く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市埋文センター> 秋季特別展「奈良を掘る―奈良の遺跡のモノ語り」

2016年12月09日 | 考古・歴史

【約30のテーマに沿って発掘の成果を一堂に】

 奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺西)で秋季特別展「奈良を掘る―奈良の遺跡のモノ語り」が開かれている。同センターが発足したのは今から33年前の1983年。以来、平城京地域での発掘調査を中心に多くの成果を上げてきた。特別展は約1年半にわたって奈良新聞に連載した「奈良を掘る」の企画記事をもとに、約30のテーマを立てて出土品とパネルで紹介するもの。〝地下の正倉院〟とも形容される平城京跡の埋蔵文化財の奥深さを改めて感じさせてくれる。12月28日まで。

・「陶製井戸枠」(上の写真)=1999年、平城京左京三条五坊(大宮一丁目)から出土した。直径約1m、高さ1.1mの円筒形で、上下両端の厚さが約6cmもある。平城京で発掘される井戸の大半は木組みで、陶製は他に出土例がない珍しいもの。搬出には大変苦労したそうだ。市立大安寺西小学校の建設前の発掘調査(左京五条二坊)では井戸の中から祭祀具や独楽(こま)、桧扇などとともにくりぬきの釣瓶(つるべ、下の写真㊧)が出土した。

 

・「大安寺の風鐸」(上の写真㊨)=旧境内の西塔発掘調査で大小2種の風鐸が出土。小形品は長さ約30cmで漆金が残っていた。南都七大寺で初となる完形の出土品。大型品は破片で見つかったが長さ45~55cmに復元でき、復元可能な風鐸としては国内最大。小形品は塔の相輪部に、大型品は軒隅に吊られていたとみられる。塔本体の最下層の平面規模は約12m四方と判明した。現存する興福寺五重塔が8.85m、京都の東寺五重塔でも9.48mなので、大安寺の塔がいかに大きかったかが分かる。

 

・「イスラム陶器とココヤシの実」(上の写真㊧)=イスラム陶器は2009年に西大寺旧境内から出土した。青緑色の光沢のある輝きが美しい。遣唐使が唐の揚州や明州といった港湾都市で入手したか、新羅の中継貿易を通じて持ち込まれたとみられる。ココヤシの実は平城京内の井戸から見つかった。正倉院の宝物の中には香木、象牙、夜光貝など南方からの交易品も多い。イスラム陶器やココヤシも海上交易のネットワークを通じてもたらされたとみられ、平城京が〝海のシルクロード〟の終着点だったことを改めて示す。

・「胞衣壷(えなつぼ)」(上の写真㊨)=出産時に排出される胞衣(胎盤)を納めた容器。左京五条五坊十坪(西木辻町)で出土した須恵器で、中から銭貨5枚も見つかった。日本最古の医学書『医心方』(984年)には胞衣の埋納方法として▽新品の容器を使用▽銭貨5枚を底に納める▽男子には新品の筆一つを添えるとよい――などが記されているという。出土した壷はふたが割れて土砂が流入しており、「筆は胞衣とともに腐ってしまったのかもしれません」とのこと。胞衣壷の埋納は出産後の重要な儀礼の一つとして江戸時代には一般化していたそうだが、もともとは奈良時代に始まったようだ。その習俗もほとんど絶えてしまったが、わが子を思う親心は昔も今も変わらないということだろう。

 

・「壷形と笠形の錘(おもり)」(写真㊧)=壷形の錘は西九条町にある工場内の奈良時代の井戸から見つかった。銅製で高さ4.8cm、重さ329.1g。奈良時代の重量を示す単位には斤・両・分などがあり、1斤(671g前後)が16両だった。それに照らすと、この錘はほぼ半斤(8両)に相当する。上部の突起には吊り下げるための紐を通す孔も。市指定文化財。平城京跡からは2カ所で笠形の銅製の錘が1点ずつ出土している。こちらは174.3gと40gあまりで、それぞれ4両と1両の錘だった可能性が高い。

・「蛭藻金(ひるもきん)」(写真㊨)=北室町の「中近世奈良遺跡」から出土した。江戸時代の小判の原形ともいえる戦国時代の貨幣。金を打ちたたいて板状にした〝延金(のしきん)〟で、水生植物のヒルムシロ(蛭蓆)の葉の形に似ることからその名がある。量目は不定で、必要な量に切って使った。織田信長の安土城下や戦国大名朝倉氏の城下、越前一乗谷遺跡からも出土しているが、奈良県内ではこれが唯一の出土例。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする