く~にゃん雑記帳

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<奈良市埋文センター> 秋季特別展「亀甲形陶棺―変化と地域性」

2023年10月11日 | 考古・歴史

【所蔵陶棺を一挙公開、多彩な副葬品なども】

 古墳時代の後期から飛鳥時代にかけて、カメの甲羅のような亀甲形などの陶棺が作られ古墳や横穴墓に納められた。これまでに全国で出土した陶棺は岡山県と近畿地方を中心に約800点。奈良県内では約60点が見つかっており、うち43点が奈良市北西部の丘陵地から出土した。奈良市埋蔵文化財調査センターは開催中の秋季特別展「亀甲形陶棺―変化と地域性」(10/2~12/1)でそれらの陶棺を一挙に公開、形や大きさの変遷などを分かりやすく展示している。

 陶棺は粘土で成形し焼成したもの。多くは箱形だが、円筒形のものもある。焼成方法により赤みを帯びる土師質陶棺と、硬質で青灰色の須恵質陶棺に分かれる。また蓋の形によって亀甲形と家形の陶棺の2種類。奈良市内で出土した陶棺は土師質の亀甲形が大半を占める。その中には全長が2mを超える大きなものも。通路や展示室にずらりと陶棺が並ぶ光景はまさに壮観そのものだ。

 陶棺が多く出土する代表的な遺跡に「赤田横穴墓群」やその北側の「秋篠阿弥陀谷横穴墓群」など。展示中の赤田21号墓(6世紀後半)出土の亀甲形陶棺は全長208㎝、最大幅73㎝、高さ106㎝で、8行3列合計24本の円筒形の脚が付く。それより前の陶棺出現期の中山横穴墓(6世紀中頃)のものは全長約220㎝で脚は10行3列と、より大型に復元されるという。

 時代が下ると、陶棺は次第に小型化し脚の数も減っていく。赤田1号墓(7世紀前半)の出土品は全長が150㎝ほどで脚は6行2列。その後、赤田横穴墓群からは長さが100~120㎝で、脚の数も4行2列のものも現れる。小型化に伴って棺蓋と棺身を飾っていた突帯の模様もなくなり作りが簡素になっていく。

 さらに7世紀中頃以降、亀甲形陶棺は姿を消し、代わって円筒形や砲弾形が作られるように。これらの陶棺は小型化した亀甲形同様、大人の遺体を納めるには小さすぎることから、一度埋葬した遺体を白骨化させて納めた再葬容器の可能性が高いと推測されている。(写真㊤赤田18号墓出土の円筒形陶棺、㊦宝来横穴墓群出土の砲弾形陶棺)

 陶棺からは被葬者が身に着けていた装身具や鉄製品などが見つかっている。中でも副葬品が多く出土したのが2基の陶棺が並んで置かれていた赤田5号墓。土器類をはじめ耳環や碧玉製管玉、ガラス玉、鉄刀、鉄鏃などが見つかった。その耳環の輝きには目を奪われた。ただ副葬品も時期が下るにつれて種類が減少し簡素になっていく。

 亀甲形陶棺が多く出土する奈良市北西部は古墳の造墓や埴輪の生産に携わったとされる土師氏の本拠地といわれる。菅原東遺跡からは埴輪窯跡群が見つかり、ここからは陶棺の蓋や身、脚の破片なども出土した。このため埴輪と同じ窯で陶棺が生産されていた可能性が高いとみられる。

 横穴募からは陶棺や副葬品のほか、以前に作られた埴輪も見つかった。赤田19号墓(7世紀中頃)からは朝顔形埴輪と人物埴輪が出土した。それらは6世紀前半頃のもので、近隣の古墳から抜き取って再利用されたとみられる。センターでは陶棺の作り方や埴輪の存在から「赤田横穴墓群は土師氏の墓域の一つと考えられる」とし、埴輪の再利用についても「氏族伝承を再確認するための行為かもしれない」と推測している。

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