前の記事に補足。あまりblogに技術的なことを書くと部分的なことだけを取り上げられてしまう危険性があるので。まーこちらが意図する部分が伝わらないのは「文字の羅列」でしかなく、そこに意味を持たせるのが難しいからなのですが。
今回卒業生が練習に参加しました。動き的にかなり崩れている部分がありました。これを修正するというのは簡単なことではありません。「やっていたら直る」というものでもないでしょう。ここ最近になって動きの組み立てがある程度できるようになってきました。「今更か!?」と言われますが「今更」です。これまでもある程度の指導はできると自負していたのですが、今考えると「恥ずかしい」限りです。ほとんど今まで教えてもらったことが「表面的な理解」だったのかなという気はします。「膝の締め」であったり「重心の移動」であったり。ドリルをするのにスティックを使う。これも本当は色々な意味があります。なかなか分かってもらえないと思います。
話がそれてきていますが。この卒業生が高校生の時、加速段階がかなり下手で修正できないでいました。2年生から3年生に上がるときの冬にこの部分の改善を行いたいと考えていました。「苦手な部分の克服」が競技力の向上につながります。ここは間違いない事実です。が、そこばかりにこだわりすぎて「大きなもの」を見失っていた気がします。複数指導体制であればまた違うのかもしれませんが。私と選手の「思い込み」の部分が強くなりすぎていたと思います。
加速段階の改善のために前半のマーク走をかなり行いました。加速段階から中間につなげていくためのマークです。しかし、そこにこだわりすぎていて大切な重心移動が全くできなくなってきていました。「速く動く」ことと「加速を修正する」という2つの考えが大きくなりすぎて「重心の移動」ができない。練習の途中で「マークが広くて届かない」と何度か言っていました。「速さ」としては問題はない。届かないのは??ということでそのマークの距離を狭めて行う。これにより重心移動しなくなっているのにさらにそこを助長する動きとなりました。イメージできるでしょうか??理想は「ストライドが広くてピッチが速い」というものです。それに細かい部分が付随してきます。この当時は「ピッチ」意識。実際は「ピッチ」も「ストライド」も意識するものではなく「自然に上がってくるモノ」だと思います。こういう「現象」だけをみて意識させると大切なものを見失う。
結局は重心移動がスムーズでなくなり加速段階でパワーを使って無理やり加速する走りとなってしまいました。一番の武器である中間からの伸びを失ってしまい思うように走れないという状況が続きました。結局、「脚だけの動き」となっているのです。「ピッチ」を上げようと「速さ」を求めたために起きたことだと思います。反省しても反省しきれない。情けない話です。
月曜日の練習での「中間マーク」、これに近いものを感じました。「刻む」という言葉の感覚です。練習が始まる前に話をしました。スピードの上昇の話と中間での走りです。この「中間マーク」の練習は何のために行うのか?「刻む」というのはピッチアップではありません。言葉的には「ピッチを上げる」という意味なのかもしれませんが、この日に話した「刻む」というのは全く別です。今のうちの練習の「中間マーク」の意味が分かっていなければこのような練習をしても意味がありません。マークの部分で本当に「細かく動く」というのであれば「無意味」と言ってもいいくらいです。「他校がやっているから」という理由でやるわけではありません。うちの学校にはうちの学校の「狙い」があるのです。これを選手がある程度理解できているのではないかと感じています。大学生は「ひとまず走ってみる」という感じでした。初めてやる練習ですから当然のことだと思います。
最初の一本は完全に「間延び」していました。タイミングもずれています。それでも押し切れるだけの力があるのかもしれませんが。うちの1年生、マークの部分の質問をすると「前を見て走っているので全く見えていません」とのこと(笑)。天才です。というか、実際のところはそんなものだと思います。特別マークを意識しているわけではないのです。意識してそれに合わせて走ったらうまく走れません。中間で間延びするというのはどういうことか?重心移動がスムーズではなく脚の回転だけで進もうとしているので次のマークに届かないのです。だから動きを大きくして次のマークに進もうとする。中間で動きが間延びすると間違いなくそこで動きは崩れます。終わりです。
