オウム事件 操作の甘さ“なぜ” 防げなかった責任 警察や行政に
オウム真理教の施設があった山梨県の旧・上九一色(かみくいしき)村で住民とともに危険性を告発した竹内精一・元日本共産党村議と宗教ジャーナリストの柿田睦夫さんに、事件の背景と教訓について聞きました。
住民と危険性を告発した元上九一色村共産党村議 竹内精一さん(90)
松本智津夫死刑囚の死刑執行で、事件の主要な真実が明らかにされず終わりになってしまったのが残念です。オウム真理教が、殺人から地下鉄サリンまで起こしたその経緯、多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったかは明らかになっていません。行政や警察の対応も、あまりにも悪かった。オウムが悪かっただけではすまされません。どうして阻止できなかったかを反省しなければいけません。
1989年にオウム真理教が上九一色村に進出して以降、廃液の垂れ流しや掘削による騒音、私たちに対する監視や脅迫などいろいろな問題がありました。日本共産党は住民といっしょに、告発し危険性を訴えてきました。
松本サリン事件(94年6月27日)のときにも、私たちは最初から「あれはオウムだ」と訴えてきましたが、警察は被害者の河野義行さんを犯人扱いし、誤認捜査しました。私たちの告発を聞いていれば、地下鉄サリン事件は防ぐことができたはずです。防げなかった責任は、行政や警察にもあります。
松本死刑囚以外の人の死刑を執行していいのだろうかという思いもあります。戦争中の日本の軍隊と同じで、「やれ」と命令されてやったという面があったのでは。
オウムが上九一色村に進出していた当時、信者に対し「あんたたちはここにいるべきではない。帰らないといけないよ」と話してきました。
私は、戦争にいった最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ、あなたたちもオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました。
この事件を教訓に、社会の在り方、国民の命やくらしを守る行政や警察の在り方を考えていかなければいけないと思っています。
幕引きにならない
宗教ジャーナリスト 柿田睦夫さん
死刑執行で幕引きにはならないということです。オウム真理教家族の会(旧被害者の会)や日本脱カルト協会が、松本智津夫死刑囚を除く12人の死刑執行を猶予するよう求めていました。命乞いではなく、彼らにはもっと真実を語らせなくてはいけないからです。
なぜ、彼らが、自分の頭で考えることを放棄し、教祖のいうがままに動く人間に変わっていったのか―。いまも絶えないマインドコントロール被害を防ぐための教訓にしないといけないと思います。
オウム事件には多くの謎が残っています。1989年の坂本弁護士一家殺害事件では、当初からオウムの関わりが指摘されていました。もし警察がもう一歩踏み込んでいれば、その後の事件はなかったはずです。松本サリン事件では捜査がオウムに向かわず、誤認捜査をしました。警察が地下鉄サリン事件まで、なぜオウムの捜査に及び腰だったのか、まったく解明されていません。
被害者の家族たちがオウムを宗教法人として認証しないよう求めたのに、東京都は89年に認証しました。山梨県もオウム施設の違法建築について通報があったのに、有効な動きはしませんでした。
「宗教団体だから」「信教の自由がある」は言い訳にはなりません。オウムの犯罪は、宗教法人であるかは関係ないのです。にもかかわらず警察も行政も、地下鉄サリン事件が起きるまで動かなかった。これらの謎が解明されるまで幕引きにはなりません。
【オウム真理教】
1984年に松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚が設立したヨガサークル「オウム神仙の会」が前身。
87年に「オウム真理教」に改称し、89年に東京都が宗教法人として認証。地下鉄サリン)など一連の事件で松本死刑囚らが起訴された後の95年10月、東京地裁は宗教法人法に基づく解散命令を出し、96年3月には破産を宣告。その後、教団は後継組織「AlePh(アレフ)」と分派した「ひかりの輪」など3団体に分裂しました。
オウム事件の経過
オウム真理教の元代表松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の確定判決で認定されるなどした地下鉄、松本両サリン事件と坂本弁護士一家殺害事件の経過は次の通り。
◇坂本弁護士一家殺害事件
坂本堤弁護士=当時(33)=は1989年5月ごろから出家信者の親の依頼を受けて教団と交渉し、被害者の会設立を支援するなど教団に批判的な活動をしていました。松本死刑囚は、教団の勢力拡大に打撃を受けると考え、同11月、故村井秀夫幹部らに坂本弁護士殺害を指示。
