宇宙のこっくり亭

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只管打坐 ~ ダンテス・ダイジ

2013年04月28日 | ダンテス・ダイジ
   
ダンテス・ダイジ著「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の第3章「クンダリニー・ヨーガ」は、長さからいっても、内容からいっても、本書の半分以上の比重を占めていると言っていいだろう。だから、とりあえず後回し(笑)。第4章の「只管打坐」に行きたい。この章は、あえて締めくくりの最終章に選ばれただけあって、実にすばらしい。
 
只管打坐(しかんたざ)というのは、文字どおり「ただひたすら、坐ること」を意味している。これは、曹洞宗の道元禅に出てくる言葉。
 
日本の禅寺には、大きく分けて、曹洞宗(そうとうしゅう)と臨済宗(りんざいしゅう)という、2つの流れがある。このうち臨済宗は、室町時代の足利幕府と結びついて上流階級に浸透した、ちょっとハイソな宗教で、京都に残るデカい禅寺はたいていコチラ。それに対して曹洞宗は、わざわざ都からちょっと離れた福井の永平寺に本山を構えた、わりと庶民派の宗教。ダンテス・ダイジは両方とも学んでいて、第2章に出てくる「公案禅」は臨済宗で、第4章の「只管打坐」は曹洞宗。まあ、どっちでもいいか・・・。

「ただひたすら、坐ること」というだけあって、何も考える必要はない。というより、何も考えないほうが良い。

>座禅によるニルヴァーナは、肉体と意識が虚空に消滅していくことから始まり、時間・空間・物質・減少を、無限定者である私自身が戯れている自覚を経過し、そして、ついに有限ー無限、相対ー絶対が本来存在していない無相なる私自身に目覚めることである。

この「禅的なニルヴァーナ」を知るためのオススメ本は、曹洞宗の開祖・道元の「正法眼蔵」(しょうほうげんぞう)とか、クリシュナムルティの著作とか・・・だそうな。

ダンテス・ダイジは、そのニルヴァーナが、「宇宙と一体になることではない」と強調している。この、古代インドの昔から有名な「宇宙即我」については、「座禅を始めた初期の頃に起きる現象」と切り捨てられている。
 
>只管打坐とは、即座に、自己が肉体でも、意識でも、魂でもなく、時間にも、空間にも、物質にも、現象にも束縛されず、まして、宇宙と一体になることでもない。

>もちろん、初期の頃は、宇宙と一体という経験が起こるであろうが、只管打坐とは、それのみにとどまらず、全く何の限定も受けない、空であるところの、絶対無であるところの、究極の答えであるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道であり、かつて道元は、それを「心身脱落」(しんしんだつらく)と言ったのである。

ちょっと言い方がややこしいけど、要するに、座禅をする目標というか到達点は、「宇宙即我」なんかではない。「心身脱落」なのだ・・・というのが、ここでのダイジの主張。

もともと、只管打坐というのは、なんらかの結果を求めてやるものではない。何の結果も期待しないで、ただ坐るだけ。(ただしダイジによれば、期待しないとはいうものの、結果として観自在力・六神通が発現することはよくあるのだが、そこにとらわれてはいけない)。

>只管打坐・・・。瞑想修行としての最初にして最後のもの。

>ただ坐るだけ、訓練なし。

>こうなってゆくこのまま。そうなってゆくそのまま。

>悟りあり迷いあり、悟りなし迷いなし。

>なんにもすることなく、ありとあらゆることをせにゃならん。

「単に坐るだけでいい」と言っても、座禅である以上、イスにすわってボーッとしているわけじゃないのは、言うまでもない。というより、むしろ逆だ。全身全霊で、坐ることに打ち込むのである。リラックスする瞑想とは、まさに正反対。

坐り方も決まっている。禅寺にある「坐布」か、それに似たような座布団を用意して、そこに尻を乗せる。この坐布は、固すぎてもいけないし、柔らかすぎてもいけない。尻を座布団に乗せることで、ちょっと高くする。足を組んだ両ヒザだけが、床につくことになる。当然、ヒザには体重がドッとのしかかり、大きな負荷がかかる。

足の組み方は、できれば深く結跏趺坐(けっかふざ)するのが望ましい。でも、これはなかなか難しいので、できる範囲でかまわない。

>両足をどの程度ももの上に載せるかは、一定の基準はない。要点は、腰に全力の力がかかり、その勢いで脊髄をまっすぐにすることである。

でもって、重要なのは、なんといっても姿勢。ヨーガのところで、「背骨をまっすぐにするのが重要」という話がでてきたけど、これは座禅でも本当に重要なこと。足を組んで両ヒザが床についた体勢で、腰をグッと前に押し出す。そうすると、背筋が自然にピーンと張ることになる。

>下半身の形が決まったら、腰を全力で前方に押し出し、その腰を押し出す力で、脊髄をまっすぐ垂直に立て、頭頂部で天をつく気迫で坐るのである。

手の形も決まっている。両手を、手のひらを上にして重ねて、親指の先をくっつけるポーズ。これは、座禅を一度でもやった人なら、おなじみのポーズだろう。呼吸は、常に鼻でおこない、しかも静かに呼吸する。目は常に開いていなければならず、視線は前方1メートル前後の床の上に落とす。この「前方1メートル」というのも、また重要で、壁との間には最低でもそれだけの距離がなければいけない。
 
これは、軍隊で「起立!」と言われてビーンと直立不動になったような体勢を、坐った状態でやるようなものだ。相当にキツい。上にも書いたけど、「リラックスする瞑想」というようなのとは、まさに正反対。むしろ、最高にテンションが高い瞑想だ。

>以上の形が決まったら、後はこの姿勢を最後まで維持し続けるだけである。ただし、少しでも姿勢が崩れたり、ゆるんだと感じたら、即座に正さなければならない。先にも述べたように、最初から最後まで、全身全霊の気合を入れて、正しい姿勢を維持し続けるのであり、人体構造上、もともとS字型をしている脊髄をできる限りまっすぐにしようとするのであるから、当然、全身は緊張のかたまりになるのである。

>できるだけ長く、繰り返し長時間続けることが望ましい。一座の時間に特定の長さというものはない。全力で出来るだけ長く坐り続けるのみである。

>坐るときは、いかなる期待感も持たず、ただ全身全霊で打ち坐り、姿勢を正していくことが大切である。

要するに、とにかく死に物狂いで坐り続けるのだ。必死で、坐ることに打ち込む。ただ坐っているだけなのに、武芸の真剣勝負みたいな裂帛の気合で打ち込む。「死んで生きるが禅の道」とも言うけど、「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という葉隠の精神に通じるものがある。昔の武士に広まったのも、うなずけるというものだ。

不思議なことに、これを長時間にわたって続けると、逆に全身の力が抜けて「究極のリラックス」みたいな状態になるときが来るのである。よく、マラソンのランナーが、息も絶え絶え、苦しんで走り続けていると、いつしか、急にトテツもなく気持ちよくなる瞬間が来るという現象(ランナーズ・ハイ)が知られているけど、それと似ている。

率直に言って、これは、心の底から絶望しきっているような人にこそ、向いた瞑想法ではないかと思う。少なくとも、「幸せいっぱい、夢いっぱい」というような人が、これに全身全霊で打ち込めるとは思えない。もちろん、中にはそれができる人もいるかもしれないけど、相当に無理がある。それこそ、ダンテス・ダイジじゃないけど、「自殺する代わりに、ボクは座禅を組むのだ」というくらいの勢いでいった方が、モーレツに座禅に集中できるに違いない。

>もう、座禅しかない。座禅しかない。座禅しかない・・・・・。
 
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