そこで「刻む」という言葉を思い出す。届かないのだから届く方でやればよい。重心の移動がきちんとできれば間違いなく普通に走れる距離でも間を狭くして何とか届くようにすればよい。ここに大きな問題点があるのです。結局は詰まってしまってスピードが大幅ダウン。足長的にはほんの少しなのですがこれでも全く違います。「刻む」という言葉は間延びしないように走るという意味であって「ストライドを小さくしてピッチを上げる」という意味では使っていません。
マークの距離を長くすればよいのか?それも全く違うと思います。膝から下を出して大きく走る。これによりどうなるのか?ストライドは伸びますが間違いなく接地ポジションがずれます。ブレーキがかかりますし足が流れます。それにより負担が大きくなり怪我をする危険性が増す。「大きく走る」というのがどのようなことなのか?無駄にピッチで走っている選手には「大きく」という言葉が合うのかもしれませんが。「大きく走る」ことの弊害は中学生から高校生になった時に顕著に表れます。特に女子。ここは色々とあるのでここには書きません。これにより動きが崩れたり走れなくなる選手も出てきます。それくらい大きなことだと思っています。
マーク走一つをとっても「動き」という部分で大きく影響してきます。「やれば速くなる」というのは違うと思います。それなりに速くなるのかもしれませんが、本当はもっともっと速くなるのです。それなりに伸びたというので満足するのではなく「本当はもっとできる」ということを考えないといけないと思います。そこまで考えて指導する人がどれだけいるのかもよくわからない部分ですが。
私が偉そうに書くというのはどうなのか?もっともっときちんと指導できる人もいます。それでもこういう部分について触れることはできます。細かい話は文章では伝わらないと思います。「本当に指導できる」という人は少ないというのが現実です。ある程度の指導ができるようになってきていると思いますがやはり私もまだまだです。
あまり深く書いていくと引かれてしまうのでこの辺で止めておきます。「動き」についてしっかりと考えないといけないと思います、目の前の選手をしっかり見ていくことで勉強できればいいなと思っています。まとまりのない文章ですみません・・・。
今回卒業生が練習に参加しました。動き的にかなり崩れている部分がありました。これを修正するというのは簡単なことではありません。「やっていたら直る」というものでもないでしょう。ここ最近になって動きの組み立てがある程度できるようになってきました。「今更か!?」と言われますが「今更」です。これまでもある程度の指導はできると自負していたのですが、今考えると「恥ずかしい」限りです。ほとんど今まで教えてもらったことが「表面的な理解」だったのかなという気はします。「膝の締め」であったり「重心の移動」であったり。ドリルをするのにスティックを使う。これも本当は色々な意味があります。なかなか分かってもらえないと思います。
話がそれてきていますが。この卒業生が高校生の時、加速段階がかなり下手で修正できないでいました。2年生から3年生に上がるときの冬にこの部分の改善を行いたいと考えていました。「苦手な部分の克服」が競技力の向上につながります。ここは間違いない事実です。が、そこばかりにこだわりすぎて「大きなもの」を見失っていた気がします。複数指導体制であればまた違うのかもしれませんが。私と選手の「思い込み」の部分が強くなりすぎていたと思います。
加速段階の改善のために前半のマーク走をかなり行いました。加速段階から中間につなげていくためのマークです。しかし、そこにこだわりすぎていて大切な重心移動が全くできなくなってきていました。「速く動く」ことと「加速を修正する」という2つの考えが大きくなりすぎて「重心の移動」ができない。練習の途中で「マークが広くて届かない」と何度か言っていました。「速さ」としては問題はない。届かないのは??ということでそのマークの距離を狭めて行う。これにより重心移動しなくなっているのにさらにそこを助長する動きとなりました。イメージできるでしょうか??理想は「ストライドが広くてピッチが速い」というものです。それに細かい部分が付随してきます。この当時は「ピッチ」意識。実際は「ピッチ」も「ストライド」も意識するものではなく「自然に上がってくるモノ」だと思います。こういう「現象」だけをみて意識させると大切なものを見失う。
