く~にゃん雑記帳

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<ふるさとミュージアム山城> 企画展「京都茶器物語~喫茶の考古学」

2017年06月26日 | 考古・歴史

【桃山茶陶から幕末・明治の蓮月焼や鹿背山焼まで】

 京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城、木津川市山城町)で、企画展「京都茶器物語~喫茶の考古学」が開かれている。お茶を楽しむ喫茶の風習は中国・唐から平安時代初期に日本に伝わった。当初は宮中や寺院などに限られ、広く一般に広まったのは14世紀中頃以降といわれる。企画展では出土品を中心に桃山茶陶から江戸末期~明治の蓮月焼・鹿背山焼(かせやまやき)まで展示し、茶器の移り変わりを詳しく紹介している。7月9日まで。

 

 桃山時代作の「珍皇寺参詣曼荼羅」には門前に一服一銭で茶を商う小屋が立ち並ぶ様子が描かれている。法師が風炉にかけた釜で湯を沸かして茶を点てたり、参詣客が腰掛けて一息入れる様子なども見える(上の写真㊧)。国宝「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」にも15世紀初頭に東寺の門前で参詣客相手に茶を売っていたことが記されているという。(上の写真㊨は山科本願寺跡から出土した16世紀後半の瓦質土器風炉)

 

 茶器は時代とともに変遷する。当初は中国製の青磁や白磁だったとみられるが、13世紀末には中国製に瀬戸美濃天目碗が加わった。16世紀になると高麗茶碗や備前・瀬戸など和物が本格的に使われるようになり、千利休によって〝わび茶〟が確立されると利休好みの楽焼や軟質施釉陶器(後の京焼)が生み出された。17世紀前半には利休の弟子、古田織部による形がいびつな〝沓(くつ)茶碗〟など斬新な器が流行した。その後、小堀遠州による〝綺麗さび〟で再び唐物が注目を集める一方で、各地に国焼(くにやき)の窯が開かれ和物も多様化していった。(上の写真は㊧古田織部邸跡出土の織部角皿など、㊨茶屋四郎次郎邸跡出土の黄瀬戸半筒碗など。下の写真は㊧寺町旧域・法成寺跡出土の18世紀の京焼茶道具一式、㊨公家町出土の18世紀後半の施釉陶器土瓶

 

 京都市内ではこれまでに古田織部の京屋敷跡や、江戸前期の豪商茶屋四郎次郎、後藤庄三郎の屋敷跡などから、日常雑器とともに大量の茶器が出土している。織部邸の堀やゴミ捨て穴からは瀬戸美濃や織部、ねずみ志野、唐津、高取のほか中国、ベトナム産の茶器も見つかった。企画展ではこれらの出土品に加え、野々村仁清が色絵陶器を大成した京焼や、仁清の弟子尾形乾山が開いた乾山焼、幕末の女流歌人・太田垣蓮月の作品なども展示中。蓮月焼はロクロを使わずに作られ、自詠の歌が釘などで彫り付けられているのが特徴。19世紀中頃に現在の木津川市で焼かれた鹿背山焼も展示している。鹿背山焼は今年4月に市が所蔵する249点が市の文化財に指定されたばかり。(写真㊧は京大構内遺跡出土の19世紀中頃の蓮月焼、㊨元本能寺南町出土の明治時代の京焼色絵紅茶茶碗)

  

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