く~にゃん雑記帳

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<BOOK> 「江戸時代人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀の描いた庶民の姿」

2016年12月06日 | BOOK

【小林淳一編著、朝日新聞出版発行】

 江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人医師・植物学者シーボルト(1796~1866)。在日中に多くの植物を採集し『日本植物誌』を著したが、その写生原画の多くを描いたのは川原慶賀(1786~没年不詳)らのお抱え絵師だった。川原は〝シーボルトの眼〟になって風俗画や風景画、肖像画なども描いた。本書は1826年にオランダ使節の江戸参府に同行した川原が描いた109点の人物画を、服飾史や民俗学の学者、シーボルト研究家たちの解説付きで1点ずつ詳しく紹介する。

       

 オランダ商館長らの江戸参府は11代将軍徳川家斉に拝謁するのが目的で、1826年2月15日に江戸に向けて長崎を出発した。総勢57人の日本人の随員も同行した。往路55日、江戸滞在37日、復路51日という全143日の旅程。この間に川原が描いた人物画109点は全て紙本着彩で1冊の画帳に閉じられていた。描かれたのは女房、花魁(おいらん)、花嫁、力士、農夫、猟師、獅子舞、人形遣い、大道芸、煙草売り、醤油売り、老若男女の旅姿など実に多彩。ただ武士は一人も登場しない。

 109人の中に大井川の「川越人足」の刺青(いれずみ)姿を描いたものが6点もある。刺青はシーボルト来日前後の文化・文政年間(1804~30)に最も隆盛を極めたという。シーボルトにとってもとりわけ興味深いものだったのだろう。描かれた刺青の絵柄は雲竜・雷神・桜など様々だが、中でも「幽霊と卒塔婆」の刺青は不気味でおどろおどろしい。右腕に墓石と卒塔婆、左腕に南無阿弥陀仏、尻に髑髏(どくろ)、背中に笑う幽霊が彫られている。熊の毛皮をまとって小熊を連れた行商の「熊の胆(くまのい)売り」や「鯨取り」「鳥刺し」「盲目の三味線弾き」などもシーボルトの目を引き付けたのだろう。

 女性の帯に蝙蝠(こうもり)の図柄が描かれたものが2点ある。「身づくろいをする遊女」と「長崎の髪結い」。蝙蝠は西洋では不吉な動物。ただ日本ではかつて蝙蝠の蝠の音が福に通じることから吉祥の意味を持つとして浴衣などの模様として好まれ、錦絵などにも描かれた。シーボルトはこの蝙蝠の模様を珍しく思って川原に描かせたのだろうか。シーボルト研究家の宮坂正英氏が「人物画帳」の中で出色の出来栄えと評するのが「長崎の芸者」。左手に三味線を持ち極上の着物を身に着けた芸者が優美に描かれている。江戸時代唯一貿易を許された長崎には高価な嗜好品や贅沢品が多く運び込まれ、特に織物は豊富で長崎の遊女や芸者の装いは流行の先端を行く豪華なものだったという。

  「川原慶賀は時として多分に想像を交えた絵をシーボルトのために描いた」(民俗学者の小林淳一氏)。画帳の中に着物を盗み出した黒覆面・黒装束姿の「泥棒」があるが、この絵についても「盗賊を見つけて写生したのではなく、(当時の人々に共有されていた)そのイメージを描いたと考えるべきである」(日本近世演劇研究者の武井協三氏)。裕福な商家の若い女性を描いた「娘」では晴れ着の裾から赤い蹴出しと素足がのぞき、美しい年増の女性を描いた「女房」では裾がはだけ不自然な形で赤い色が見える。「子守の娘」や「古着屋の女」には日傘が描かれているが、「この時代、贅沢をするのは禁止されていて、日傘もその例外ではなかったのだが」(民俗学者の近藤雅樹氏)。川原が描いた「109態」は190年前の庶民の姿を振り返るうえで貴重な資料だが、専門家の目にはちぐはぐな点が気にかかる〝研究者泣かせ〟の作品も多く含まれているようだ。

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