仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

前期終了1ヶ月前:今週もなんとか乗り切った

2007-06-29 21:56:15 | 生きる犬韜
乗り切ったというべきか、乗り切れなかったというべきか。
結局、27日(水)の大妻の講義は休講にしてしまった。実はこれまで、自分が受け持った授業を、体調のせいで休講にしたことは一度もなかった。最初に引き受けた日本女子大の講義など、前日に39度の高熱を出していながら準備をし、朦朧としつつも、ちゃんと最後まで話し終えた経験がある。しかし…声が出ないのでは、教壇に立っても如何ともしがたい。急遽ビデオを見せるなどの手はあるが、ちょっと詐欺っぽい。ここは正々堂々と休講にして、体力回復に努めようと決心した次第。
行きつけの個人病院へいって薬を貰うと、なんとか喉の痛みは緩和された。やはり医学の力はすばらしい。

しかし、その次にやって来たのが激しい咳き込みである。ふだんは何でもないのだが、ふとした拍子に突然襲ってくる。28日(木)の豊田地区センターの講義は、この咳き込みにやられた。飲み物を側に置いてなんとか凌いだが、途中、何度か中断して参加者の皆さんに心配をかけてしまった。ごめんなさい。
翌29日(金)、咳が止まらないものかと希望を抱いていたが、書類を作成していてほとんど睡眠もできなかったため、状態は変わらず。研究室で回覧書類の処理をしていると、4年生のEさんが卒論の相談にきたが、彼女の前でも思いっきり咳き込み、心配されてしまった。Eさんのテーマは、平安期の音楽のありようを、物語、儀式書、古記録等から復原してゆくこと。個性的な、いい問題意識である。今年の4年生は、古代の庭、肉食、東北の仏教と、テーマ選択がユニークでしっかりした意志が感じられる。もう進路の方は決定しているようなので、どのように仕上げられてゆくか、先が楽しみである。
咳を気にしてトーンを抑え、スピードもゆっくり目にしていたためか、特講の方は思うように進まなかった。『書紀』『古事記』の夢見記事で非常に面白いことに気づいたのだが、そこにあまり時間をかけすぎると、『更級日記』までたどり着けない。どこかでまた調整が必要かも知れない。

さて、先週、猪股さんから薦めを受けた「守人シリーズ」の番外編「賭事師」。短編だが、かなり気に入った。ネタバレになるので物語の要約は避けるが、作り込まれた〈ゲーム〉のルールと歴史、それを商売にする賭事師の生活、約束ごと、心意気に、彼らの生業を許している社会の仕組み。相変わらず、背景の描写に大変手が込んでいる。そして、それを舞台に展開される人間ドラマは、互いが互いを思いやる心の温かさとすれ違い。またそのすれ違いに、若年の男女と老年の男女との間では深みの差がにじみ出る、〈取り返しのつかない切なさ〉が現れる。しかし、登場人物のひとりひとりがどのような思いを抱いているか、どのような葛藤が存在するのか、それについてはほとんど言葉を尽くさず、ちょっとした間や仕草でサラッとみせる。もとは児童文学だが、非常に上品な筆致である(書きすぎるために場が恥ずかしくなり、読んでいられなくなるある歴史小説家T氏の作品とはまるで違う。あえて比較対象にしなくてもいいのだが)。それゆえに、様々な解釈も可能にしており、ゆったり読むことのできる佳品となっている。ぼくもお薦め、としておきたい。

ところで、4月からのクールで唯一観続けてきたドラマ、『私たちの教科書』が終わった。坂元裕二という脚本家は、今までまるで信用していなかったが(とくに最近の『西遊記』は目も当てられなかった)、今回は真剣に取り組んでいたようだ。こんな辛い話をどう結ぶのかと他人事ながら心配していたが、一応、救いのあるラストにはなっていた。しかしその分、死んだ少女の無念さは、かえって際立ってしまったのではないだろうか。登場人物みんなが、その少女の死が自殺ではなかったこと、彼女が力強く生きようとしていたことに救いを見出したようだが、それならばなお一層のこと、事故死なるもののやりきれなさが胸に迫る。まったく孤立した、否応のない〈死〉というものが立ち上がる。それを口にしえたキャラクターがいなかったのは、ちょっと消化不良であった。あえてそうすることで、「裁判を戦ってきた大人たちも、結局みんな自分が救われたかっただけなんだよ」と視聴者を突き放しているのだとすれば、それはそれで周到な演出といえそうだが。
深夜に放送していた、アニメの『のだめ』も終了。結局ドラマと同じところまでしか描かなかった。ヨーロッパ編こそ、アニメの本領発揮となったはずだが…第2シーズンはあるのだろうか。あるなら、もう少し演奏場面に高い志をみせてほしい(後半は少しはよくなってきたが、当初の止め画の多用は、アニメであることをすでに放棄していた)。後番組は、昨年大きな衝撃を与えた怪『化猫』(左の写真はそのDVD。一見の価値あり!)のシリーズ化作品『モノノ怪』。絢爛な画作りにスピード感とオリジナリティ溢れる描写、神話や祭儀を意識した展開はそのままか。大いに期待したい。
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3 Comments

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賭け事 (イノ)
2007-07-03 19:19:27
「化猫」、おもしろそうですね。
ユリイカの上橋作品、私なぞとはまた違った視点できっちり読まれていて、感想をうかがえてうれしいです。架空の賭博ゲーム、というのはそれだけでワクワクしますが、考えてみればゲームって、緻密な架空作品のようなところがあって、バトルと通じる美学もあって。子どもはよく新しいゲームを考えだしますよね、そんな楽しさが大人の哲学をともなって小説として実現したという小気味よさがあります。緻密な論理と子どものように無心になる訓練。
賭博論、とかやってみたいですね(笑)。
身体のほうも、どうぞご自愛ください。格闘技も講義も執筆も身体のコンディションは重要ですから!「健康」がベストとは申しませんが(笑)
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賭け事と供犠 (ほうじょう)
2007-07-05 17:31:42
そうですね、賭博論とか、ゲーム論とかは面白そうです。
将棋にしろ囲碁にしろチェスにしろカードにしろ、当事者の価値観・世界観・駆け引き、そして知的能力や身体能力など、様々な要素が絡んできて圧倒されます。達人の勝負など、こちらはさっぱり分からない、しかし凄いことだけは分かるという…。
また賭け事の場合は、何を賭けるかによって、勝負の様相がまるで変わってしまうというのも惹かれるところ。一種の供犠ですよね。「賭事師」の場合は、賞品が前提されることによって勝負が社会システムに絡め取られ、公的なものたらざるをえなくなってしまうのが切ない。アナール学派の社会史は賭博を扱いましたが、やはり実践者の側から読み直さないと、供犠的な緊張・高揚、そして悲壮感はみえてこないでしょうね。
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賭け事 (イノ)
2007-07-08 01:40:36
お返事ありがとうございます。
>アナール学派の社会史は賭博を扱いましたが、やはり実践者の側から読み直さないと、供犠的な緊張・高揚、そして悲壮感はみえてこないでしょうね。
そう、アナール学派の「おかげ」みたいなところは、私のような下々のものにもあるのだと思います。「それ以降」という。
なんですが、やっぱり当事者の側というのは、なかなかないんだっと思います。
科学者は関与しない。呪術師は全身・全霊でもって関与する。まあ、しないほうがいい場合も多々あるんですけれど。
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