kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

不易と流行

2019-04-09 | 陸上競技
入学式がありました。ここもそれぞれ何をするのか。担任をするにあたっていろいろな思いを持って担当するはずです。私は私なりの考え方があります。他者がどのような感覚でやっているのかは分かりません。
 
昨年担任希望はありましたが他の役割があったのでそちらが優先。仕事ですからワガママをいっても仕方ないかなと。全てが自己都合でやるわけにはいかないなと感じているので。
 
今年、色々と感じる事がありました。私が生徒に何が伝えられるのか。「事務仕事」を中心にやっていくことでも担任業務はこなせます。それだけで十分対応できる。必要な仕事はできているので全くもって問題はないと思います。淡々とやることも必要なのかなとは思います。
 
が、ここ数年間それに近い生き方をしていました。学校が変わったというのが一番大きな理由だと思います。多分周りから見ればそこまで感じられないのかもしれませんが。私の中でかなりの葛藤がありました。こちらから多くのことを与えることで何か大きな弊害があるのではないかと。そんな感覚の中で生きていたので「自分らしく生きる」というのができていなかった気がします。素の部分を出せると場面も少しだけでしたがあったのは事実です。しかし、それ以外の場面では「無難に生きる」というのが大きかった気がします。やれることはやっていたと思います。しかし、自分の中で何か足りないものがありました。うまく表現できませんが。
 
この数年間で自分の中にフラストレーションが蓄積する場面が多くありました。本当に伝えたいことを伝えられない。今年、担任をするにあたって「不易と流行」に関しては絶対に伝え続けようと思っていました。これだけマスコミが教員のバッシングをします。発言の一部分を切り取ってそこを叩く。保護者も同様かもしれません。
 
時代が経過しても変わらない事がある。マスコミが云々言っても結局は「本当の意味で生徒のことを考えているのか」です。マスコミは叩きやすいところを見つけて叩きます。それが誰のためになるのかではない。世論が興味を持ってバッシングをしやすいという部分が大きいのではないかなと思います。
 
これまで色々な本を読んできました。これは過去のblogにずっと書いていました。経営者の考え方に共通する部分を読み解く。更には論語や菜根譚のように2500年以上前から語り継がれている内容。吉田松陰のように地元から排出された日本の歴史を変えてきた人物の考え方。多くの価値観に触れることで自分自身を少しずつ作ってきました。
 
そんな中で大阪のymm先生からある物を頂きました。昨年末大阪に行く機会があったので是非食事をしながら話を伺いたいと思っていたのですがタイミングが合わず。その直後にymm先生から「活読」を頂きました。そこにはここ数年間私が思い悩んでいた事の解決の糸口が示してありました。やはり私自身が信念を持って生徒と向き合っていく必要がある。選手に対してはかなりその部分ができていたと思いますが、生徒に対してはそこまで伝えていなかった。
 
やはり「不易」の部分を伝えていかなければいけない。時代とともに変わっていくものだけではなく物事の本質を捉えた考え方を伝えていく事が教育として必須なのではないか。迷っていた部分がスーッと晴れた感じがありました。悩みもがいていただけではない。この数年間で人生の中で「会うべくして会えた人」が何人もいるのです。普通であれば出会うことのなかったかもしれない人。それが奇跡的に会えた。それは運命なのだと思います。私の生き方を変えてくれるくらいの大きな出会い。
 
活読まではできないかもしれない。それでも「伝えてもいいんだ」という後押しがありました。今回、LHRの時間に「正しい努力」と題された内容を生徒に渡しました。
「切するが如く磋するが如く琢するが如く磨するが如く」という内容を論語の中で孔子が引用している。その言葉を使った文章があったので生徒に印刷して渡しました。元々は詩経に示されたもの。それを孔子が弟子の子貢と話をする中で使っています。この言葉が実は「切磋琢磨」の語源となっているのです。
 
スマホなどは「流行」です。ポケットベルやPHS、携帯電話からの流れの中でスマホが生まれてきた。これが10年後も同様にスマホが存在している保証はない。その時その時の流行です。たまごっちなどもその典型。一時的にブームとなってもそれがずっと続くわけではない。流行り廃りがあるのです。しかし、論語などの古典は今でも様々な部分に使われます。2500年以上も前から使われている。流行りではなく「不易」です。時の移ろいに関係なくずっとずっと使われる。
 
ここに「物事の本質」がある。それはどこかで誰かが生徒に伝えていかなければいけない。無駄に熱苦しいと思われるかもしれませんが、本当に生徒と向き合うのであれば外せない部分だと思っています。これは今まで陸上競技の指導の中で感じてきたから伝えられる部分です。表面的な話ではなく本当に必死にやっているから見えてきたこと。このことは経験しなければ分からないと思います。
 
生徒と友達になる気はありません。そういう軽薄な繋がりを求める気はない。過剰に関わる気もない。しかし、何が大切なのか。どこに物事の本質があるのか。これまでの考え方から抜け出して「人生に必要な考え方」を身につけていく必要がある。それはその場にいたら身につくものではない。何かしらのきっかけを与えていってそれをどう利用するのか。それが私にできることではないか。
 
