、刺激的だ。弓の返しにアクセントをつけない、レガートで、と次々にヴァイオリン・セクションに指示をだすカヤラン。それをじっと聴くメニューイン。クラシック音楽に興味のない方には、指揮者不要論まで飛び出すが、とんでもない。指揮者によって音楽も随分変わる。カラヤンにとっては、自分の音楽を表現するためのオーケストラであり、ソリストとしてオケと共演して音楽をつくる立場のメニューインとは、音楽上の見解に相違があるのではないかと想像する。
最後にカラヤンの演奏における美の力説を聞きながら考え込んでいたメニューインが、「美は自然に生まれる」と応えると、はじめてカメラの方を向きながら「おお、ユーディ ダンケ!」と彼の肩をまるでお父さんのように優しく抱きながら微笑んだ。こんなカラヤンの素朴な微笑を見た事がない!
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ナイーヴで線の細いメニューインの音は、今日だったらもっと技術的に巧いヴァイオリニストはいると感じるのだが、忘れがたい繊細な音がとても好きである。
ここで奏でられるのは、大衆のモーツァルトを具現化したような演奏である。特に第三楽章のヴィヴィットなコントラバスは、聴衆を挑発するかのようにせまってくる。それでいて、扇情的ではない。演奏中、指揮をするカラヤンは殆ど目をつぶっている。カラヤンが目をつぶって指揮をするのは、自己の重要性に誇大な感覚を持ち、目的を達成するために他人を利用する自己愛説もあるが、いずれにしろ目をつぶっていても彼の指揮する演奏にはずれはない。
モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番 イ長調《トルコ風》K. 219リハーサル付
Mozart: Violin Concerto No. 5 in A major, K. 219 "Turkish"
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
Vn:ユーディ・メニューイン
管弦楽:ウィーン交響楽団
1966年制作 モノクロ 52分(演奏29分)リハーサル23分 ステレオAAD
■アーカイブ
・『カラヤンの美』
・「コンサートマスターは語る 安永徹」
・ヴィオラ奏者清水直子さんの「情熱大陸」
・「舞台裏の神々」
calafさま・・・思わず吹き出してしまいました。
何しろカラヤンのドキュメンタリーを映画館で観て以来、、、すっかり私もカラヤンのとりこに・・・。
同じ時代を生きていたら、彼は私にとって最高のロックスターになっていたかもしれないのに。
>彼はオーケストラ団員に自分のブランドの楽器販売まで推奨しました
商売の才覚がありますね。でも音楽に関しては、妥協を許さず、最も厳しかったのも自分に対してだと思います。
ところで、calafさまが以前お薦めしてくださった「指揮台の神々」を読もうかと思ってもいるのですが、ためらう理由があるにですね。それは、後ほど貴殿のブログにコメント致します。^^
>「指揮台の神々」を読もうかと思ってもいるのですが、ためらう理由があるにですね。それは、後ほど貴殿のブログにコメント致します。
私でよければいつでもお答えしますが、それは何でしょうか?
「指揮台の神々」をためらう理由ですが、すっかりぬけていました。失礼。
この本は、私の予想によりますと、指揮者のよく言えば人間性、悪く言えば暴露話しではないかと思っております。
calafさまと教養のお話しをしたばかりで、このような本のテを出すのはいかがなものかと、自粛しました。
カラヤンやベルリン・フィルのドキュメンタリーを観て、やはり指揮者は神ではないが、特殊な才能と凡人にはできない努力がいるとあらためて尊敬しました。
>「指揮者とかけてコンドームと解く云々」!!
そうそう思い出しましたよ。なければもっと○○○いい・・・でしたね。
だとしたら、サイモン・ラトルとカラヤンはベルリン・フィルにとって対照的かもしれません。
「指揮台の神々」近々必ず読みますね。