【辻田真佐憲著、幻冬舎発行】
略歴によると、著者辻田氏は1984年大阪府生まれ。ということは今年で30歳。その若さにして軍歌という組み合わせが目を引いた。軍歌の研究に〝開眼〟したのは中学生の頃という。世界中の軍歌の収集を始め、大学在学中にウェブサイト「西洋軍歌蒐集館」を開設した。「軍歌を中心とした世界のプロパガンダ」を研究テーマに掲げる。著書に「世界軍歌全集 歌詞で読むナショナリズムとイデオロギーの時代」など。
「軍歌の誕生」「軍歌の普及」「越境する軍歌」など7章で構成する。著者は『軍歌』(後に『皇国の守』『来れや来れ』に改題)という軍歌が作られた1885年(明治18年)を軍歌元年とし、その後の日清・日露戦争の時期を第1次軍歌ブーム、満州事変から太平洋戦争を第2次軍歌ブームと呼ぶ。日清戦争の開戦からわずか2年間に1300曲以上が作られ、終戦までの60年間では「1万曲を下らないだろう」と推測する。
軍歌作りには音楽家のほか詩人や文学者など多くの知識人が動員された。佐佐木信綱は『凱旋』を手始めに「日清戦争から太平洋戦争まで軍歌を作り続けたほとんど唯一の歌人」。森鴎外は『第二軍』、土井晩翠は『征夷歌』を作詞し、夏目漱石も『従軍行』という〝戦争詩〟を残した。夭折の天才作曲家・滝廉太郎も『我が神州』を作った。著者は「もし滝が長生きしていれば、山田耕筰のように軍歌を多く手がけ、戦争責任を追及されていたことは想像に難くない」という。
新聞社や放送局、出版社などによる〝懸賞募集軍歌〟も多く生まれた。「勝って来るぞと勇ましく」で始まる『露営の歌』もその1つ。毎日新聞が募集し約2万5000篇の中から選ばれた歌詞に古関裕而がメロディーを付けた。選者は菊池寛、北原白秋ら3人だった。朝日新聞の募集からは『父よあなたは強かった』、読売新聞からは『空の勇士』などが生まれた。
メディア間の競争で懸賞金が高騰した結果、いずれも応募が殺到した。講談社が募集した『出征兵士を送る歌』(林伊佐緒作曲)の応募は13万篇近くに達したという。終戦間近の1945年夏になっても、全国の新聞などが共同で本土決戦に向けた『国民の軍歌』を募集した。その締め切り日は奇しくも8月15日。過酷な状況にもかかわらず、応募は約1万5000篇に達した。
著者は軍歌を「官民挙げての国民的なエンターテインメント」と位置づける。「軍歌の作り手たちは戦争を主導した『戦犯』でもなければ『民族精神』の祭司でもない。彼らの作った軍歌は何よりも『娯楽』であり『商品』であり、様々な利害関係の中から生まれてきたものだった」「当時も今も、老若男女、貴賎を問わずに消費されるこのような娯楽を他に見いだすことは難しい。その意味で軍歌は、日本史上最大のエンタメだったとさえいえるのではないだろうか」。