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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争④ 民間人を標的に空襲

2015-07-25 21:27:15 | 平和・憲法・歴史問題について
第2次世界大戦終結70年 庶民にとっての戦争④ 民間人を標的に空襲

第2次世界大戦の末期、日本全国400を超える市町村が米軍の無差別爆撃による空襲の標的になりました。
資料の収集・展示、証言の公開を行っている東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区・早乙女勝元館長)が、地域史をもとに集計した調べで明らかになっている民間人の犠牲者は20万3068人(2014年11月現在)です。
米軍は当初、軍事施設を標的にしていましたが、1944年末ごろから民間人を巻き込む国際法違反の無差別爆撃を本格化させていきました。



福岡大空襲を経験した首藤さん

死の予感よぎる
45年6月19日。米軍のB29爆撃機221機が福岡市上空に飛来しました。午後11時10分ごろから約2時間続いた爆撃で市内は焦土と化しました。『福岡市史』によると死傷者は2000人を超え、1万2693戸が被災したといわれます。
神奈川県鎌倉市在住の画家、首藤教之(しゅとう・のりゆき)さん(82)は、12歳のときに福岡大空襲を経験しました。
19日夜、警戒警報が空襲警報に変わりました。3番目の姉が防空壕(ごう)の外を見て「燃えてる!」と叫び、首藤さんも外へ出ました。市の中心部の空が真っ赤になり、花火のように光るオレンジ色の火の玉がいくつもゆらゆらと落ちていくのが見えました。「いよいよ来るものが来た…」と、死の予感が胸をよぎりました。
筑紫高等女学校の裏山へ家族と避難し、集まってきた人たちと明け方までじっとうずくまっていました。
首藤さんの自宅は焼け残りましたが、日本軍の高射砲弾によって屋根が突き破られていました。夜が明けた街を友人と歩き、息をのんだといいます。
「一面、茶色の焼け野原。博多湾の方まで見渡せるほどだった」
戦災資料センター戦争災害研究室の山辺昌彦主任研究員は「民間人を標的にした空襲は、戦闘意欲をなくすための戦略的爆撃です」と指摘します。「しかし、当時の政府は『国体護持(天皇制を維持すること)』のため、国民が大勢死んでも戦争をやめなかったのです」
空襲による被害が拡大した原因に、1937年に制定された防空法があります。市民に退去禁止と消火義務を負わせました。当時の「防空新聞」には、「案外、消しやすい」「少しも危険はない」などの見出しが躍ります。



首藤さんが福岡大空襲のあった年(1945年)の秋に描いた絵「思ひ出 六月十九日」


東京大空襲(1945年3月10日)で使われたM69焼夷(しょうい)弾。中に38発の子爆弾が組み込まれています=東京大空襲・戦災資料センター、東京都江東区

補償は何もない
今年100歳になる杉山千佐子さん=名古屋市=は「防空法でがんじがらめにされた。私は顔の半分、片腕、足を失いました」と証言します。
親を失った孤児や、障害を負った人など空襲被害の苦痛に対する補償は、いまもなお何もないため、「空襲被害者等援護法(仮称)」の制定を求める運動が起こっています。
首藤さんはいいます。「当時の軍歌で“東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう”という歌がありました。今の安倍政権がいう『積極的平和主義』と似ていると思うんです。本質をごまかす言葉の使い方は同じでしょう。戦争経験者として絶対に納得できません」

【焼夷(しょうい)弾】
火災を起こさせることを目的にしたもので、中身は爆薬ではなく油脂ガソリン。1個の親爆弾に込められた数十個の子爆弾が上空で散らばります。中のゼリー状の油脂ガソリンに着火すると一面が火の海になりました。米軍は、米・ユタ州の砂漠に日本の木造家屋を建て燃焼実験を行っていました。

(仁田桃)(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年7月23日付掲載


戦前の「防空法」は本当にひどいものです。「空襲で火災になったら逃げるな」って言うんですから。「何のための空襲警報なの?」と思ってしまいます。
「案外、消しやすい」「少しも危険はない」という嘘っぱちで…。


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