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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争③ 女学生 特攻機部品作り

2015-07-24 17:14:14 | 平和・憲法・歴史問題について
第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争③ 女学生 特攻機部品作り

「君たちは、今日から三井玉野造船へ学徒動員で行くことになった」。1944年夏のある朝、岡山県玉野市の玉野高等女学校(現玉野高校)の校長が朝礼で梶尾玲子さん=当時(14)=らに命令しました。「女学生も戦地の兵隊さんに負けないよう頑張ること」
それまでも、登校しても授業はほとんどありません。近隣農場の田植えや草取り、軍服のボタンつけ、砲弾の材料をつくるため、金属を精錬所へ運搬することが日課でした。
「男だったら、特攻隊にいけるのに」と親友と話し合う「立派な軍国少女」だったという梶尾さん。けれども造船所の旋盤工場に配属され、閉口します。
指導員の職工の指導で女学生8人が従事。直径1センチ長さ5センチの金属の筒を作りますが、まともな物は1人1本ほどしかできません。何に使うのかと指導員に聞くと、「特攻機の部品だ」といいます。



梶尾玲子さん


勤労動員されていたころの梶尾さん(中央)=岡山県玉野市

兵士思い痛む心
「こんな粗悪な製品を使って敵艦に体当たりし、若い命を散らす特攻隊員のことを思うと、すごく悲しくなりました」と梶尾さん。
旋盤の仕事で困ったのは、胸から膝まで油まみれになることです。着替えもなければ、タオルもせっけんさえありません。工場の出入り口に、のこぎりくずを入れた大きな箱が置いてあり、そのなかで手をもんで油を吸わせる毎日でした。
「これが全然落ちません。真っ黒の手と顔で帰路の汽車に乗り、随分恥ずかしい思いをしました。当時は“ほしがりません勝つまでは”と戦意高揚標語の生活でしたが、せめて着替えがほしかった」

終戦が自由開く
終戦の翌8月16日、造船所内の竹垣をめぐらした宿舎の扉が大きく開かれ、働かされていた朝鮮の人たちが大声で叫びながら出てきました。玉野には1500人の朝鮮人がいた(『玉野市史』)との記録があります。
戦争に協力してきたとして、校長と教頭が追放されました。40すぎで召集された国語教師が学校に戻ってきました。戦時中、一言も口にしなかった英語教師がすらすらと英語をしゃべりだしました。
勤労動員からようやく解き放たれた現在85歳の梶尾さん。いま大好きな帽子をかぶり、語ります。
「女学生本来の勉強ができず、アジアの人々と私たち国民を苦しめた侵略戦争を『正しい戦争』だと、軍国主義に染めていった教育の恐ろしさを悔しくかみしめています」

【学徒勤労動員】
アジア太平洋戦争末期、労働力不足を補うために、中学校以上の生徒や学生が軍需工場や食料生産に動員されました。東条英機内閣が1943年6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。学徒動員による死亡者は1万966人、傷病者は9789人にのぼりました。(文部科学省『学制百年史』)

(名越正治)(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年7月22日付掲載


勤労動員と言っても、梶尾さんの場合は空襲などにあわなかったので、まだよかった方でしょう。
英語の先生が、戦後、「すらすらを英語をしゃべりだした」って感動的じゃないですか。

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