く~にゃん雑記帳

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<石川武志写真展> 「水俣ノート1971~2012」 大阪・ニコンプラザで開幕

2012年12月21日 | メモ

【石川さん「今も続く水俣病の姿を伝えることは私の責務」】

 

 公害病の原点といわれる熊本水俣病。その「ミナマタ」の惨禍を世界に発信したのが米国の写真家ユージン・スミス(191878年)だ。石川武志さん(1950年生まれ)は197174年、そのスミスのアシスタントを務め自らも写真を撮った。そしてスミス没後30周年を機に2008年から水俣病の「その後」を再び撮り始めた。大阪・梅田のニコンプラザ大阪(ヒルトンプラザウエスト・オフィスタワー13階)で20日始まった「石川武志写真展 水俣ノート19712012」(28日まで)は、その間約40年間の患者と家族1人ひとりの苦難の歳月を改めて想起させる。

 

   

 

 この写真展は10月に写真集「MINAMATA NOTE19712012 私とユージン・スミスと水俣」(千倉書房)が刊行されたことに伴うもので、東京に続いての開催。再び訪れた水俣の風景は変わり、スミスの写真集に登場する患者の多くは亡くなっていた。石川さんがカメラに収めた胎児性水俣病の少年少女たちもとうに50歳を超えていた。だが「水俣病は現存していた。今も続く水俣病の姿を伝えることは多少なりとも水俣病に関わってきた私の責任でもある」。

 

 展示写真はモノクロ40点余。以前撮った人をできるだけ同じ場所で撮影させてもらい、両方の写真を並べて展示した。そのうちの1人、坂本しのぶさんを最初に撮ったのは1972年。16歳だったこの年、しのぶさんはスウェーデンでの国連環境会議で水俣病の実情を世界に伝えた。昨年の千葉・幕張での世界水銀条約会議にも参加し「水俣病はまだ終わっていない」というメッセージを発信し続けている。2009年撮影の写真はしのぶさんの穏やかな笑顔が印象的だ。重いテーマにもかかわらず、このほかにも満面笑顔の人たちの写真が並んで温かい雰囲気が漂っていた。

 

「水俣の三人娘」というタイトルが付いた写真があった。幼い頃からの大の仲良しで、展示写真は1972年のピクニックと今年4月の花見で撮ったもの。このうち1人は車椅子が手放せず、他の2人も足取りが少し覚束ない。40年の時の経過を感じさせるが、これからも3人そろってずっと仲良く過ごしてほしいと願うばかりだ。展示写真の中には廃液を垂れ流すチッソの工場を撮影しようと、真剣な眼差しでファインダーを覗き込むスミスの姿を撮ったものもあった。

 

 大きな瞳の少女の写真3枚も印象的だった。撮影したのは1972年。「この子だけは自分自身で撮りたいと、スミスの仕事の休みを利用してご自宅を訪ねた」。上の写真は自宅前の海の見える場所で母親に抱かれて上機嫌な少女。「小春日和の中で少女は天使そのものに見えた」。水俣再訪を機に少女のその後を撮りたいと思った。だが残念ながら願いはかなわなかった。床に臥したご本人から最後まで了解を頂けなかったという。

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