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国宝にも指定され、誰でもが知っているあの金印を贋物だと言い切る三浦さんの勇気、それを支える学知の力には凄まじいものがあります。決定的証拠はというと「自然科学的解明」を待つしかないわけですが、情況証拠だけでも限りなく黒に近いグレーでしょう。発見地といわれる志賀島の考古学的調査結果(海岸付近の海底まで試掘したが弥生時代以前の遺跡はほとんどない。金印が埋納されていたような墓、その他の特別な遺構に至っては皆無)、幾つかの文書に記される発見時の情況と鑑定のプロセス(町人から侍講にまで上り詰めた儒学者亀井南冥を祭酒とする藩校・甘棠館の開校と、競合する藩校・修猷館を持つ譜代の儒学者らの存在。金印を〈発見者の百姓〉から預かった商人、管轄の郡役所の奉行、南冥との交友関係)、そして金印自体の形状や銘文の内容・彫り方。細かく検証してゆくと、これまで金印を「後漢の光武帝が下賜した本物」と判断していた学説の多くが、脆くも崩れ去ってしまうのです。そして、中世日本紀の伝統を体現するような稀代の〈贋作製作者〉藤貞幹の影…。まさに役者が揃っている、という印象です。
ただし、第8章で三浦さんが復原しているとおりに本当に事が運んだか…というと、まだ何かが隠されていそうにみえますし、逆にもっと単純な筋書きなのかも知れない、不明確な点が多いというのが正直な感想です。考察の核を支えている二つの学説、田中弘之氏の論考、鈴木勉氏の一連の研究にも突っ込んだ分析が欲しかった気がします。
それにしても、「どうして学者というのはこうも単純で、騙されやすいのだろうか」(p.143)という三浦さんの一言は、自分のことをいわれているようで堪えます。