宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

精神世界と勉強 その4

2014年03月15日 | 精神世界を語る

かつて、筆者が「宗教書や哲学書や、精神世界の本を読むのが趣味」と公言していたところ、年配のビジネスマンから、「何か、悩みでもあるのかね?」ときかれたことがある。

どうも、宗教や哲学にひかれる人というのは、「悩んでいる」というような、世間の通念があるようだ。そう言えば、「身内に不幸があったとき、どこで聞きつけたか、某巨大教団の人がすかさず勧誘にやってきた」・・・というような話を、誰でも一度や二度は耳にしたことがあるだろう。

確かに、なんらかの悩みをキッカケに、この道に入る人は少なくない。新興宗教はともかく、精神世界の探求に入るのは、まちがいなく良いことだ。

もっとも、「何か、悩みがあるのかね?」と言われても・・・。悩んでいると言えば、その通り。なんといっても、「地球で人生を送っている」ということ自体が、最大の悩みだ。

かつて、ある宗教の信者が、「神様を信じていない人たちが、何を支えにして生きているのかが不思議だ。彼らは、不安にならないのだろうか?」と筆者に聞いてきたことがある。

まあ、そりゃ誰だって不安くらいはあるだろう。この地球という有為転変の世界では、何が起きるか分からない。どんなに強い人でも、「自分の先行きに、絶対の自信がある」という人など、なかなかいないだろう。

あらゆる不安の中でも、人間にとって最大の不安は、死ぬことに対する不安だとされている。世間の一般人は、この不安をどう乗り切っているのだろうか。

それに対する筆者の答は、「意識するしないは別にして、おそらく、実存主義の人生観によって支えられているのだろう」というものだった。

ここでいう「実存主義の人生観」ってのは、ひらたく言えば、「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精いっぱい生きよう」といったところ。

「20世紀最大の哲学者」こと、ハイデッガーに言わせれば、「人は、いつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」。・・・これこそが、もはや神様を信じることができなくなった、現代人の生を支えている信念だという。

よく使われる例えだけど、「いつかは自分が呼ばれる番が来ると知りつつも、長い刑務所暮らしに慣れて、日常のお務めに埋没している死刑囚」といったところか。

だとすれば、現代人の生は、なんとも危うい土台の上に成り立っているものだ。じゃあ、一体どうしろと言うのか。この問題を、大哲学者がどう解決したかというと、実のところ、解決していない。問題を提起するだけしておいて、解決しないのが、ハイデッガーの特徴(笑)。

それはともかく、むしろ、こんな地球で生きていることに、疑問を感じなくても済むほど適応できている人がうらやましい。

「こんな地球での人生も、いつかは終わるときが来る。それまでのガマンだ」というのを心の支えにして生きてます・・・というような人は、少数派なんだろうか。これは、ネガティブなようでいて、実は明るい希望そのもの。こういう考え方をしていれば、人生は暗くなるどころか、むしろ明るくなる。

世の中には自殺する人も多いけど、そういう人は、そのことを忘れてるんじゃないかと思う。地球的な人生に対して、マジメで前向きすぎる考え方をしているから、その反動で、深刻になってしまうのだ。

どちらにしても、精神世界を勉強すると、だんだん、それはどうでも良くなってくる。たとえ、「人は、死んだらどうなるんだろう?」という不安や疑問をキッカケにして勉強を始めた人でも、進むにつれて、それが小さな問題に見えてくるものだ。

精神世界の探求は、宗教を信じることとは、まったく異なっている。

世間には、精神世界の探求とは、「死後の世界とか、輪廻転生とかを、信じることだ」と思っている人がよくいる。確かに、そういう面もあるとはいうものの、最大のテーマは、そこにはない。もちろん、信じるのもいいんだけど、別に信じなくてもいい。

死後の世界だろうと、輪廻転生だろうと、「何かを信じる」ということに、それほどの重要性はない。

もちろん、筆者自身が、その両方とも「ある」と考えているのは言うまでもない。ついでに、いくらアセンション信者とバカにされようが(笑)、アセンションもあると考えている。でも、人がそれを信じる必要があるとは思わない。

この分野には、「これを信じなさい」と言ってくる人が、あまりに多い。そういう人は、上記の信者のように、「人は、何かを信じていなければ、生きていけない」という思い込みを、まずは捨ててかかる必要がある。生きていく上で、なんらかの信念など、特に必要ない。ましてや、自分の信念を、他人にまで広めようとアガいたところで、まったく意味がない。

もちろん、「何も信じるな」なんていうような、ムチャなことを言いたいワケではなくて、信じることも大いに結構。

それより、「信じなくても、平気な人になる」というのが、精神世界の探求者にとって、とりあえずの目標。その言葉を信者氏に贈ったところ、目を白黒させていた・・・。

(続く)