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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

シリーズ 原発の深層  第二部・米戦略のもとで① アルゴンヌの原子力屋

2011-10-01 21:29:47 | 原子力発電・放射能汚染・自然エネルギー
シリーズ 原発の深層  第二部・米戦略のもとで① アルゴンヌの原子力屋

 「あなた方は、原子力の平和利用を進めるための、自由世界の代表である」
1955年3月10日午前、米ワシントン・ホワイトハウス。アイゼンハワー大統領は短い演説を終え、19力国から集まった31人の若手研究者・技術者一人ひとりと握手を交わしました

高ぶる気持ち
 この中に、当時30歳の伊原義徳氏(のちに科学技術事務次官)、31歳の大山彰氏(のちに東京大学教授、原子力委員長代理=故人)がいました。「自分は米国の世界戦略のまっただ中にいる」。報道カメラのまばゆいフラッシュを浴びながら、伊原氏は高ぶる気持ちを抑えられませんでした。
 米国は53年12月の国連総会で打ち出した「平和のための原子力」=アトムズ・フォー・ピース政策により、実験用原子炉で用いる濃縮ウラン100キロと、米国の原子力技術を同盟国・友好国に提供する方針を示しました。その具体化として、原爆開発の技術を引き継いだアルゴンヌ国立研究所(イリノイ州)に、「原子力科学・技術学校」を開設。伊原、大山両氏も日本政府の国費留学生として派遣されたのです。
 原子炉設計費2億3500万円、関連経費とあわせて3億円。54年3月、当時改進党に属していた中曽根康弘衆院議員(のちに首相)らの動議により、日本初の原子力予算が可決されます。その翌朝、勤務先である通産省(現・経産省)工業技術院に出勤した伊原氏は上司に呼び出され、予算の執行を命ぜられました。
 研究助成費として国内の企業や日本学術振興会に補助金を配って回り、「研究用原子炉設計研究会」をつくり、事務局長にも就任しました。




大国の骨格に
 その伊原氏らが留学生として米国へ。アルゴンヌで、実験用原子炉の設計・建設・運転に加え、動力炉(原子力発電)の基本構造も学びました。
 当時、英国とソ連が動力炉の実用化に成功していましたが、米国は立ち遅れていました。それでも開発中の動力炉の構造を教え、米国の主要な軍需企業ゼネラル・エレクトリック(GE)が開発していた沸騰水型軽水炉(BWR)も見学させるなど、米国製原発の“優位性”を刷り込んでいきました。
 アルゴンヌでの留学生受け入れは10年近く続き、日本からは約50人が参加。原子力行政推進のために56年に設立された科学技術庁や日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)の職員に加え、東大教員や三菱など原子炉メーカーの社員も含まれていました。
 「自分たちは出身の垣根を超えた、日本の原子力屋だという自負を持っていた」。伊原氏は言います。
 伊原氏は科技庁で原発立地を推進。大山氏は61年、東大工学部に日本初の原子力工学科が設立されたのを機に、38歳で教授に昇進しました。
 米国で育成された「原子力屋」たちは、世界第3位の原発大国・日本の骨格をつくっていったのです。



 日本の原発は、アイゼンハワー政権が推進した世界支配の戦略の中から生まれました。その狙いと、日本側の思惑を探ります。(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2011年9月29日付掲載


アメリカは、設計から建設、運転まで一括で契約する「キー・ターン」方式で原発を売り込むことでかけなく、技術者の養成もしていたんですね。
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