精神世界の勉強は、とにかく「基本」が大事。
仏典でも、コーランでも、古代の教えには、驚くほど「繰り返し」が多い。教えのエッセンスとなる、本当に重要なことなら、何回でも、何十回でも、何百回でも繰り返す。耳にタコができるほど、徹底的に刷り込む。それが、古代の教えに共通する特徴。
古代インドのお釈迦さまの弟子たちも、最終的には瞑想して解脱を目指すんだけど、それ以前の段階として、まずは教えを勉強しなきゃいけなかった。
仏弟子たちが守るべき指針として、ブッダ教団には「八正道」(はっしょうどう)というものがあった。
その八つの項目の最初は、「正見」(しょうけん)。これは文字通り、「正しく見る」ということ。ブッダ教団に入信した者にとっては、これが第一の務めとなる。
これは、多くの仏教の解説書では、「正しく物事を見ること」と書いてある。新興宗教の教祖も、「皆さん。偏りのない目で、正しく物事を見るようにしましょう」と講演し、信者は「はは~っ」と恐れ入る。そんな具合に、八正道は、現代日本の宗教界でも有効活用されている(笑)。
それは確かに、その通りなんだけど、問題は、「正しい見方」とは何なのでしょうか・・・ということにある。そこを語らずして、「正しく見ましょう」なんて言われたところで、信者としては煙に巻かれるだけだろう。
「正見とは、正しく見ることである」、「正定とは、正しく定に入ることである」・・・。
これじゃ、「落馬とは、馬から落ちることである」とか、「腹痛とは、腹が痛くなることである」というのと一緒。
某教団の信者は、「正見とは、常に偏りのない尺度で物事を見て、正しく生活すること」・・・(以下略)・・・の8項目を見て思い悩み、「こんなに難しい八正道を、どうすれば実践できるのでしょうか?」と幹部に質問した。幹部は、「あれは、全部できたら神さんですわ(笑)」と答えたという。
でも、元はといえば、そんな抽象的で難しい話ではなかった。むしろ、とてもシンプルで具体的な話だった。現代人が、それを難しくしてしまう。
仏典にいわく、
>友よ、正見とは何であろうか。
>友よ、それは、苦に関する知、苦集に関する知、苦滅に関する知、苦滅道に関する知。
>これが、友よ、正見と言われる。
(中部経典 『識分別経』)
「正見とは、苦集滅道(くしゅうめつどう)に関する知である」というのが、ホンモノの釈迦による定義。
あまりにも単純明快なので、「お釈迦さまは、本当は何を言いたかったのでしょうね?」とかなんとか、解釈したり、議論したりする余地がほとんどない。
ここでいう「苦集滅道に関する知」というのは、どういうことなのか。
ひらたく言えば、こういうことを知ることだった。
↓
人生は苦しい。生まれ変わり、死に変わる輪廻転生はもっと苦しい。たとえ、一時的には楽しいように見えても、人は老いて病んで死ぬ。最終的には必ず苦しい。
どうして、こんな目にあわなきゃいけないのか。
実のところ、それには原因がある。
目を覚ませば、それは終了する。
・・・これこそ、仏教のエッセンス。お釈迦さまの教えの、まさに中核の中の核心教義。それを知るのが、「正見」。
つまり、「正見」というのは、仏教の基本教義をせっせとお勉強して、仏教的な人生観とか、モノの見方をしっかりと身につけること。それに尽きると言っていい。
要するに、お釈迦さまは、ここで「お釈迦さまの教えを、しっかりと勉強して身につけなさい」と、弟子に指示しているだけ。
本当に重要なことなら、何回でも、何十回でも、何百回でも繰り返す。耳にタコができるほど、徹底的に刷り込む。それが、仏弟子たるものの務め。
ここで言いたいのは、「教えを勉強する」というのが、それだけ大事だってこと。
「ボクには並外れた直観力があるから、勉強する必要はないのだ」なんてことは、普通はありえない。
やっぱり、精神世界には勉強がつきものなのだ・・・。
(続く)