左の肩痛と、腰の痛みで、伊丹からお仕事帰りによってくださったお客さん。
施術が終わったあと、「今度、顔の歪みとか足を組むクセ(歪み)をみてもらえますか?」とおっしゃいました。
施術前には左脚で組むクセがあるんです、と伝えてもらってたんです。が、僕がそれについて特になにもしなかったのでの、お言葉だったのかも知れません。
なので、「今、足を組んでみて?」とゆってみました。
そうしたら、
「あれ?どっちで組んでたっけ?」
(笑)
そうなんですよ、こういうことがあるんです。
整ってきたら、足を組みたいとも思わなくなる。組んでもなぜか落ち着かない。収まりが悪い。
その「違和感」が「あれ?どっちで組んでたのかな?」となったんだと思います。
足を組むというクセも「それが辛かったら」誰もしないんです。
左で組むと体が辛いけど、とりあえず組んでおくか・・・
そんな人はいないと思うんです。わかりますよね^^
ということは、無意識に組んでそれを違和感だと思わない状態に体がなっているはずです。
そんなことが起こるのは、足を組んだほうが「楽だ」というときだと僕は思います。
また、
足を組まないほうが違和感が大きいというときだと思います。
しんどいところから、楽なほうへと無意識は体をむかわせるだろうと思うからです。
もし、体から、足を組んだほうが楽だ、という要素がなくなったら?
今度は、「足を組むことを忘れていることができる」んじゃないでしょうか?
足を組むほうが違和感が大きければ、足を組もうと思わないんじゃないでしょうか?
体に悪をみない、そこには理由があるんじゃないか。体にとってベストじゃないけどベターだと選択した、なにかがあるんじゃないか。
そういう思いから、足を組むことだって、「今の」体にとっては理由があると僕はみなしています。
足を組む、それはゆがんでいるから。歪みを取りましょう。
としなくても、特別になにもしてなくても、整ってきたら、「足を組む理由」がなくなってしまう、だから組もうとしなくなる。
それで、いいんじゃないのかしらん。
足を組む、骨盤が歪んでますよ、それ骨盤矯正だ、もありだとは思いますが。
そこには、きっと足を組みたいという体の欲求が残っているんじゃないか。
それを解消せずに骨盤だけ、揃えていいものか。
そんなことを思ってみたりするんです。
今日もありがとう。
施術が終わったあと、「今度、顔の歪みとか足を組むクセ(歪み)をみてもらえますか?」とおっしゃいました。
施術前には左脚で組むクセがあるんです、と伝えてもらってたんです。が、僕がそれについて特になにもしなかったのでの、お言葉だったのかも知れません。
なので、「今、足を組んでみて?」とゆってみました。
そうしたら、
「あれ?どっちで組んでたっけ?」
(笑)
そうなんですよ、こういうことがあるんです。
整ってきたら、足を組みたいとも思わなくなる。組んでもなぜか落ち着かない。収まりが悪い。
その「違和感」が「あれ?どっちで組んでたのかな?」となったんだと思います。
足を組むというクセも「それが辛かったら」誰もしないんです。
左で組むと体が辛いけど、とりあえず組んでおくか・・・
そんな人はいないと思うんです。わかりますよね^^
ということは、無意識に組んでそれを違和感だと思わない状態に体がなっているはずです。
そんなことが起こるのは、足を組んだほうが「楽だ」というときだと僕は思います。
また、
足を組まないほうが違和感が大きいというときだと思います。
しんどいところから、楽なほうへと無意識は体をむかわせるだろうと思うからです。
もし、体から、足を組んだほうが楽だ、という要素がなくなったら?
今度は、「足を組むことを忘れていることができる」んじゃないでしょうか?
足を組むほうが違和感が大きければ、足を組もうと思わないんじゃないでしょうか?
体に悪をみない、そこには理由があるんじゃないか。体にとってベストじゃないけどベターだと選択した、なにかがあるんじゃないか。
そういう思いから、足を組むことだって、「今の」体にとっては理由があると僕はみなしています。
足を組む、それはゆがんでいるから。歪みを取りましょう。
としなくても、特別になにもしてなくても、整ってきたら、「足を組む理由」がなくなってしまう、だから組もうとしなくなる。
それで、いいんじゃないのかしらん。
足を組む、骨盤が歪んでますよ、それ骨盤矯正だ、もありだとは思いますが。
そこには、きっと足を組みたいという体の欲求が残っているんじゃないか。
それを解消せずに骨盤だけ、揃えていいものか。
そんなことを思ってみたりするんです。
今日もありがとう。