く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<BOOK> 「反骨の棋譜 坂田三吉」

2014年10月21日 | BOOK

【大山勝男著、現代書館発行】

 著者大山氏は1953年神戸市生まれ。夕刊紙、地方紙を経て現在『週刊大阪日日新聞』記者。ノンフィクションライターとしても活躍しており、著書に『あるシマンチュウの肖像―奄美から神戸へ、そして阪神大震災』『愛しのきょら島よ―悲劇の北緯29度線』などがある。

   

 大阪が生んだ希代の棋士、坂田三吉(1870~1946)の一代記。「中世の自由都市・堺の出身」「千日手で開眼」「関西から関東へ」など8章で構成し、別稿で坂田三吉の「一人語り」を演じている評論家・木津川計のインタビュー記事や坂田の年譜などを添えている。

 坂田には「無学で風変わりで粗野な人物」というイメージがつきまとう。没後、坂田の生涯が舞台や映画、テレビドラマなどとして取り上げられ、村田英雄の『王将』(西条八十作詞、船村徹作曲)は300万枚を超える大ヒットとなった。こうした中で脚色された〝奇人・坂田〟のイメージが作られてきた。

 事実、坂田は貧困のため教育をろくに受けられず、生涯に覚えた漢字は「三」「吉」「馬」の3字だったともいわれる。だが、坂田の実像は謙虚かつ礼儀正しい人物だった。本書も歪曲化されたイメージを正そうと、生前の坂田を知る人のコメントなどに多くの紙幅を割く。「非常に律儀で、とにかく『真っ直ぐ』な心情だ」(故大山康晴15世名人)、「決して奇行でもなければ、変人でもない。将棋の奇手は坂田独特の作戦なのだ」(故星田啓三8段)……。

 坂田が生涯のライバルとなる関根金次郎と初手合わせしたのは24歳のとき。以来、息詰まる対局が続く。36歳のときには「千日手」で敗れる。千日手は双方で同じ指し方が繰り返され局面が進展しない状態を指す。決死の覚悟で初めて上京したのは43歳のとき。「明日は東京に出ていくからは/なにがなんでも勝たねばならぬ……」(演歌『王将』)。

 関根はその後、13世名人となる。生涯の2人の対局は坂田の16勝15敗1分だった。関根は昭和21年7月に死去、坂田もその5カ月後の12月、後を追うように亡くなる。関根享年79、坂田享年77だった。坂田の死亡記事の扱いは小さく、たった10行で写真も掲載されなかったという。日本将棋連盟は昭和30年、坂田に「名人位」「王将位」を追贈した。

 著者は坂田を〝盤上の哲学者〟と形容する。読み終え、最後に「あとがき」を開いて驚いた。その書き出しに「将棋については門外漢の私が……」とあったからだ。本書は昔から将棋を指す著者の趣味が高じて結実した作品と思い込んでいた。だから、最後に「門外漢」と知って仰天してしまった次第。差別問題をテーマの1つに掲げる著者らしい作品といえよう。

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