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kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

感覚のすり合わせ

2020-12-01 | 陸上競技

思うことを。

 

前の記事の続きになるかもしれません。「感覚」というのがどうやって作られていくのか。どうすれば正しい方向に持っていけるのか。ここの部分に関してはいつも考えさせられます。何が正解なのか。いつも「間違った方向」に受け取られることがある。これは「伝え方」の問題だと考えている。

 

10人いたら10人に「同じ表現」で「感覚」が伝わることはない。部活動のように大人数でやる場合は「最大公約数」のような形でやっていくことが多い。マークを置くにしても本当は一人一人にあった幅がある。しかし、それをしていると道具が足りなくなったり場所が足りなくなる。時間も限りなくかかる。そういう部分で「最大公約数」が「適している」と感じる距離で行うようになる。ここは本来は避けるべきなのかもしれない。

 

こういう部分の表現が「間違った理解」につながることがある。これにより「一生懸命にやる」のだがそれが悪循環を生み出すという結果になることがある。やればやるほどドツボにはまるという感じ。そこに対して「練習方法が悪いのかもしれない」と考えると「本質から離れたこと」になってしまう。本当は「受け取る側」ともっともっとコミュニケーションをとる必要がある。これも最近の反省。

 

元々走るときには「フォロースイング」を重視している。前に持ってくる脚のスイングで前に進む。きちんとスイングができれば腰が自然に進むようになる。走りとしてはシンプルだと思う。こうやって書いていると「スイング」という言葉も「回す」ととらえられるかもしれないと心配になる。直線的に脚を前に運ぶことで腰も進むと書くほうが正解なのかもしれない。表現が難しい。

 

「膝締め」に関して誤解があったのでそこを正した。更に。「接地は身体の真下で」という表現をしている。これも捉え方によって全く違ってくる。足が直線的に引き出されて腰が進むと自然に脚は落ちてくる。落ちないと転んでしまうので。接地する時には「接地ポイント」に「腰が乗っていく」といいう感じになる。自然に腰が進むことで一番ブレーキの少ないポイントに入っていく。そんなイメージ。

 

が、これも間違って捉えられる。いつも「前に前に」という表現をする。これは「前に脚を運ぶ」というイメージで言っている。マーク走などは全てこれ。前に運んでいくことで身体が前に進む。「膝締め」に関してはこのスイングスピードを上げるために必須だと思う。が、「身体の真下で接地」という言葉が頭に残っている者は「強く落とす」という感じになっている様子。これもまた・・・。

 

こうなるとまた「力み」が生まれることになる。「膝締め」をして前に運んできたとしても「強く落とす」ことで次の動作が遅れる。結局前方向に足を運びにくくする。流れるから。膝締めをしていけば「自然と良いポジションに入る」ようになると思っている。脚は引き出されたら必ず落ちる。重心が前に移動するのだから落ちないはずがない。腰が移動すれば物理的に落ちる。そこを「強く落とす」ようにすると結局、反発などをもらう云々ではなくなる。後ろ方向に加えた力を無理やり前方向に変えるのだからパワーを使う。

 

いや、私自身が「イメージ」しているものと「選手」が感じることが全く違う感覚になるというのは良くない。それに対してもっともっと感覚をすり合わせて行く必要がある。「動き」として連続写真を見るのではなくその中にある「感覚」や「動かし方」についてしっかりと共有する必要がある。説明をしていたとしてもそれがこちらが思っている感覚とは違うことがある。そこに対してどうするか。

 

とにかくこの数日間、「え?そうなの?」と思うことが重なった。想像を超えた受け取り方がある。「走る」という動作はいたってシンプル。複雑なことをする必要はない。シンプル化することにより走りが洗練されていくと思っている。それなのに「複雑化」していなかったか。「求めるもの」を言語化して明確に伝えられていなかったのではないか。こういう部分も重要になる。

 

考えさせられる。本当に。日々勉強になる。自分自身の「やりたいこと」を体現してくれる選手たちの存在に感謝しなければいけない。そして「結果」につながるようにこちらも考えなければいけない。修行。まさに修行。

