【長男「私の母では?」73年を経て身元が判明!】
広島の暑い夏にまたあの日が近づいてきた。米軍による原爆投下から74年目。8月6日、広島平和記念公園では今年も恒例の平和記念式典が開かれる。公園内にある広島平和記念資料館(原爆資料館)はこの春、大規模な改修工事を終えてリニューアルオープンした。前回の見学は思い出せないほど遠い昔。館内では原爆の悲惨さを伝える展示物を熱心に見つめる修学旅行生や海外からの旅行者の姿が目立った。
エレベーターで東館3階まで上ってから本館に向かう。本館は「被爆の実相」をテーマに「8月6日の惨状」「放射線による被害」「魂の叫び」「生きる」の4つのコーナーで構成する。入り口正面には「焼け跡に立つ少女」の巨大写真。毎日新聞のカメラマンが原爆投下の3日後に撮影した。右手を負傷した当時10歳の少女が正面を向き何かを訴えるような眼差しを投げかける。長い間、少女の身元は分からなかった。だが昨年8月、毎日新聞の「広島原爆アーカイブ」で偶然少女の写真を見た東京在住の男性が「母親ではないか」と名乗り出た。
専門家が少女の写真と男性提供の写真を鑑定した結果、目や鼻、眉毛、前歯などの位置や形に加え負傷部位も一致して、少女は「藤井幸子(ゆきこ)さん」と判明した。幸子さんは爆心地から約1200mの自宅で被爆し、火災の直前に倒壊した家から脱出。成人後、結婚して2人の子どもに恵まれた。30代になってがんを患い、手術で持ち直したものの、がんの転移で体調不良が続いた。そして1977年に亡くなったという。享年42。本館出口に小さな少女の写真と男性提供の20歳の頃の幸子さんの写真が一緒に掲示されていた。
東館の〝導入展示〟コーナーには被爆前後の町の変貌ぶりを対照的に示す巨大なパノラマ映像が壁面いっぱいに広がる。原爆投下のCG映像の周りには絶えず人垣ができていた。本館には遺族から寄せられた被爆者の遺品や惨状を示す写真などが所狭しと並ぶ。その中に当時3歳だった坊やが乗って遊んでいたという三輪車があった。被爆したのは爆心地から約1500mで、全身に大怪我と大火傷を負い、その晩「水、水…」とうめきながら亡くなったという。父親は頭に鉄兜をかぶせ三輪車とともに庭に埋めた。そして40年後、遺骨をお墓に移すため掘り起こすと、鉄兜の中に男児の丸い頭の骨がまだ残っていたそうだ。
黒焦げの弁当箱は〝建物疎開〟の作業現場で被爆した中学1年の男子生徒が持参していたもの。母親が見つけた息子の遺体の下にあった。弁当は米・麦・大豆の混ぜご飯とジャガイモの千切りの油炒めだったが、中身は真っ黒に炭化していた。焼け焦げボロボロになった衣服が多い中で、まだきれいな女学生の制服があった。胸の名札には「廣島第一縣女 中島正子 血液型A型」。学徒動員先の建物疎開作業現場の近くに、きちんと折り畳んで置かれていたという。「原爆の子の像」のモデルにもなった佐々木禎子さんの折鶴も展示中。禎子さんは「折鶴を千羽折ると願い事が叶う」という言い伝えを信じ、入院中の1955年にひと月足らずで折り上げたそうだ。
【追記】(2023年12月10日) 冒頭の焼け跡に佇む少女の写真は、他の広島の被爆写真や映像とともに、ユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)登録候補として日本政府によって推薦されることになりました。政府は被爆80年にあたる2025年の登録を目指します。