ここ数ヶ月、首が痛い、肩が痛い、という方が来てくださいまして。
その方は一年くらいまえに当時中学生の息子さんをうちに紹介してくださった人でした。
息子さんを施術させてもらったとき、一回ですごくよくなったらしく。
翌日も予約してあったので保険の利く治療院に行かれたそうですけど、そこの先生が「すごく回複してよくなってる」ことに驚いてくれたそうですよ。よかったですね。
で、来て下さったお母さんに、数ヶ月前のこと、をなんとか思い出してもらって、キッカケらしきものを思い出していただきました。
どうもとある体操をムリしてやりすぎたことかも知れない、ということでした。
聞いていて、それだろうなあ、と僕も思ってしまいました(苦笑)。
それがここまで長引いている理由も自分なりに思ってることを説明させていただきましたよ。
けっこうノリノリで聞いてくださるので僕もかなり長い時間をしゃべりすぎてしまいました(笑)。
なぜ、痛いままでそれをすると長引くのか、とか。
どういうときに痛くなるのか、とか。
医学的にそれが合ってるということはないんだろうけど、すごくツジツマがあう説明だと思っています。といってもたいがいお客さんは笑われますけど。
正直、適当なことしゃべってるんちゃうん、という面も否定はしないのですが(苦笑)。
自然と人間とを照らし合わせてみたときに、自然と人間とを分けて考える方法と、自然と人間を同じ位置で考える方法と、あると思うんです。
自然界のルールは人間には適応できない、とみなすか、人間は自然界の一部なんだから適応できる、とみなすか。
他にも、人体をパーツの集合体と考えるか、人体はひとつのシステムだと考えるか。
もしパーツの集合体であるならば、パーツごとに痛みの治し方が違っててもおかしくはないでしょう。
「五十肩のときは、痛くても動かせ」というルールが適応可能としたときに、「野球選手で肘痛の人は、痛くても動かせ」も適応できそうですし、「膝が痛くて正座できない?しゃがむ練習しないともっと正座ができなくなるから、がんばって正座しろ」という指導も成立できそうです。でも、五十肩以外でそういう指導をあまり耳にしない。
これは、場所ごとに反対の指導が成立する、という前提がなければありえないことだと思います。パーツごとに違う治療法がある、という面ですね。
でも、肩も肘も膝もひとつの人体のシステムにのっとっていると考えるなら、治し方なども同じシステム内に収まるんじゃないか、という見方もありうると思うんですね。
正座できない人に、正座を強制する指導が成り立たないなら、それが肩であれどこであれ、痛いときに動かせ、という指導はないんじゃないか。という見方もしてみるといいんじゃないか。
また、自然界の話でいうと、痛いときに、痛いことをする動物があまり見当たらない以上、人間もまた痛いときに痛いことをするいわれはないんじゃないか、とも。
ただ、痛いときに痛いことをすると良くなる、という発想は自然界にはなくても人間らしい、とは思いますが(笑)。
そういう意味でいうと、人間と自然をわけて考えるクセがそこまで到達しちゃってるのかなあ、と感じたりもします。
まあ、なるべくなら体には優しい方向で考えていけば、そんなにこじれてきたりはしないと思いますよ。
迷ったら、体に優しく。迷ったら楽でいる。痛みに関してはそうしておけば、あとが早いんじゃないかな。
今日もありがとう。
その方は一年くらいまえに当時中学生の息子さんをうちに紹介してくださった人でした。
息子さんを施術させてもらったとき、一回ですごくよくなったらしく。
翌日も予約してあったので保険の利く治療院に行かれたそうですけど、そこの先生が「すごく回複してよくなってる」ことに驚いてくれたそうですよ。よかったですね。
で、来て下さったお母さんに、数ヶ月前のこと、をなんとか思い出してもらって、キッカケらしきものを思い出していただきました。
どうもとある体操をムリしてやりすぎたことかも知れない、ということでした。
聞いていて、それだろうなあ、と僕も思ってしまいました(苦笑)。
それがここまで長引いている理由も自分なりに思ってることを説明させていただきましたよ。
けっこうノリノリで聞いてくださるので僕もかなり長い時間をしゃべりすぎてしまいました(笑)。
なぜ、痛いままでそれをすると長引くのか、とか。
どういうときに痛くなるのか、とか。
医学的にそれが合ってるということはないんだろうけど、すごくツジツマがあう説明だと思っています。といってもたいがいお客さんは笑われますけど。
正直、適当なことしゃべってるんちゃうん、という面も否定はしないのですが(苦笑)。
自然と人間とを照らし合わせてみたときに、自然と人間とを分けて考える方法と、自然と人間を同じ位置で考える方法と、あると思うんです。
自然界のルールは人間には適応できない、とみなすか、人間は自然界の一部なんだから適応できる、とみなすか。
他にも、人体をパーツの集合体と考えるか、人体はひとつのシステムだと考えるか。
もしパーツの集合体であるならば、パーツごとに痛みの治し方が違っててもおかしくはないでしょう。
「五十肩のときは、痛くても動かせ」というルールが適応可能としたときに、「野球選手で肘痛の人は、痛くても動かせ」も適応できそうですし、「膝が痛くて正座できない?しゃがむ練習しないともっと正座ができなくなるから、がんばって正座しろ」という指導も成立できそうです。でも、五十肩以外でそういう指導をあまり耳にしない。
これは、場所ごとに反対の指導が成立する、という前提がなければありえないことだと思います。パーツごとに違う治療法がある、という面ですね。
でも、肩も肘も膝もひとつの人体のシステムにのっとっていると考えるなら、治し方なども同じシステム内に収まるんじゃないか、という見方もありうると思うんですね。
正座できない人に、正座を強制する指導が成り立たないなら、それが肩であれどこであれ、痛いときに動かせ、という指導はないんじゃないか。という見方もしてみるといいんじゃないか。
また、自然界の話でいうと、痛いときに、痛いことをする動物があまり見当たらない以上、人間もまた痛いときに痛いことをするいわれはないんじゃないか、とも。
ただ、痛いときに痛いことをすると良くなる、という発想は自然界にはなくても人間らしい、とは思いますが(笑)。
そういう意味でいうと、人間と自然をわけて考えるクセがそこまで到達しちゃってるのかなあ、と感じたりもします。
まあ、なるべくなら体には優しい方向で考えていけば、そんなにこじれてきたりはしないと思いますよ。
迷ったら、体に優しく。迷ったら楽でいる。痛みに関してはそうしておけば、あとが早いんじゃないかな。
今日もありがとう。