結局は重心移動がスムーズでなくなり加速段階でパワーを使って無理やり加速する走りとなってしまいました。一番の武器である中間からの伸びを失ってしまい思うように走れないという状況が続きました。結局、「脚だけの動き」となっているのです。「ピッチ」を上げようと「速さ」を求めたために起きたことだと思います。反省しても反省しきれない。情けない話です。
月曜日の練習での「中間マーク」、これに近いものを感じました。「刻む」という言葉の感覚です。練習が始まる前に話をしました。スピードの上昇の話と中間での走りです。この「中間マーク」の練習は何のために行うのか?「刻む」というのはピッチアップではありません。言葉的には「ピッチを上げる」という意味なのかもしれませんが、この日に話した「刻む」というのは全く別です。今のうちの練習の「中間マーク」の意味が分かっていなければこのような練習をしても意味がありません。マークの部分で本当に「細かく動く」というのであれば「無意味」と言ってもいいくらいです。「他校がやっているから」という理由でやるわけではありません。うちの学校にはうちの学校の「狙い」があるのです。これを選手がある程度理解できているのではないかと感じています。大学生は「ひとまず走ってみる」という感じでした。初めてやる練習ですから当然のことだと思います。
最初の一本は完全に「間延び」していました。タイミングもずれています。それでも押し切れるだけの力があるのかもしれませんが。うちの1年生、マークの部分の質問をすると「前を見て走っているので全く見えていません」とのこと(笑)。天才です。というか、実際のところはそんなものだと思います。特別マークを意識しているわけではないのです。意識してそれに合わせて走ったらうまく走れません。中間で間延びするというのはどういうことか?重心移動がスムーズではなく脚の回転だけで進もうとしているので次のマークに届かないのです。だから動きを大きくして次のマークに進もうとする。中間で動きが間延びすると間違いなくそこで動きは崩れます。終わりです。
そこで「刻む」という言葉を思い出す。届かないのだから届く方でやればよい。重心の移動がきちんとできれば間違いなく普通に走れる距離でも間を狭くして何とか届くようにすればよい。ここに大きな問題点があるのです。結局は詰まってしまってスピードが大幅ダウン。足長的にはほんの少しなのですがこれでも全く違います。「刻む」という言葉は間延びしないように走るという意味であって「ストライドを小さくしてピッチを上げる」という意味では使っていません。
マークの距離を長くすればよいのか?それも全く違うと思います。膝から下を出して大きく走る。これによりどうなるのか?ストライドは伸びますが間違いなく接地ポジションがずれます。ブレーキがかかりますし足が流れます。それにより負担が大きくなり怪我をする危険性が増す。「大きく走る」というのがどのようなことなのか?無駄にピッチで走っている選手には「大きく」という言葉が合うのかもしれませんが。「大きく走る」ことの弊害は中学生から高校生になった時に顕著に表れます。特に女子。ここは色々とあるのでここには書きません。これにより動きが崩れたり走れなくなる選手も出てきます。それくらい大きなことだと思っています。
マーク走一つをとっても「動き」という部分で大きく影響してきます。「やれば速くなる」というのは違うと思います。それなりに速くなるのかもしれませんが、本当はもっともっと速くなるのです。それなりに伸びたというので満足するのではなく「本当はもっとできる」ということを考えないといけないと思います。そこまで考えて指導する人がどれだけいるのかもよくわからない部分ですが。
私が偉そうに書くというのはどうなのか?もっともっときちんと指導できる人もいます。それでもこういう部分について触れることはできます。細かい話は文章では伝わらないと思います。「本当に指導できる」という人は少ないというのが現実です。ある程度の指導ができるようになってきていると思いますがやはり私もまだまだです。
あまり深く書いていくと引かれてしまうのでこの辺で止めておきます。「動き」についてしっかりと考えないといけないと思います、目の前の選手をしっかり見ていくことで勉強できればいいなと思っています。まとまりのない文章ですみません・・・。