宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

意識進化の日

2011年10月27日 | こっくり亭日記

いよいよ、明日がコルマン・インデックスでいう、「マヤカレンダー最後の日」こと2011年10月28日だ。とはいっても、世間の一般人の目には、何事もなく日常のひとコマとして過ぎてしまいそうだ。
 
でも、明らかに激変は進行している。各国の金融・財政危機は、先送りしてきた問題のツケが一気に噴出してきており、どこかで大きな調整が避けられそうもない流れにある。数年前の金融危機の頂点となった「2008年秋のリーマン・ショック」も、2007年春に欧州の金融機関がサブプライムローンで経営危機に陥ったことが発端となったのだ。この夏から秋にかけて欧州の金融・財政危機が再び表面化したことは、後から振り返れば、第2の危機の出発点と位置づけられる可能性が高い。
  
もはや、人々は経済成長をあきらめ、別のことに目を向けるしかない・・・というのが、コルマン博士の見立てだ。それは、世界中が日本のようになることを意味する(笑)。日本では、20年も続いたデフレのおかげで、この先の経済成長を期待する声がほとんど出てこない。もちろん、景気は常に循環している。悪くなったものは、いずれ必ず良くなる。でも、かつてのような経済の急拡大は、もはや期待できそうにない。せいぜい、右肩下がりのデフレ・スパイラルを食い止めるくらいが関の山・・・と見る人がほとんどだろう。
 
世界中の人が、こんな諦観に達すれば、経済成長の時代は終焉すると思われる。そう、諦観だ。それは物質的な繁栄に対する、アキラメから始まる。もちろん、それが良いか悪いかは、見る角度によって異なるのだが。

先日は、ある経済評論家が、「最近の日本の若者は、車は欲しくない、家も欲しくない・・・という人ばかり。外国の若者とは違って、車を買って彼女とデートに行こうとか、そういう燃えるものがない。こんな国の経済が発展するはずがない」と嘆いていた。確かに、そのとおり。もちろん個人差はあるとはいえ、全体として、これほどの諦観に達した日本人の意識。これじゃ、日本経済が発展するはずもないのは当然だ。でも、後になって振り返ってみれば、「やはり、新しい価値観への転換は、日本から始まったんだな」と位置づけられる可能性は、決して低くない。
 
ちょっと前までは、経済評論家氏の言うとおり、「こんな国の経済が発展するはずもない」と海外投資家に見切られた日本からは、投資が逃げていた。でも、今は流れが逆転している。バブル経済の繁栄を謳歌してきた欧米や中国の経済があまりにもヤバイ状況なので、相対的に日本の安定ぶりが際立ち、投資が集まって円高が進行している。巨大な財政赤字を思えば、日本経済もそのうち破綻する恐れが十分にあるのだが、こればっかりは相対的な問題だ。他の国との比較により、「一時的な避難所」と呼ばれ、投資家に重宝されている(笑)。このため、日本の金利が異常に低くてゼロに近いことなど、誰も気にしていない。変われば変わるものだ。
 
経済ばかりではない。気候も、相変わらず変だ。まだ10月だというのに、冬みたいに寒くなってきた。つい最近まで冷房をガンガンかけていたというのに、もう暖房が必要だ。日本では、春夏秋冬の四季がなくなり、夏と冬の二季しかなくなってしまった・・・と数年前から言われてきたが、それがますます定着した感がある。
 
タイの大洪水は、まだおさまりそうもない。チャオプラヤ川があふれて浸水した首都バンコクの風景が連日、報道されている。工業の集積が著しい地域だけに、世界経済への影響が甚大だ。いろんな業種で、生産計画の下方修正が起きている。これは、またまた環境破壊による「人災」と言われている。

コルマン・インデックスは、いわゆる終末論ではない。「人類の意識進化が完成し、統合意識が出現する」というのが、その主旨だ。進化した人類の意識が、地球環境の変容を引き起こすのである。「意識の進化」が焦点なのだから、気づかない人のほうが多いのは当然とも言える。でも、これだけの激変が起きているだけに、世間の一般人も、「何か変だな?」と思っている人は少なくないだろう。

本当に「意識の進化」が実現したかどうかは、これからハッキリしてくる問題だ。その意味では、マヤカレンダーはまだ終わっていないのである(笑)。
 

八正道

2011年10月27日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想においては、まず思考を停止することが第一条件となる。頭の中の思考や、心の中の反応を止めれば、何もない空っぽな意識状態を実現することができる。
 