村井幹部ら6人は同月4日未明、横浜市磯子区のアパート一室に侵入し、坂本弁護士と妻都子さん=同(29)=、長男脂彦ちゃん=同(1)=をいずれも首を絞めるなどして殺害。
◇松本サリン事件
教団は長野県松本市に教団支部を建設しようとしましたが、反対派住民が起こした訴訟により、規模縮小を余儀なくされました。住民や長野地裁松本支部の裁判官に反感を抱いた松本死刑囚は、生成したリリンの殺傷力を確かめようと考え、村井幹部らに裁判所への噴霧を指示。村井幹部ら7人は94年6月27日夜、裁判所宿舎近くでサリン噴霧車を作動させました。住民8人が犠牲となり、約140人が負傷しました。
当初、第1通報者の河野義行さんが疑われ、県警が殺人容疑で河野さん宅を家宅捜索。県警は95年6月になって「河野さんは事件と無関係」とする見解を発表。
◇地下鉄サリン事件
95年2月に教団が起こした目黒公証役場事務長仮谷清志さん=同(68)=拉致事件で、警視庁による教団への強制捜査が現実味を帯びてきたことから、松本死刑囚らは強制捜査を避けるために地下鉄にサリンをまくことを計画。95年3月20日朝、元幹部5人が営団地下鉄(当時)霞ケ関駅を通る3路線の五つの電車内で、サリン入りの袋に穴を開けて散布しました。乗客と駅員13人が犠牲となり、5800人以上が負傷しました。
オウム真理教第6サティアン松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の逮捕に向かう警察官=1995年5月10日、山梨県の旧上九一色村
松本死刑囚の13事件
「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年7月7日付掲載
首都で行われた、凄惨な地下鉄サリン事件の以前に、阪本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件が起こっていた。
上九一色村では、オウム真理教が進出して危ない施設を作っていた。
見逃してきた警察や行政。今後の教訓にすべきことがたくさん。
オウム真理教の施設があった山梨県の旧・上九一色(かみくいしき)村で住民とともに危険性を告発した竹内精一・元日本共産党村議と宗教ジャーナリストの柿田睦夫さんに、事件の背景と教訓について聞きました。
住民と危険性を告発した元上九一色村共産党村議 竹内精一さん(90)
松本智津夫死刑囚の死刑執行で、事件の主要な真実が明らかにされず終わりになってしまったのが残念です。オウム真理教が、殺人から地下鉄サリンまで起こしたその経緯、多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったかは明らかになっていません。行政や警察の対応も、あまりにも悪かった。オウムが悪かっただけではすまされません。どうして阻止できなかったかを反省しなければいけません。
1989年にオウム真理教が上九一色村に進出して以降、廃液の垂れ流しや掘削による騒音、私たちに対する監視や脅迫などいろいろな問題がありました。日本共産党は住民といっしょに、告発し危険性を訴えてきました。
松本サリン事件(94年6月27日)のときにも、私たちは最初から「あれはオウムだ」と訴えてきましたが、警察は被害者の河野義行さんを犯人扱いし、誤認捜査しました。私たちの告発を聞いていれば、地下鉄サリン事件は防ぐことができたはずです。防げなかった責任は、行政や警察にもあります。
松本死刑囚以外の人の死刑を執行していいのだろうかという思いもあります。戦争中の日本の軍隊と同じで、「やれ」と命令されてやったという面があったのでは。
オウムが上九一色村に進出していた当時、信者に対し「あんたたちはここにいるべきではない。帰らないといけないよ」と話してきました。
私は、戦争にいった最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ、あなたたちもオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました。
この事件を教訓に、社会の在り方、国民の命やくらしを守る行政や警察の在り方を考えていかなければいけないと思っています。
幕引きにならない
宗教ジャーナリスト 柿田睦夫さん
死刑執行で幕引きにはならないということです。オウム真理教家族の会(旧被害者の会)や日本脱カルト協会が、松本智津夫死刑囚を除く12人の死刑執行を猶予するよう求めていました。命乞いではなく、彼らにはもっと真実を語らせなくてはいけないからです。
なぜ、彼らが、自分の頭で考えることを放棄し、教祖のいうがままに動く人間に変わっていったのか―。いまも絶えないマインドコントロール被害を防ぐための教訓にしないといけないと思います。
