これは、関東のほうから問い合わせてくださった方との会話の一部です。
彼曰くは、両親の看病、家庭内の不和、子供の問題、等々を抱え、また、自分も腰や首が痛くてつらいのだ、と。それであちこちの施術家のところを回ったが、良くならない。あげくには、「治らないのはあんたのせいだ」「あんたなんか、治るはずがない」「治らないあんたの方がおかしいんだ」「もう、良くなったでしょ。いえ、良くなってるんです。わからないんですか。ほら、良くなったでしょっ」と最後には突き放されること多数、、、。
それで、かいつう館に来て良くなるものなら泊まり込みで行きます、と仰るわけ。それももったいない話だし、と思って、また、例の遠隔のおあにいさんを紹介しました。で、僕のほうはあなたのお話を電話やメールでお聞きしましょう、と(これは、また、後日にでてきますので、覚えといてね)
その後、元気になってきた彼と話をしていると。もともとは、両親を助けたくて施術家を志し始めたんだ、と言う話になって。いろんなエネルギー系施術をしてくれる人のところをまわったが、誰も自分を治せない。「(誰をも治せる)万能の療法ってないんでしょうか」と聞くわけです。
僕はずいぶんとそれを捜し求めてきました。「もっとパワーが欲しい、どこかにそれはないのか」と。真剣に求めてきたんです。探しに探し、求めに求めてきました。でも、彼にこう言いました。
「ありません」と。
それは絶望の言葉ではなく、ある意味福音として。もし、あるなら、例えばイエス・キリストが問答無用で一瞬で、全世界の人間を癒し切っていたと思う。いえ、キリストの能力のことを言うのではなく。それが人を幸福にしないから、しなかったんだと思うんですよね。
僕がなんでも叶えられる能力者として。あなたが痛くなる、ほい、と僕が治す。また痛くなる、また、ちょちょい、と治す。いっそ病気をしない体にしてくれ、という。はいよ、と一瞬でそういう体にしてあげる、、、。もっと言えば、〇点でも東大に入学できるようにしてくれ、と言う。はいはい、と。あの娘と結婚したい、と願う。はいな、と。どこどこに入社させてくれ、年収一千万に、来年は部長に、と。はーい、お安いご用で、と。
本当にあなたは幸せになれるだろうか。
彼は、遠隔のおあにいさんに出会えて(と言っても声だけだが)また僕に出会えて(声とメールだけだが)、本当に良かった、と言う。ならば、詭弁かもしれないが、僕や遠隔さんに出会えて良かったでしょ?今まで、治らなくて。治ってたら僕達には会えてないんですよ?と。「『それ』に意味がないと、誰が言える?」
それは、ちょっとこじつけだけれども。
結局、どこの気功や能力者の施術を受けても治らなかった、というあなたは、裏を返せば、そういう能力者に拮抗しうるパワーを持ってる、ってことでしょ?もし、「あなたのパワーが単純に弱ければ、あなたは治されちゃってたはずでしょ?」であれば、そのパワーを人を癒すほうに向けたらきっとすごい人になりますよ。そのパワーを自分に向けたら、きっと症状は消えていきますよ。遠隔のおあにいさんも言ってたでしょ?僕はなにもしてません、あなたが勝手に治ってるだけです、と。「他人が他人を治せる万能療法は、あってもきっと人を幸せにしないと思いますよ。」なぜなら、、、。「意味を奪う事になるからですよ」
長くなりますので、この話は次回に続きます。たぶん、三回くらいの話になりそうです。
タイトルは変わりますが、同一テーマですのでお間違えの無きように。次回は霊障編です。
彼曰くは、両親の看病、家庭内の不和、子供の問題、等々を抱え、また、自分も腰や首が痛くてつらいのだ、と。それであちこちの施術家のところを回ったが、良くならない。あげくには、「治らないのはあんたのせいだ」「あんたなんか、治るはずがない」「治らないあんたの方がおかしいんだ」「もう、良くなったでしょ。いえ、良くなってるんです。わからないんですか。ほら、良くなったでしょっ」と最後には突き放されること多数、、、。
それで、かいつう館に来て良くなるものなら泊まり込みで行きます、と仰るわけ。それももったいない話だし、と思って、また、例の遠隔のおあにいさんを紹介しました。で、僕のほうはあなたのお話を電話やメールでお聞きしましょう、と(これは、また、後日にでてきますので、覚えといてね)
その後、元気になってきた彼と話をしていると。もともとは、両親を助けたくて施術家を志し始めたんだ、と言う話になって。いろんなエネルギー系施術をしてくれる人のところをまわったが、誰も自分を治せない。「(誰をも治せる)万能の療法ってないんでしょうか」と聞くわけです。
僕はずいぶんとそれを捜し求めてきました。「もっとパワーが欲しい、どこかにそれはないのか」と。真剣に求めてきたんです。探しに探し、求めに求めてきました。でも、彼にこう言いました。
「ありません」と。
それは絶望の言葉ではなく、ある意味福音として。もし、あるなら、例えばイエス・キリストが問答無用で一瞬で、全世界の人間を癒し切っていたと思う。いえ、キリストの能力のことを言うのではなく。それが人を幸福にしないから、しなかったんだと思うんですよね。
僕がなんでも叶えられる能力者として。あなたが痛くなる、ほい、と僕が治す。また痛くなる、また、ちょちょい、と治す。いっそ病気をしない体にしてくれ、という。はいよ、と一瞬でそういう体にしてあげる、、、。もっと言えば、〇点でも東大に入学できるようにしてくれ、と言う。はいはい、と。あの娘と結婚したい、と願う。はいな、と。どこどこに入社させてくれ、年収一千万に、来年は部長に、と。はーい、お安いご用で、と。
本当にあなたは幸せになれるだろうか。
彼は、遠隔のおあにいさんに出会えて(と言っても声だけだが)また僕に出会えて(声とメールだけだが)、本当に良かった、と言う。ならば、詭弁かもしれないが、僕や遠隔さんに出会えて良かったでしょ?今まで、治らなくて。治ってたら僕達には会えてないんですよ?と。「『それ』に意味がないと、誰が言える?」
それは、ちょっとこじつけだけれども。
結局、どこの気功や能力者の施術を受けても治らなかった、というあなたは、裏を返せば、そういう能力者に拮抗しうるパワーを持ってる、ってことでしょ?もし、「あなたのパワーが単純に弱ければ、あなたは治されちゃってたはずでしょ?」であれば、そのパワーを人を癒すほうに向けたらきっとすごい人になりますよ。そのパワーを自分に向けたら、きっと症状は消えていきますよ。遠隔のおあにいさんも言ってたでしょ?僕はなにもしてません、あなたが勝手に治ってるだけです、と。「他人が他人を治せる万能療法は、あってもきっと人を幸せにしないと思いますよ。」なぜなら、、、。「意味を奪う事になるからですよ」
長くなりますので、この話は次回に続きます。たぶん、三回くらいの話になりそうです。
タイトルは変わりますが、同一テーマですのでお間違えの無きように。次回は霊障編です。
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