精神世界の探求者としては、是非とも精神世界の勉強をすべきだ。もちろん、勉強などせず、「ボクは、生まれつき、並外れた直観力の持ち主なのだ。だから、真実がおのずから見えてくるのである」というスタンスでいくのも、ひとつの道だろう。でも、率直に言って、それはオススメできない。いくら直観が発達していても、お釈迦さまやクリシュナムルティを初めとする古今東西の聖賢の言葉を学ばずに、自己流を貫くというのは、あまりにも遠回りで時間のムダというものだ。
それも、むやみに多くの知識を身につける必要はない。そんなのは、一部のマニアがやってればいいこと(笑)。それよりも、本当に重要で基本的なことだけを、繰り返し繰り返し、自分自身に刷り込んでいくのが良いと思われる。
というのも、この精神世界というジャンルは、多くの知識を身につけることを目指すものではない。「意識の覚醒」を目指して探求するもの。
そこで、「意識の覚醒」とは何か?・・・というシンプルな疑問が出てくる。もっとも、これについて話しだすと長くなるので、とりあえず後回し(笑)。ここでは、とりあえず、「この地球生命系で生きる人間は、眠って夢を見ているような意識状態にある。意識覚醒とは、そこから目を覚まして脱け出すこと」としておきたい。
夢の中で怪しい人に追いかけられて、必死で逃げていたり、夢の中では大学で何年も留年していて、「今年こそは卒業したいのに、明日が試験だ」とアセっていたり・・・。そういう経験は、誰にでもあるだろう。でも、夢を見ている間は必死でも、目が覚めて現実に戻ってしまえば、「あ、あれは夢だったのか・・・」と、しばし呆然。あのときの必死さは、いったい何だったのか。ここでいう「意識覚醒」とは、そういうのに似ている。つまり、この「世界」や「自分」という夢から覚めること。
それはともかく、多くの聖賢の言葉、とくにインド系の思想にしばしば見られるのは、「意識覚醒のために、ジャマになるものを取り除け」という教え。
ここでいう、「意識覚醒のジャマになるもの」とは何かといえば、これは、だいたい相場が決まっている。「思考」とか、「過去の記憶」とか・・・。まず、そういったところ。
長い地球生活で、濁りに染まった意識をクリアにしていくためには、意識の中をお掃除して、キュッキュと磨いて、ピカピカにしなければいけない。
意識の中にたまっている老廃物とは、なんといっても「過去の記憶」。多くの人は日頃、なんの役にも立たない「過去の記憶」に向かって、ああでもない、こうでもない・・・とハテしない堂々巡りの対話を続けている。「思考停止」とは、それを放棄することを意味する。
つまり、精神世界のことを、せっせと勉強した探求者は、「よし、ボクは過去の記憶を捨てて、思考を止めることにしたぞ」と決意することになる。
では、過去の記憶を捨てて、思考を止めたら、どういう人間になるのか。まず考えられるのは、「アタマの中がカラッポで、何も考えていない人」ということになるだろう。
つまり、精神世界というのは、「アタマの中がカラッポな人になることを目指して、せっせと勉強する」という、なんとも逆説的な世界なのだ。
「じゃあ、勉強して知識をつけなければいいじゃないの」ということになるかもしれないが、やっぱり、そういうワケではない。
「思考停止」の理想的なお手本といえば、昔も今も、決まっている。小さな子供とか、犬とか猫とか、イルカとか・・・。そういう、余計なことを何も考えず、「今」という瞬間を楽しむことだけに専念している、なんとも楽しげな存在たちだ。いつも本当に楽しそうにしている。彼らこそ、「あんな風になりたいな」というお手本。そうすれば、悩みはなくなる。
イエス・キリストは、おさなごの頭の上に手を置いて、「この者のようにならなければ、天国の門は開かれない」と言った・・・と、聖書にも書いてある。
そうすると、「だったら、いつまでも、小さな子供のままで、大人にならなければいいじゃないの」ということになるかもしれない。それこそ、ピーターパンだ。あるいは、「人間よりも、イルカのほうが進化している」ということになるかもしれない(・・・まあ、実際にそう思えるフシもあるのは否定できないけど)。これまた、人類にとって、ひとつの理想像だろう。でも、やっぱり、そんなことはない。
「おさなご」というのは、思考停止のお手本ではあるけど、最高の理想像ではないのである。
というのも、大人には、知識も知恵もある。精神世界の探求者たるもの、単に思考を止めれば良いというものでもない。というのも、「愛と知」こそが、精神世界の二大価値。「知」を磨き、賢い人間になっていくこともまた、大切な探求テーマであることに変わりはないからだ。
天使たちが住む領域には、「愛の天使」と「知の天使」がいて、それぞれに「愛の天界」と、「知の天界」を作っている。かの高名なる「霊界日記」の祖・スウェデンボルグ以来、伝統的な天界観は、そのようになっている。この「愛と知」こそが、精神世界の二大価値なのだ。
もっとも、この2つは並んでいると言っても、おのずから上下関係がある。というのも、「愛の天界」のほうが、「知の天界」よりも、格上として位置づけられている。
それは、「愛は知に勝る」という、もうひとつの原則があるから・・・だそうな。だから、結局のところ、いくら「知」を磨いたところで、「愛」には勝てない・・・ということになっている。
それだけ、「知」には限界があるということだろう。それだけじゃ、まだ足りないみたいだ。それでも、「知」が「愛」に次ぐ、精神世界の二大価値のひとつであることに変わりはない。
つまり、単に、「子供のように何も考えていない」というのは、悪いことじゃないんだけど、ベストの理想像とまでは言えない。それは、最善ではなく、次善であるにすぎないのである。
「大人としての知を十分に身につけているにもかかわらず、しかも、子供のように何も考えていない」というのが、それを上回る理想像だ。それこそが、ホンモノの賢人だ。
ホンモノの剣の達人は、モーレツに剣術の修練を積んだあげく、最後には、剣を捨てて徒手になる。弓矢の達人も、最後には弓を捨てるという。「酒は、飲もうと思えば飲めるけど、あえて飲まない」というのに、ちょっと似ている(笑)。
それこそが、「アタマがカラッポな人になることを目指して、せっせと勉強する」という矛盾の、極意ということになるだろう。
(その3に続く)