ますます、ヴィパッサナー瞑想がマイブームだ。知人は「ヴィパッサナー瞑想」と聞いて、「オウム真理教みたいだな」という感想を述べていた。やはり、オウム真理教が残した爪あとは深い。この分野のイメージを、あまりにも悪くしてしまった(笑)。
でも、それとこれとは関係ない。これこそ、釈迦が菩提樹下で実践し、弟子たちにも指導していた瞑想法。昔も今も、意識の覚醒への鍵は、なんといってもこれだ。
もちろん、ほかにも瞑想の技法はいくらでもある。なかでも注目のマトなのは、モンロー研究所のヘミシンクだろう。筆者は、自分ではヘミシンクをやっていないが、坂本政道氏やブルース・モーエン氏を初めとする関係者が、ヘミシンク・ワークによって得た体験談を聞くのは大好きだ。ほかにもいろいろある。時間は限られているから、全部は実行できない。とりあえず、目についたモノから始めるのが一番だ。
ヴィパッサナ-瞑想は、思考を止めて、観察に徹する瞑想だ。まさしく、これは古代インドからの伝統。釈迦やクリシュナムルティの教えに長いこと慣れ親しんできた者にとっては、非常になじみ深い。インドの偉大な導師たちは、「思考を止めよ」、「観察に徹しろ」と口々に語ってきた。ヴィパッサナーは、それを瞑想で実践するものだ。だから、筆者にとっては、「初めて見るのに懐かしい」という感じ。これが釈迦の本来の瞑想法なのは、疑う余地がない。
日常生活において、「思考停止」という言葉は、あまり良い意味で使われない。でも、精神世界の探求者にとっては、「思考を止める」というのが、とりあえずの目標だ。
どの本を見ても、ヴィパッサナー瞑想は「歩く瞑想」「立つ瞑想」、「座る瞑想」の3つだと書いてある。どれも、目指すところは共通している。
たとえば、座る瞑想では、呼吸に意識を集中する。出たり入ったりする息に、意識を集中するのだ。一見、「呼吸法」に見えるのだが、そうではない。重要なのは、呼吸そのものではなく、呼吸に意識を集中することによって、思考を止めることにある。
このため、座る瞑想においては、息を吸っておなかが膨らんだり、息を吐いておなかが凹んだりすることに意識を集中する。「おなかが膨らんでいる、膨らんでいる」、「おなかが凹んでいる、凹んでいる」と心の中で唱える。単に観察するだけでなく、いちいち言葉を貼り付けるのだ。こういうのを、「ラベリング」と言うらしい。
これというのも、雑念を入れないためだ。単に意識をおなかに集中するだけでは、ほかの事に気持ちがそれてしまう。人間の意識は、変わりやすい。物質世界のあらゆるものよりも、変わるのが速い。光速よりも速いのである。だから、「おなかが膨らんでいる、膨らんでいる」という言葉によって、ほかの対象をシャットアウトし続けなければならない。古代インドの修行者たちが生み出した、瞑想の知恵だ。
もっとも、釈迦によれば、おなかに意識を集中するのは、まだ甘いらしい。釈迦が座る瞑想をするときには、鼻孔に意識を集中していたという。鼻孔から息が出たり入ったりすることに、意識を集中する。出たり入ったりする息は、単なる空気だ。良いも悪いもない、文字通り、空気のように当たり前の存在。だから、雑念を排除するのには最も都合が良い。
筆者は、まずはカルチャーセンターの瞑想講師だという、地橋氏の指導DVDを見てヴィパッサナーを学んだ。
それによると、まずは「歩く瞑想」が初心者には親しみやすいという。