入学式がありました。ここもそれぞれ何をするのか。担任をするにあたっていろいろな思いを持って担当するはずです。私は私なりの考え方があります。他者がどのような感覚でやっているのかは分かりません。
昨年担任希望はありましたが他の役割があったのでそちらが優先。仕事ですからワガママをいっても仕方ないかなと。全てが自己都合でやるわけにはいかないなと感じているので。
今年、色々と感じる事がありました。私が生徒に何が伝えられるのか。「事務仕事」を中心にやっていくことでも担任業務はこなせます。それだけで十分対応できる。必要な仕事はできているので全くもって問題はないと思います。淡々とやることも必要なのかなとは思います。
が、ここ数年間それに近い生き方をしていました。学校が変わったというのが一番大きな理由だと思います。多分周りから見ればそこまで感じられないのかもしれませんが。私の中でかなりの葛藤がありました。こちらから多くのことを与えることで何か大きな弊害があるのではないかと。そんな感覚の中で生きていたので「自分らしく生きる」というのができていなかった気がします。素の部分を出せると場面も少しだけでしたがあったのは事実です。しかし、それ以外の場面では「無難に生きる」というのが大きかった気がします。やれることはやっていたと思います。しかし、自分の中で何か足りないものがありました。うまく表現できませんが。
この数年間で自分の中にフラストレーションが蓄積する場面が多くありました。本当に伝えたいことを伝えられない。今年、担任をするにあたって「不易と流行」に関しては絶対に伝え続けようと思っていました。これだけマスコミが教員のバッシングをします。発言の一部分を切り取ってそこを叩く。保護者も同様かもしれません。
時代が経過しても変わらない事がある。マスコミが云々言っても結局は「本当の意味で生徒のことを考えているのか」です。マスコミは叩きやすいところを見つけて叩きます。それが誰のためになるのかではない。世論が興味を持ってバッシングをしやすいという部分が大きいのではないかなと思います。
これまで色々な本を読んできました。これは過去のblogにずっと書いていました。経営者の考え方に共通する部分を読み解く。更には論語や菜根譚のように2500年以上前から語り継がれている内容。吉田松陰のように地元から排出された日本の歴史を変えてきた人物の考え方。多くの価値観に触れることで自分自身を少しずつ作ってきました。
そんな中で大阪のymm先生からある物を頂きました。昨年末大阪に行く機会があったので是非食事をしながら話を伺いたいと思っていたのですがタイミングが合わず。その直後にymm先生から「活読」を頂きました。そこにはここ数年間私が思い悩んでいた事の解決の糸口が示してありました。やはり私自身が信念を持って生徒と向き合っていく必要がある。選手に対してはかなりその部分ができていたと思いますが、生徒に対してはそこまで伝えていなかった。
やはり「不易」の部分を伝えていかなければいけない。時代とともに変わっていくものだけではなく物事の本質を捉えた考え方を伝えていく事が教育として必須なのではないか。迷っていた部分がスーッと晴れた感じがありました。悩みもがいていただけではない。この数年間で人生の中で「会うべくして会えた人」が何人もいるのです。普通であれば出会うことのなかったかもしれない人。それが奇跡的に会えた。それは運命なのだと思います。私の生き方を変えてくれるくらいの大きな出会い。
活読まではできないかもしれない。それでも「伝えてもいいんだ」という後押しがありました。今回、LHRの時間に「正しい努力」と題された内容を生徒に渡しました。
「切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如く」という内容を論語の中で孔子が引用している。その言葉を使った文章があったので生徒に印刷して渡しました。元々は詩経に示されたもの。それを孔子が弟子の子貢と話をする中で使っています。この言葉が実は「切磋琢磨」の語源となっているのです。
スマホなどは「流行」です。ポケットベルやPHS、携帯電話からの流れの中でスマホが生まれてきた。これが10年後も同様にスマホが存在している保証はない。その時その時の流行です。たまごっちなどもその典型。一時的にブームとなってもそれがずっと続くわけではない。流行り廃りがあるのです。しかし、論語などの古典は今でも様々な部分に使われます。2500年以上も前から使われている。流行りではなく「不易」です。時の移ろいに関係なくずっとずっと使われる。
ここに「物事の本質」がある。それはどこかで誰かが生徒に伝えていかなければいけない。無駄に熱苦しいと思われるかもしれませんが、本当に生徒と向き合うのであれば外せない部分だと思っています。これは今まで陸上競技の指導の中で感じてきたから伝えられる部分です。表面的な話ではなく本当に必死にやっているから見えてきたこと。このことは経験しなければ分からないと思います。
生徒と友達になる気はありません。そういう軽薄な繋がりを求める気はない。過剰に関わる気もない。しかし、何が大切なのか。どこに物事の本質があるのか。これまでの考え方から抜け出して「人生に必要な考え方」を身につけていく必要がある。それはその場にいたら身につくものではない。何かしらのきっかけを与えていってそれをどう利用するのか。それが私にできることではないか。
教科指導もします。事務仕事もします。当然です。が、「生きるための力」や「正しい方向に進む判断力」は簡単には身につかないと思います。そうであれば単純に私の言葉で話すだけではなく「不易」であるモノを引用しながら伝えていくほうが効果はあると思います。教育とは本来ならそういうものではないか。全てを与える気はありません。自分たちで考えていかなければいけない事がある。しかし、その時の「判断力」をどうするかは考えなければいけない。どういう判断をするのかで人生は変わってきます。
そう考えて保護者と生徒の前で宣言をしました。本気で向き合いたいと思います。以前から私にとって「選手」とクラスの生徒は特別だと言葉にしてきました。担任を離れた時期があったからこそそのことを強く感じます。自己研鑽もしなければいけない。留まっているわけにはいかない。やるべきことは数え切れないくらいあります。
譲れないものを私自身持ちたいと思います。教育とは何か。進学する、就職する、検定に合格するというものではない。「本当に大切なもの」を伝え続ける事が必要だと思います。それがなければ生徒の心は動かない。ymm先生の取り組みは私の中で大きな刺激でした。今回から配布した資料に「感じたこと」を書かせるようにしました。振り返りをする事で本人の「心の整理」ができます。与えるだけではなくきちんとフィードバックさせなければいけない。
これまでと色々と考え方を変えたいと思います。これまで支えてくださった方に誇れるように。恥じないように。そう強く思います。
まとまりませんが。書いておきます。