宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

世界は激変中

2011年10月18日 | こっくり亭日記
 
コルマン・インデックスで言う、人類の意識進化が完成する日。それは、「2011年10月28日」。早いもので、あと10日くらいに迫ってきた。
 
いくら激変の時代とはいえ、あと10日で世の中がコロッとひっくり返るというのは難しいだろう(笑)。でも、だからといって、コルマン博士の予測がはずれたのかといえば、それは微妙なところだ。
 
「世界の金融システムの全面的な崩壊による、人類の価値観の激変」は、本当に起きてもおかしくないんじゃないか?・・・というところまで、事態は切迫してきている。ヨーロッパの経済危機は、誰の目にも明らかとなってきた。
 
とはいえ、破綻の瀬戸際にあったギリシャへの支援策は、どうにかまとまりそうではある。「ヨーロッパ経済が潰れるのは時間の問題だ」と唱えている人は、経済関係者にも、精神世界関係者にも多いが、本当にそうなるとは限らない。8月に「アメリカ国債のデフォルト危機」がぎりぎりのところで回避されたのと同様、なんとか危機をしのいでいける可能性は残されている。日本もそうだが、欧米先進国はこうした危機の経験が豊富なのであり、バラバラに見えても、最後はなんとか意見をまとめて破局を回避することが多い。楽観は禁物だが、過度な悲観もイカガなものかと思う。
 
「もうすぐ資本主義が崩壊して、すばらしい世の中になります」というのは、100年前の社会主義者も言ってたことだ。実際に、1929年の世界恐慌で、世界経済は一度は潰れたが、彼らの予言が的中したと言う人は誰もいない。なぜかと言えば、「資本主義の崩壊」までは的中したが、その後に、「すばらしい世の中」が来なかったからだ(笑)。逆に、膨大な数の倒産と失業が発生し、無数の自殺者が出て、混乱の中からヒトラーが台頭し、未曾有の世界大戦になった。最後には、原爆が落ちて何万人も死んだ。まさしく、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
  
つまり、世界経済の崩壊は、「人類の共生」につながるどころか、逆に最悪のサバイバル競争を引き起こしてしまった。安易に経済崩壊を唱えている人たちは、それがどれほど恐ろしいことなのかを、歴史に学ぶべきと思われる。
  
最近出た「日月神示」の本には、「世界各地の経済がブロック化される。日本も、天産自給の世となるのじゃ」という神示の一説が取り上げられ、著者が「ブロック経済」を賞賛していた。これには、あきれてモノも言えなかった。それこそ、「いつか来た道」以外のなにものでもない。もう一度、世界大戦を起こしたいのだろうか?
 
もちろん、日本の神様が、日本を「天産自給の国」と呼ぶのはアリガタイことなのだが、それとこれとは別問題だ。日本がどれだけ「天産自給の国」になったとしても、貿易が止まることなど有り得ない。もっとも、どちらにしても、それは経済の問題であって、アセンションと直接の関係はないのだが・・・。
 
とはいえ、「もはや、経済成長などあり得ない世界になる。人々の関心は、経済的に豊かになることから離れて、別のことに向かう」というコルマン博士の予言が、なんだか本当になりそうに見えてきているのも事実だ。

そして、人類の意識が統合される。というより、巨大な「統合意識」が、この地球に出現する。人類の意識は、「いま、ここ」に集中するようになり、喜びが心の奥から湧き上がって、自然に満ち溢れてくるという。
  
「意識の進化」にこそ、コルマン・インデックスにおける最大のポイントがある。2011年10月28日までに、人類の意識が急速に進化する。それが、その後の世界の変容を引き起こす・・・ということだ。

注目すべきなのは、「人類の意識の進化」が実現するかどうか。問題は、そこにある。
 

瞑想の目的

2011年10月18日 | ヴィパッサナー瞑想
 
最近は、ますますヴィパッサナー瞑想だ(笑)。もちろん本当は、独習はよくない。ベテランの指導者のもとで基本を身につけるべきなので、そのうち時間を作って取り組みたいと思う。