オウム事件には多くの謎が残っています。1989年の坂本弁護士一家殺害事件では、当初からオウムの関わりが指摘されていました。もし警察がもう一歩踏み込んでいれば、その後の事件はなかったはずです。松本サリン事件では捜査がオウムに向かわず、誤認捜査をしました。警察が地下鉄サリン事件まで、なぜオウムの捜査に及び腰だったのか、まったく解明されていません。
被害者の家族たちがオウムを宗教法人として認証しないよう求めたのに、東京都は89年に認証しました。山梨県もオウム施設の違法建築について通報があったのに、有効な動きはしませんでした。
「宗教団体だから」「信教の自由がある」は言い訳にはなりません。オウムの犯罪は、宗教法人であるかは関係ないのです。にもかかわらず警察も行政も、地下鉄サリン事件が起きるまで動かなかった。これらの謎が解明されるまで幕引きにはなりません。
【オウム真理教】
1984年に松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚が設立したヨガサークル「オウム神仙の会」が前身。
87年に「オウム真理教」に改称し、89年に東京都が宗教法人として認証。地下鉄サリン)など一連の事件で松本死刑囚らが起訴された後の95年10月、東京地裁は宗教法人法に基づく解散命令を出し、96年3月には破産を宣告。その後、教団は後継組織「AlePh(アレフ)」と分派した「ひかりの輪」など3団体に分裂しました。
オウム事件の経過
オウム真理教の元代表松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の確定判決で認定されるなどした地下鉄、松本両サリン事件と坂本弁護士一家殺害事件の経過は次の通り。
◇坂本弁護士一家殺害事件
坂本堤弁護士=当時(33)=は1989年5月ごろから出家信者の親の依頼を受けて教団と交渉し、被害者の会設立を支援するなど教団に批判的な活動をしていました。松本死刑囚は、教団の勢力拡大に打撃を受けると考え、同11月、故村井秀夫幹部らに坂本弁護士殺害を指示。
村井幹部ら6人は同月4日未明、横浜市磯子区のアパート一室に侵入し、坂本弁護士と妻都子さん=同(29)=、長男脂彦ちゃん=同(1)=をいずれも首を絞めるなどして殺害。
◇松本サリン事件
教団は長野県松本市に教団支部を建設しようとしましたが、反対派住民が起こした訴訟により、規模縮小を余儀なくされました。住民や長野地裁松本支部の裁判官に反感を抱いた松本死刑囚は、生成したリリンの殺傷力を確かめようと考え、村井幹部らに裁判所への噴霧を指示。村井幹部ら7人は94年6月27日夜、裁判所宿舎近くでサリン噴霧車を作動させました。住民8人が犠牲となり、約140人が負傷しました。
当初、第1通報者の河野義行さんが疑われ、県警が殺人容疑で河野さん宅を家宅捜索。県警は95年6月になって「河野さんは事件と無関係」とする見解を発表。
◇地下鉄サリン事件
95年2月に教団が起こした目黒公証役場事務長仮谷清志さん=同(68)=拉致事件で、警視庁による教団への強制捜査が現実味を帯びてきたことから、松本死刑囚らは強制捜査を避けるために地下鉄にサリンをまくことを計画。95年3月20日朝、元幹部5人が営団地下鉄(当時)霞ケ関駅を通る3路線の五つの電車内で、サリン入りの袋に穴を開けて散布しました。乗客と駅員13人が犠牲となり、5800人以上が負傷しました。
オウム真理教第6サティアン松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の逮捕に向かう警察官=1995年5月10日、山梨県の旧上九一色村
松本死刑囚の13事件
1989年2月 | 信者の田口修二さん殺害 |
1989年11月 | 坂本堤弁護士一家3人殺害 |
1993年11月~1994年12月 | サリン工場建造 |
1994年1月 | 元信者の落田耕太郎さん殺害 |
1994年5月 | サリンで滝本太郎弁護士殺害を図る |
1994年6月~1995年3月 | 自動小銃密造 |
1994年6月 | 長野県松本市内でサリン噴霧。住民8人が犠牲に |
1994年7月 | 信者の冨田俊男さん殺害 |
1994年12月 | 猛毒VXで脱会信者を支援した水野昇さん殺害を図る | VXでスパイと決め付けた浜口忠仁さんを殺害 |
1995年1月 | VXでオウム真理教家族の会会長永岡弘行さん殺害を図る |
1995年2月~3月 | 目黒公証役場事務長の仮谷清志さんを拉致・監禁、死なす |
1995年3月 | 東京都内の地下鉄でサリンを散布。13人が犠牲に |
「しんぶん赤旗」日刊紙 2018年7月7日付掲載
首都で行われた、凄惨な地下鉄サリン事件の以前に、阪本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件が起こっていた。
上九一色村では、オウム真理教が進出して危ない施設を作っていた。
見逃してきた警察や行政。今後の教訓にすべきことがたくさん。