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「スプートニクの落とし子たち」今野浩著

2014-03-25 22:22:01 | Book
1957年10月、世界初の人工衛星「スプートニク1号」が打ち上げられた。
この成功にショックを受けた米国が、科学技術予算を大幅に増額しただけでなく、その影響は軍事・科学面だけでなく教育編成にも及んだ。日本政府も科学技術立国として国立大学の理工系学部を拡充していくことになる。

「資源のない国において、日本が一流国になるための鍵は科学技術である。」

科学技術国日本!現代でもすっかりおなじみのキャッチフレーズに心をはずませたヒラノ教授基”コンノ青年”も、翌年の春、日比谷高校から東京大学に進学した180人のひとりとなる。駒場キャンパスにはりだされた理科1類の合格者は550人。(ちなみに今は、1000人を超える。)本書の主人公は、慶応高校から東大に進学した友人の後藤公彦氏。

コンノ青年は、工学部の学生や卒業生たちの親睦団体である「丁友会」の委員となり、この団体で委員長を務める後藤氏と出会うことになる。東大では珍しく眉目秀麗で、上品なツイードジャケットを来た彼は、吉永小百合のいとこだという。頭脳、容姿、人格まで極めて優秀な人材、それが後藤だった。そんなオールAの後藤が卒業後の進路に選択したのが、富士鉄(富士製鐵株式會社)への入社だった。理由は、20年後には社長になるつもりだからだ。

ちょっと危なくないか?確かに後藤は、東大工学部のベスト10に入るエリート中のエリートである。そんな優秀な頭脳を生かして社長になりたいというのも当然かもしれない。しかし、予定調和のように、当時社員1万人以上の大企業で、すでに社長になるのが既定路線のように考えているのは、私から考えても心配だよ、後藤くん。案の定、後藤氏は就職した会社で理系の技術者が社長になる道がないことを悟り、社内のMBA留学制度を利用してハーバード大学に留学し、やがて外資系の銀行に華麗なる転進をとげる。一気に高給取りの副社長となり、妻と豪華マンションに暮らすようになる。1978年のことであった。

その後、後藤氏はどのような人生をたどるのであろうか。タダノ人ではない。この日本において、東大工学部のベスト10に入る人物なのだ。とても美しい女性が、その容姿をいかしてその美しさにふさわしい人生をおくるかどうか。美しさもひとつの天賦の才である。しかし、恵まれた資質をもっているにもかかわらず、美しい女性が必ずしも美貌にそった人生が続くわけではないことを、私たちは女優の生き方を見て気がついている。

後藤氏は不幸だったのか、幸福だったのか。他人が推察しても仕方がない。彼は、彼なりに満足のいく人生だったのではないかと思うのだが、運を言えば、不運が重なったとはいえないか。そもそもが、スプートニク・ショックの時代の流れで理系にすすんだことが、彼の最初の不運のはじまりだったのかもしれない。そして、今も昔も、いや昔も今も、エンジニアだけでなく理系にすすんだ人は、その能力や貢献に見合う厚遇はない。

■おなじみの工学部ヒラノ教授シリーズ
「工学部ヒラノ教授」
「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」
「工学部ヒラノ教授の事件ファイル」
「すべて僕に任せてください 東工大天才助教授の悲劇」


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