ただ、筆者は瞑想の実践こそしていなかったが、釈迦やクリシュナムルティの思想に長いこと慣れ親しんできている。ヴィパッサナー瞑想は、まさしく彼らの思想の応用編、というか実践編であるにすぎない。このため、指導DVDを最初に見たときから、「初めて見るのに、なつかしい」という感じだった。
 
つまり、あのインドの宗教哲人や導師たちが口々に説く、「たった今、この瞬間のみに生きよ」、「思考を止めよ」、「おのれを無にせよ」、「観察せよ」・・・と言った数々の教え。これらは一見、雲をつかむような、抽象的な観念に思える。でも、そうではない。それは、こういった意識の状態を実現するための、具体的な方法論があるからだ。ヴィパッサナー瞑想こそが、まさしくそれに当たる。それは、テキストをひと目、見た瞬間に分かった。
 
精神を統一して、「思考を止める」というのが、最大の目的だ。思考とは、心の中をグルグルと渦巻いている、過去の記憶との応答。ああでもない、こうでもない・・・。それは、反射的に出てくるものだ。自分の意思でコントロールできるものではない。「思考」というより、「反応」と言ったほうがいいかもしれない。冷えたビールを見た瞬間、「飲みたいな」と反応する。ものすごいスピードだ。
 
またまた新興宗教の信者さんたちからお叱りを受けるかもしれないが(笑)、日本には、「反省せよというのが、お釈迦さまの教えです」とか、「感謝せよというのが、お釈迦さまの教えです」・・・とかなんとか、いろんなことを言ってる人たちがいるけど、それらはピントがずれている。もちろん、反省や感謝は、古き良き日本人の美徳であり、おおいに結構なことなのだが、ここはそういう場面ではない。

ここは、まず思考を止めるべき場面。過去の良いことや、悪いことを思い出して感動しているヒマはないのだ。むしろ、ここでは、それは余計な思考だと言える。

でも、思考を止めることだけが目的ではない。重要なのは、「観察」だ。思考を止めた上で、とことん「観察」を研ぎ澄ませていく。観察力がどこまでも強化される。

意識の覚醒は、この延長上にある。つまり、思考が止まって、観察が研ぎ澄まされることこそ、覚醒に直結する道だ。意識の覚醒が目標ならば、「この道を、まっすぐに進んでいこう」といったところだろう。究極の観察力に到達すれば、お釈迦さまのように、何でも見抜ける人にまでなれるのだ。それが、「観自在力」だと言える。

いかにして思考を止めるかと言えば、たとえば、歩いている最中に、歩くことに意識を集中する。単に漠然と集中するだけでなく、差し出す右足・左足、ツマ先が着地したり、カカトが離れたり・・・といったことに、いちいち集中する。「ツマ先が着地した、カカトが離れた・・・」と、アタマの中で実況中継する。なぜ実況中継するかと言えば、そうしなければ、すぐに雑念に心が飛んでしまうからだ。こればっかりは、誰が何度やってみても、しばらく時間がたてば確実にそうなる。それを防ぐには、これしかない。まさしく、瞑想の本場・古代インドが生んだ人類の知恵と言える。

釈迦が瞑想するときは、「鼻孔」に意識を集中していた。鼻から、空気が出たり入ったりする。そこに、意識を集中する。おなかが膨らんだり、凹んだり・・・に意識を集中するのも良いのだが、それよりも狭く深い分、意識が集中しやすい。というより、おなかという自分の身体の一部より、鼻から出たり入ったりしている空気のほうが、まったく無味乾燥で、なんの意味もない分、「なんだか、おなかが痛くなってきたな?」というような雑念とも無縁でいられる。

これには、思考を止めて意識を集中するだけでなく、同時に「観察」を鍛えられるという、一石二鳥の効果がある。上のような「歩く瞑想」をやっていると、不思議なことに、足に意識を集中しているにもかかわらず、周囲の景色が鮮明になってくる。思考が止まっている分、いつもは見落としているものが、イヤでも目に入ってくる。これに比べれば、ふだんの自分が見ていた景色は、ピンボケ動画のようなものだった。
 
いまや、心が静まり返ってきている。なんだか、以前はこだわっていたことが、どうでも良くなってく一方だ。何を聞いても、「ああ、そうですか」という感じ。変われば変わるものだ・・・。