教科指導もします。事務仕事もします。当然です。が、「生きるための力」や「正しい方向に進む判断力」は簡単には身につかないと思います。そうであれば単純に私の言葉で話すだけではなく「不易」であるモノを引用しながら伝えていくほうが効果はあると思います。教育とは本来ならそういうものではないか。全てを与える気はありません。自分たちで考えていかなければいけない事がある。しかし、その時の「判断力」をどうするかは考えなければいけない。どういう判断をするのかで人生は変わってきます。
 
そう考えて保護者と生徒の前で宣言をしました。本気で向き合いたいと思います。以前から私にとって「選手」とクラスの生徒は特別だと言葉にしてきました。担任を離れた時期があったからこそそのことを強く感じます。自己研鑽もしなければいけない。留まっているわけにはいかない。やるべきことは数え切れないくらいあります。
 
譲れないものを私自身持ちたいと思います。教育とは何か。進学する、就職する、検定に合格するというものではない。「本当に大切なもの」を伝え続ける事が必要だと思います。それがなければ生徒の心は動かない。ymm先生の取り組みは私の中で大きな刺激でした。今回から配布した資料に「感じたこと」を書かせるようにしました。振り返りをする事で本人の「心の整理」ができます。与えるだけではなくきちんとフィードバックさせなければいけない。
 
これまでと色々と考え方を変えたいと思います。これまで支えてくださった方に誇れるように。恥じないように。そう強く思います。
 
まとまりませんが。書いておきます。
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何を目指すのか

2019-04-09 | 陸上競技
月曜日。新学期が始まりました。今年度は1年生の担任。今の仕事をしてきて18年でしょうか。その間3回だけ担任ができませんでした。常に担任希望でやっています。人それぞれの感覚だと思いますが。可能な限り担任はやりたいと思っています。
 
今の仕事、人と関わる部分が多い。が、担任をしなければ授業だけの関わりになります。限られた時間の中で何かを伝えるというのは難しい。それは昨年度痛いほど感じました。単純に教科指導だけをして終わる。それもありなのかもしれません。今のご時世、指導をすればリスクが伴う。淡々と教科指導をしていたらそれで終わりというのが楽なのかもしれない。
 
しかし、本当にそれで良いのか。「教育」という本質的な部分に対して「知識を伝える」というだけでは塾と同じになる。検定合格、大学合格のために「コツ」を覚えさせたり、パターン学習をする。「合格する」という部分だけを捉えればそれでも意味があると思います。それが本当に生きる力き繋がるのかどうかは全くの別問題ですが。
 
教員になる。その時の想いはどうだったのか。単純に陸上競技ができる環境を持ち続けたいという部分だけではない。「陸上競技をやるために教員になったんやろ?」と言われる。ここは違う。「一生懸命になること」や「目標に向かって進んでいく」という部分の大切さを感じてもらいたい。そこが原点。そのためのツールが「陸上競技」であって他の方法でも構わないと思っている。
 
本気で向き合う。人それぞれやり方や考え方がある。私の考え方が正しいとは思わない。一律にルールを守らせる事を教える気はない。が、きちんとやっている生徒が正当な評価を受けることは必須だと思っている。 なんとなくやってなんとなく終わる。そんな生活をしてもらいたくはない。
 
入学式を迎える。この時に卒業式の事を考えさせる。何をバカなことを言っているのか?と思われるかもしれない。座って授業を聞いていたらなんとなく卒業式を迎えることになる。大切なのは高校で時間を過ごすことではない。何を感じて何を学ぶかだと思っている。時間が過ぎたら大人になるわけではない。その中身の問題。
 
冷めて淡々とやる事が今は求められるのかもしれない。その方がトラブルにならないから。何かあっても見て見ぬ振りをしてスルーしておけばその場はやり過ごせる。しかし、その後の責任は誰が取るのか。ダメなものをダメだと伝えていく事が出来なければいつまで経っても何も変わらない。そんな生き方はしたくない。
 
教育。これは生徒たちの将来に対しての責任を背負うことになる。生徒に好かれるために何かをするというのは違う。人に好かれるために今の仕事をするなら私はやらない。もちろん、嫌われるためにやるつもりはないが。気負うつもりはない。それでもやるべき事をやるという感覚を持ち続けなければいけないと思っている。
 
枝葉の話をするつもりはない。方法論は何だって良い。一生懸命に何かをやった事がない人間には「一生懸命になる事の大切さ」は分からない。冷めて俯瞰して見ている人間にはなって欲しくない。「そんなに熱くならなくても」と言われるかもしれない。本質的な事を考えていく中で波風を立てずに進んでいくことはできない。
 
古臭いかもしれないが新しい取り組みをしたい。過保護にする気はサラサラない。間違っている事を間違っているときちんと伝えられるかどうか。この数年間、ある意味自分らしさを失っていた気がする。何かあればすぐに突き上げられる。それはかなりのストレスになる事なので避けていた部分がある。もう一度、きちんと向き合いたい。それができるかどうか。
 
もう少し書きたい事があります。多分また書きます。
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