宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

コルマン・インデックス終了

2011年10月30日 | 精神世界を語る

2011年10月28日(日本時間では29日)、コルマン・インデックスでいう「マヤ暦・最後の日」が終了した。

筆者の感想を言えば、「コルマン博士の予測が、予想以上に的中してきたな」というのが、率直なところだ。

世界各国の金融や財政は、コルマン博士が予言していたとおり、2011年の夏から秋にかけて、急速に悪化した。もっとも、コルマン博士は、「一気に貨幣経済が終焉して、新しい経済システムに移行する」としていたわけだが、さすがにそこまでは行っていない。

ただ、個人的には、「すぐに貨幣経済が終わる」という考えに、あまりにも無理がありすぎたのであって、経済危機の予測に関しては、コルマン博士の予測が驚くほど的中したと感じている。正直、ここまで世界経済がヤバい状況になるとは思っていなかった。

もともと、「2011年秋までに貨幣経済が終焉する」という考えは、あまりにも急進的すぎた。高島康司氏のブログには「タイムラインがずれてきたようだ」と書いてあったが、タイムラインもなにも、そんなの最初から無理だ(笑)。

これについては、筆者は去年から、「さすがに、それは無理がある」と率直に書いてきたし、今でも、あと10年や20年じゃ実現不能と考えている。そんな短期間じゃ、貨幣経済システムが終了するどころか、米ドルが基軸通貨でなくなることも実現は難しいだろう。
 
でも、客観的に見れば、筆者が事前に予想していた以上に、世の中はコルマン博士が予測したとおりに動いてきていると思う。この先、世の中が急速に変容していく方向性が見えてきた。日本と同じように、世界でも、人々が経済的な成長や繁栄をあきらめ、長期継続型の社会へと移行する方向だ。欧州危機と同じで、予想を上回る早さで経済社会に変化が起きる可能性は十分にある。

経済問題も大事だが、もっと重要なのは、「人類の意識進化が完成し、統合意識が出現する」の方だろう。経済のような、目に見えやすい問題とは違って、これは分かる人にしか分からない。そんな「統合意識」が本当に出現したかどうかは、世間の誰もが気にしていることではないからだ(笑)。

ただ、これについても、「本当にそうなってきたんじゃないか」と個人的には感じている。

「人類の意識進化が完成する」と言ったって、60億を超える地球人類全員が一気に目覚めて、まるで違う生物に進化したように見えてきた・・・という具合になるのかと言ったら、さすがにそれは無理がある。もともと、人類全員の意識を一斉に高めるのが無理であることは、何十年も前から言われてきている。

「意識の進化」というのは、当初はごく一部の人々によって、後にはカナリ多くの人々によって実現されると言われているのだが、残念ながら、人類全員が意識進化のビッグウェーブに乗ることはありえない。どうしても、乗り遅れる人の方が多くなるのは避けられない。それは、精神世界関係者の間では、ずっと前から出来上がっているコンセンサスだ。
 
もしも、現時点で意識を覚醒した、一定以上の人数の人々が世界にいて、この地球世界に小規模ながらも「統合意識」が出現したのなら、コルマン博士の予言は的中したと十分に言ってよい。

個人的には、いまや、この地球に「統合意識」が出現した。今は小さくても、大勢の人々が加わることによって、これから大きくなってくる・・・というのが、どうやら実現したんじゃないかという気がしている。根拠はないけど、「統合意識」が出現したことは、なんとなく感じられる。

いずれにしても、経済問題と同じく、それは今後の数年で明らかになってくることだろう。もちろん、筆者の個人的な感想にすぎないのだが・・・。
 

無我の実感

2011年10月30日 | ヴィパッサナー瞑想
 
仏教的なモノの見方を身につける(正見)・・・と言っても、それになじめない人は、もちろんいる。

秋月龍ミン師がどこかで書いていたのだが、あるとき、山田無文老師が、仏教的な「無我」の教えを説いていた。アナタがたが霊魂だと思い込んでいるものは、実は霊魂などではない。錯覚の産物なのだ。我はない。ただ、全体あるのみ・・・という、無我の教え。仏教の根本教義だ。現代のスピリチュリズム風に言うならば、「究極のワンネス思想」ということになるだろう。
 
これを聞いた無学で素朴なお婆さんが、「人は死んだら、何も残らないんでしょうか。生まれ変わって、もう一度、人生を送ることはないんでしょうか」と老師に質問した。老師は、「生まれ変わることはない」と即座に断言した。仏教的には、まったく正しい回答だ。だが、それを聞いたお婆さんは、実に寂しそうな様子をしていたという。それを見た老師は、「もっとも、自分のために生まれ変わることはないのだが、世の人々を救うために、この世に再び生まれてくることはあり得る」と付け加えた。それを聞いて、お婆さんはやっと安心したという。

これについては、古代インドのお釈迦さまの説法も、実はそうだった。釈尊は、2通りの教えを相手に合わせて使い分けていたのだ。これを「対機説法」という。

つまり、本気で「意識の覚醒=解脱」を目指している、プロの求道者に対しては、「悟った人は、どこにも再生しない」という教えを説く。
 
でも、各地の村や町を巡回して、在家の素朴なお爺さん・お婆さんたちに教えを説くときは、そういう話をしなかった。その代わりに、「善いことをした人は、善いところに生まれ変わります。悪いことをした人は、悪いところに生まれ変わります」というような教えを説いていた。

これらは、初期仏典を見れば随所に出てくるので、仏典愛読者には毎度オナジミのエピソードだ。  
 
要するに、天国や地獄に生まれ変わったり、この世にまた生まれ変わったりする・・・というのは、アマチュア向けの親しみやすい教え。プロやマニアに対しては、「どこにも生まれ変わらない」という教えを説く。これが、釈尊の対機説法。
 
無我の教えを聞いて、「暗い」とか「寂しい」と思うような人には、この教えは向いていない。本人のためにならないから、別の話をすべきなのである。もっと、彼らにとってナジミやすい話をしてあげたほうが良い。「方便」というのは、そういうものだ。
 
でも、無我の思想は、本当にそんなに暗くて寂しいのだろうか。もちろん、別にそんなことはないのである。
 
むしろ、本物の求道者にとっては、すがすがしくて気分爽快になる教えと言ってよい(笑)。これを体得すれば、この世にいても悩みがなくなる。人間にとって、最終的な、究極のプレッシャーからも解放されるからだ。
 
無我は、理屈ではない。体感するものだ。

無我を実感するには、やっぱり、ヴィパッサナー瞑想。これによって、思考の停止と、気づきの増大を実感する。

これによって、心の平静が得られるばかりでなく、意識が途方もなく鋭敏になるという一挙両得だ。
 
これこそが、お釈迦さまによって示された、覚醒への道。ありがたや。合掌・・・。