宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

霊魂は、自分なのか

2009年11月27日 | 精神世界を語る
      
「あの世はあります。人は生まれ変わります」といった、教祖のご託宣を聞いて、「私は究極の真理に目覚め、目からウロコが落ちました」と大喜びの信者を、しばしば見かけます。
 
「身体は、ほんとうの自分ではなかった」という気づき。では、身体が自分でないのなら、何が自分なのか。

それは、「心」であり、「精神」であり、ひいては「霊魂」・・・ということになるでしょう。生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する自我。それこそが、「ほんとうの自分だ」というのだ。
 
もちろん、それ自体は良いのですが、そこにとどまっていたのでは、精神世界の探求者として奥義に参入するのは難しい。
 
「身体は、ほんとうの自分ではない」というのは、精神世界ファンなら、誰もが思うこと。それは「究極の真理」などという、ゴールではありません。むしろ、「これから精神世界談義を始めましょう」という、スタートラインと言ったほうがよい。

精神世界関係者の常識は、世間にとっては非常識なのが普通です(笑)。この分野のマニアなら、「身体が自分である」と思ったことなど、「生まれてこのかた、一度もないよ~」というくらいが、むしろ普通なんじゃないでしょうか。筆者も、そう思ったことがありません。
 
身体は、ほんとうの自分ではない。では、人間から身体をとったら、何が残るのか。残るのは、霊魂だ。
 
そこまでは、いい。でも、そこからもう一歩踏み込んでこそ、真の探求者というもの。「それでは、霊魂は、ほんとうの自分なのでしょうか」というのが、次のテーマになります。というより、ここからが真のテーマと位置づけられる。
 
ここで、「いや、霊魂も、ほんとうの自分ではないのだ」という考え方が登場してきます。この考え方の代表格といえば、なんといっても、人類史上最高の聖者・ゴータマブッダ釈尊でしょう。
 
お釈迦さまが「無我」(アナートマン)を唱えたのは、よく知られています。生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個人の実体を、「アートマン」と呼ぶ。そのアートマンを否定するから、アン・アートマン。無我とは、霊魂の否定を意味します。
 
仏典を見れば、「OOは自分ではない」、「XXは自分ではない」・・・のオンパレード。その「自分ではない」というものの中には、思考・感情・意志・・・その他もろもろの精神作用がすべて含まれる。それらをひとつひとつ否定していくと、最後には何も残りません。通常、「精神」もしくは「霊魂」と呼ばれているものが、すべて消えてなくなってしまいます。
 
実際のところ、「霊魂は、存在しない」というよりも、「霊魂は、自分ではない」という方が、釈尊の教えの真意に近い。こういうのを、「無我」に対して、「非我」と言います。
  
これはちょうど、タマゴに例えられるでしょう。
 
身体というのは、タマゴでいえば「カラ」に相当します。世間の一般人が、自分だと思っているのは、これ。でも、精神世界ファンにとっては、そんなの関係ない。
 
カラをむいたら、「白身」が出てくる。ここからが、ほんとうのスタート。白身はほんとうの自分なのだろうか。そうでないとしたら、その奥にある、「黄身」こそが自分なのか。いや、黄身でさえも、だいぶ怪しくなってきたな・・・。
 
探求してみたところ、白身は、自分ではなかった。さらに探求を進めてみれば、黄身でさえも、自分ではないということが分かった。
 
つまり、残るのはカラッポ。結局のところ、「霊魂は存在しない」(無我)と言ってみても、「霊魂は自分ではない」(非我)と言ってみても、結果は変わらないのであった・・・。
  
やっぱり、我は無い。そういう結論にならざるを得ない。残るのは、大いなるすべて・・・!!
 
覚醒への呼び水 → にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