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言葉

2020-12-01 | 陸上競技

以前から考えていること。これは正直くだらないのかもしれません。しかし、奥が深い。

 

「犬」という文字を見れば多くの人は「ある動物」を想像する。「ワン」と鳴くあの動物。これは「犬」というものを多くの人がイメージして共有しているからできること。

 

しかし、「犬」といってそこからイメージされる「犬種」は全く違う。チワワのような小型犬をイメージする人もいれば、秋田犬のような中型犬をイメージする人もいる。同じようにシェパードのような大きな犬をイメージする人もいるだろう。分類としては「犬」だが、そこからイメージされる「種類」は異なる。同じ「犬」であっても全く同じ「犬」を想像する人は少ない。

 

これもバカ話だが「犬」というのは誰かがその動物を見て「犬」と呼び始め、それが多くの人に認められ共通する呼び方である「犬」となったから今も「犬」と呼ばれている。もし最初に「ポニョ」と呼んでいたら、「犬」ではなく「ポニョ」と呼ばれているのかもしれない。「言葉」というのはそんなものだと思っている。「共通するもの」をイメージする部分もあるが細かいニュアンスや対象などが「100%一致する」ということは少ないのではないか。

 

以前からblogを書き続けている。これは「感覚を言葉にしたい」という欲求から始まっている。大学時代、全国大会に出場した時に全く自分の走りができなかった。自分自身は「調子がいい」と思っていたのに実際に走ってみると全くタイムが出ない。これは「自分の状況が判断できなかった」というのもあるだろう。周りの雰囲気に飲み込まれてしまって持っている力が出せなかったというのも大きい。自分自身が「冷静だ」と思っていても実際は違うことだってある。その微妙なニュアンスを「言葉」にできたらと思っている。

 

このblogにもずっと書いている。走るときに「膝締め」をするという言葉。この部分について今更ながら考えさせられることがあった。「わかっているだろう」というつもりで話をしていても実際は「違うとらえ方」をしている。「膝を締める」という言葉から連想するイメージは人ぞれぞれ。その部分に関してもっともっと「突き詰めて話していく」必要性がある。ここを忘れてしまうと結局、「指導しているのに」という話になる。

 

「足首の固定」についてこれまで何度も議論してきた。「つま先を上げる」という言葉と「足首を固定する」という言葉。結果としては同じことなのかもしれないが、受け取る側がイメージする事象は異なる。接地したときに足首の角度が変わらない。離地する際に足首の角度が変わらない。これを「固定する」という表現をしていた。足首が「緩む」という言葉と反対側の言葉たととらえていたから。

 

しかし、これにより「足首」に力が入りすぎている感じがあった。「末端」となる部分に力が入ることで「本来やりたい動き」とは違う部分に意識が行く。力みが生まれる。結局は「つま先を上げる」位の表現のほうが適している。「同じこと」を言っているとしてもニュアンスが違えば受け取る側が全く違うイメージで受け取る。ここに大きな問題がある。

 

「膝を締める」という言葉。「当たり前の感覚」と思って話をしていると「別の捉え方」になる。こういう部分に対して自分自身がもっと敏感にならなければいけない。同じ言葉でも「受け取る側」の感覚によって全く違うことになる。

 

「膝締め」をして走っているとふくらはぎが硬くなるという言葉があった。最初何のことか分からない感じがあった。結局は「締める」という言葉を受けると時に「締め上げる」という感じで受け止めていたという部分だった。確かに。膝を締めるときに「挟むくらい締める」という話もする。これは極端な例だが。その言葉を「締め上げる」ととらえてもおかしくない。結局は私自身の「言葉の使い方」でしかない。

 

この数年、「分かっている」という前提で話をしていた部分がある。これを捨て去れなければいけないなと感じた。「言葉」の使い方によって「受け取る側」がイメージするモノが違う。「犬」という言葉から連想する「犬種」が違うように。

 

反省しきり。毎日が自分を振り返る時間になります。修行。

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