【現地説明会、1300年前の往時の姿が眼前に!】
奈良県明日香村の国の史跡・名勝「飛鳥京跡苑池」の北池から湧き水を流す石組みの流水施設が見つかり、10日、県立橿原考古学研究所による現地説明会が開かれた。苑池には南北2つの池があり、島などを配した南池が観賞用として造られ、北池は貯水機能などを持つ付属的な池とみられていた。流水施設の出土により北池は天皇の禊(みそぎ)など神聖な祭祀の場だった可能性が高まってきた。
同苑池は飛鳥川の右岸に位置し、飛鳥時代に断続的に4つの宮殿が置かれたとされる飛鳥宮跡の内郭のすぐ北西側にある。遺跡の範囲は南北約280m、東西約100m。北池の規模は南北で最大52m、東西で最大36m、広さは約1500㎡。流水施設は池の北東隅の張り出し部で見つかった。その施設は2つの石組み枡(ます)と石組みの溝、階段状の遺構、石敷きから成る。
湧水点に設けられた最初の枡は一辺0.8~1.0mのほぼ正方形で、深さは約0.5m。ここから長さ2.1m・幅0.8mの溝を通って、2つ目のやや大きな枡に流れ込む。規模は一辺1.2~1.5m、深さ0.2m。その後、長さ7.0m・幅0.2mの溝で西側に進んで南北方向の石組み溝に接続する。湧水部と流水部を合わせた総延長は約11.5m。2つ目の枡の敷石は中央付近が緩やかに凹んでいた。ここで禊が行われたのではないかとみられる。
石敷きは湧水部の西側に広がり、主に40cm大(最大70cm大)の石が敷き詰められていた。そばを流れる飛鳥川の川原石とみられる。石敷きの広さは約100㎡で、南北13m、東西8.5m。階段状遺構は湧水部の北側に位置し、最上段から石敷き面までの6段分が出土した。ただ当初は8段以上あったとみられ、下側の少なくとも2段分が石敷きの敷設に伴って壊されていた。
発掘担当者によると、遺構の状態から湧水部や階段状遺構は7世紀中頃の斉明天皇(在位655~661)の時代に築かれ、流水部や石敷き、南北方向の石組み溝などは7世紀後半の天武天皇(在位673~686)の時代に改修されたとみられる。南北方向の石組み溝の北側延長線上からは平安時代以降の木樋も見つかっている。今回の発掘調査によって湧水部付近から水が湧き出し、きれいな水が飛鳥時代の溝を伝って流れていた。1300年余の時を経て、遺構に再び息が吹き込まれた。