仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

師走の週末:日常化する京都

2006-12-17 12:17:45 | 生きる犬韜
ブログを更新する精神的余裕がなく、幾つか書きかけの記事が未公開の状態となっています。岡部隆志さんなど、ものすごくお忙しそうなのに毎日ブログを更新し、しかも書かれている内容に非常に味がある。やはり歌人は違いますね。

金曜は卒業論文のしめきり。4年生は、これといったトラブルもなく、なんとか全員提出できたようです。よかったですね。
5限の特講を終えて帰宅してから、翌日の仏教文化講座(自坊開催)の準備。いつもは兄が講義をしているのですが、今月はピンチヒッターを仰せつかり、「〈救済〉としての神仏習合―折口信夫「死者の書」にみる念仏―」というタイトルでお話ししました。「死者の書」については以前このブログでも触れましたが、自らの名の伝承を神婚という形で求める(すなわち祭祀の継続が忘却への抵抗となる。人間の根源的欲求としての〈歴史〉)滋賀津彦に対し、南家郎女は『観無量寿経』に基づく観想行を通じ彼を阿弥陀仏に変えてゆく。すなわち滋賀津彦は、時空を超えて称えられてゆく「南無阿弥陀仏」という新たな名を手にするわけで、念仏を現代の記憶論と関係づけて論じうる可能性が折口にはあるのです。日本文学や神道史の側だけでなく、仏教学・仏教史学の面からも、折口信夫を再検討する必要性を痛感する次第です。

講義を終えたその足で新横浜へ向かい、新幹線に飛び乗って京都へ。関東にいるため欠席しがちな仏教史学会の委員会、今日は新委員の紹介や委員長の交代、忘年会などもあるためどうしても顔を出さねばなりません。車内では、稲城正己さんから送られてきた『GYRATIVA(方法論懇話会年報)』4号の「問題提起」を下読み。構築主義・歴史の物語り論・記憶論を繋ぎ、人文学における問題点を指摘する優れた概説で、4号の完成に期待が膨らみます。余った時間は、iBookで遅れている『古代文学』の原稿執筆(ようやく「おわりに」にたどり着きました。近日中に提出できるでしょう。しかし雑誌にはありえない遅れ、自分が編集者だったらかなり怒っているでしょうねえ)。
自宅から3時間で京都着(やっぱり速い)、龍谷大学大宮学舎で委員会に出席。『仏教史学研究』の編集情況(ここで頼まれている書評も遅れてるんだよなあ。1月末までに4本は書かなければ…)や来年度の大会についてなど、種々の案件を話し合ってから京都駅前の中華料理「福幸」での忘年会へ。隣に座った龍谷大学のS氏(中世後期よりの本願寺学僧の末裔。名家)から、真宗学の演習に出席している学生が、なんと空也や唯円を知らないという驚くべき話を聞かされました。大丈夫か、真宗の未来は!?

楽しく会食を終えて、終電少し前の新幹線で関東へとんぼ返り。車内では、『古代文学』の原稿に一区切り付けてから、北方謙三『血涙―新・楊家将―』下巻の読書。『三国志』『水滸伝』『楊家将』と来て、少し薄味になっている印象ですね。今回は天皇制の是非を問うものではなく、ハードボイルドに徹した内容だからでしょうか(「代州を拠点に楊家が独立、遼と組んで宋を滅ぼす」という四郎の構想に、〈らしさ〉が表れてはいますが…)。
それにしても、近年、京都へは日帰りでゆくことが多くなりました。出張申請書を提出したとき、学科長のY先生に「せっかくゆくんだから泊まってくればいいのに。不思議な人だ」といわれましたが、自分ではまったく違和感がないんですよね。〈異国情緒〉を味わわない分(そういえば本願寺にもお参りしてこなかった)、かえって日常化が進んでしまっているのかも知れません。ま、同日に諸星大二郎参加のシンポがあったり、京博で「高僧の書」展が開かれているのを聞けば、帰るのが惜しい気はするわけですが。
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