ここで、ひとつの懸念が生じるかもしれない。それは、「意識を空っぽにする」ということによる弊害だ。空っぽになることで、外部からの作用を受けるのではないかという懸念。平たく言えば、「意識を空っぽにしたら、そのスキに悪霊が入り込むんじゃないの?」ということ(笑)。
 
でも、その心配は要らない。この瞑想では、思考を止めるのは前提条件にすぎず、真の目的がその先にあるからだ。それは、「観察する」ということ。全身全霊をあげて観察に集中しているから、外部からの作用が入り込むスキはない。さすがに、その辺りはよく考えられている。

というのも、ヴィパッサナー瞑想は、単なる瞑想法ではない。それは、釈迦の教えそのもの。仏典に何度も繰り返して書いてある、お釈迦さまの教えを、瞑想という形で実践するのがヴィパッサナーだ。「観察する」ということは、理論的にも教えの中核をなしている。

仏教理論と言えば、「八正道」(はっしょうどう)だろう。釈迦の教えの根幹をなす中核理論の一つだ。「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」の八正道。

このうち、最初の「正見」(しょうけん)というのが、すべての基本となる。これは、単に「正しく物事を見よ」というような、抽象的な訓示ではない。「お釈迦さまの教えをしっかり学んで、仏教的なモノの見方を身につけましょう」というのが、その主旨。
 
では、ここでいう「仏教的なモノの見方」とは、どういうことを意味するのだろうか。それこそ、本ブログでも山ほど書いてきた(笑)、お釈迦さまの教えそのものだ。「生まれるのは苦しい、老いて苦しい、病気は苦しい、死ぬのは苦しい・・・」という、ちょっと暗めな(?)人生観を身につける。

生きるのは苦しい。たとえ、一時的には楽しくても、人はいつか老いて死ぬ。最終的には必ず苦しい。

この人生だけではない。輪廻転生の全体を通して、人はつらくて苦しい。

輪廻転生。それは、ハテしなく続く苦の迷走。酔っ払った人がヨタヨタと千鳥足で歩くように、グルグルとチェーン展開している、迷える者の連鎖反応だ。目を覚ませば、それは終了する。

ここで、「ちょっと待ってよ。ボクは、明るく楽しく前向きに生きているよ?」という人が登場することがよくある。「そんな暗くて小難しいことばかり言ってないで、楽しもうよ」という、明るい声だ。確かに、一理ある。でも、ここはそういう場面ではない(笑)。ここは、じっとガマンのしどころなのだ。「ボクは、おいしいものを食べて、美女とたわむれたいな?」という仏弟子には、わざわざ夜のお墓に連れていって、美女の腐乱死体を見せる。ゾッとして、背筋も凍る場面だ。でも、それが輪廻転生から卒業するための第一歩。そうやって、まずは、「この世は、本当はあんまり楽しくないところなんだな・・・」ということを教えることから始めなければならない。
 
そんな苦労を重ねつつ、「輪廻転生。それは、ハテしなく続く苦しみなのだ。目を覚せば、それは終了するのだ」というのを実感する。そして、「これがあるから、それがある。それがなければ、これがない。要するに、苦しみには原因がある。原因を元から断てば、苦しみもなくなる・・・」といったような、仏教的なモノの見方をきっちりと身につける。「正見」というのは、そういうことを意味している。

それはともかく、ここでの主役は、七番目の「正念」(しょうねん)だ。ヴィパッサナー瞑想との絡みで、これが言いたいから「八正道」の話をしているのである。

以前、この「正念」でいう「念」というのを、「念力」と解釈し、「正しく念力をかけましょう」という意味に取っている人を見かけたのだが、そうではない。これだと、釈迦の瞑想は、超能力開発の修行ということになってしまう。まさしく、オウム真理教の世界だ。

そうではなくて、どちらかと言えば、これは「ちゃんと準備ができたかどうか、念入りにチェックしましょう」というようなときの「念」に近い。つまり、入念に、観察するのである。「観察」こそが、ここでのテーマ。
 
何を念入りに観察するのかといえば、最大の観察対象は、自分自身の感覚だ。

感覚は、身体の中でいつも生じている。「イテテ・・・」とか、「気持ちイイ!!」といった、強い感覚もあれば、意識していなければ気づかない程度の、微細な感覚もある。「その微細な感覚をチェックして、気づきましょう」というのが、この瞑想の主眼と言ってよい。

こういう、気がつかないほどの小さな感覚を、ひたすらに観察する。そのことによって、意識が途方もなく鋭敏になり、研ぎ澄まされてくる。

気づきから、観察へ。観察から、洞察へ。

洞察を深めることにより、究極の真理が見えてくるというのだ・・・(!)。