尼崎の整体院です|「かいつう館の日々是整体」 腰痛など慢性の痛みは当院にお任せください^^

尼崎・武庫之荘の整体院です。腰痛・股関節・膝痛、首痛や頭痛など大得意。回数券を必要としない、通えない方のための整体です

梨状筋症候群かも

2012-12-22 07:00:00 | 健康 整体
梨状筋症候群かも、とおっしゃる方が来てくださいました。
もともとはヘルニアが写っていて「それだ」という話だったらしいのですが、どうもそれにしては状態が食い違うなどがあって、そっちじゃないかと疑う、ということが先生方からもご自身の調べからも出てきたらしいんです。

その前に、ふくらはぎが痺れているときに、フットマッサージを受けたらシビレが止まってしまったことがあったそうです。「腰にヘルニア」があって、それで痺れてるなら、足を揉んでシビレが止まるはずがない。
そう思われたそうです。僕も、その場合は同じように思うでしょうね。現実がそういってるわけですからね。


で、梨状筋症候群としても、僕は同じようにやっていきます。
なにをしたらその症状が強くなるか、です。

これは腰痛であろうと股関節痛であろうと背中痛であろうと、僕は同じように考えます。
病名はとても大事ですが、どうしても「場所」が病名につきやすく、ものごとの本質を見落としがちになるきらいがあるからです。

顎関節症、変形性膝関節症、胸郭出口症候群、頚椎症・・・と見てしまえば、どうしても「そこ」を見たくなります。
だけど、だいたいの人は、「なになにをしたら、どこそこが痛い」ということが多いんですね。
裏を返せば「なになにをしなかったら、どこそこは痛くない」ということなのです。
つまり、「場所」と「痛み」がリンクしているとは限らず、「~したら」と「痛み」がリンクしてることがあるわけなのです。

じゃあ。と考えると「なになにしても痛くないように」したらいいわけで。
なになにをする、とはどういう状態を示しているのか、を見ていけば、答えが見えてくるときがあります。
アゴが痛い、ではなく、口をあけたら痛い、であれば、口をあけるとは、どこがどうなることを言うのか。とか。

実際に、この方のお尻も揉んでみましたけど気持ちよいことがあっても飛び上がるほと痛がらないんですね。
普段、それだけ痛いのに、そこを揉まれても痛くないのは、、、おかしい。では、そこに痛みの巣はないんじゃないか、と。
普通に考えたら、そういう見方もありなはずです。

ものごとは、なるべくシンプルに。
僕は、そう思ってるんです。


今日もありがとう。
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真夜中のスピリチュアル整体小噺

2012-12-22 00:00:00 | 健康 整体
20日は、恒例の?恒例だったのか!?食事会がありました。そういえば、今回初参加の方が少しだけ遅れてこられたんですけど、
「初回から遅れてすみません」っと謝って入ってこられました。
「つ、次もあるんや!?」と笑ってしまいました。はい、きっと次もそのまた次もあります。
メンバーの重鎮ともいうべき方に「これ、なんの集まりですか?て他の参加者さんから聞かれてるんですけど」って質問したら、一言。
「食事会」

た、確かに(爆)。
そこになにかをくっつけようとすることがもう拘りですもんね。

「この一年、生きてこれたことに乾杯」して、あとはざっくばらんなおしゃべりを楽しみました。
二時間でお店を予約していたんですが、終わったら4時間も居ついてしまっていました。お店の方のご好意にも感謝ですう。
またそれだけの関係をつくっておられる会場手配に走り回ってくださったK先生にもお礼を申し上げたいと思います。

そのK先生から、「(今日の)ブログを楽しみにしていますよ」って言われたのですが・・・
か、書けるかーーーいっです(爆)。

UFOが降りてきて、見上げたら月がふたつあって、キリストさんの話がでてきて未来は決まっていて600万がそこにあって前世のことがあって離婚の話にうるっときて石ころが光る。人柱の彼女は、竜が二匹いるお友達に癒され幼稚園の共通項があの人とあの人にあってすべてには意味があり、それゆえに良いことしかおこってないのだ。「良かったですね。おめでとう。がははははは」って。

どう書けと(爆)。絶対にまとまらないから、それ。
きっと、おのおののなかで、自分にもっとも良い形でまとめられていくものなんじゃないかな。と今は思ってみたり。



そのあと、紅一点ならぬ「好青年」に自宅まで送ってもらいました。
彼が誰かを送って帰らなかったときはあるんだろうか?というくらい、「喜んでお世話をしてくれる」人です。
そのなかで、いろいろとおしゃべりをまたしていて。

ちなみに、彼も僕も、そういった系の能力がない人種なんです(なんで参加してるねーんって話もありますが。笑)。
車中で「人生の転機にこういう人たちに出会ったときは、もしかしたら僕もこれからバーッと(そっち方面も)開いてくるのかなと思ったんだけど、そんなこともなく(笑)。今はどうでもよくなってきました」といったようなことを言ってくれたんですね。

で、同じ人種の僕としてもそこは思うんです。
極端な例を出します。
僕に、不成仏霊が憑いてるとします。
憑かれて以来、仕事は傾き、病気をし、子どもは熱を出し、嫁さんは家を出て・・・となってきたとします。
でも、「わからない」んだから、「そのせい」だとは気づけません。

なので「これで済んでるのはご先祖さまが守ってくれてるんだな、ありがたいな」と思い、「まだ生かされてるもんな、誰かが守ってくれてるんだな。ありがたいありがたい」と感謝し続けたら、僕は、その不成仏霊は、どうなるんだろう?

そっちの世界の存在が見えない聞こえない感じ取れない。
だからこそ、「信じる」ことができます。
見えないからこそ、「選んで信じる」ことができる、というか。

ワルイもの、汚れたもの、が憑いてるんであってもこっちは見えないんだから、「わからない」。わからないから「もしかして、これで済んでるのは僕の守護霊さんがとてつもなく高次元の霊なのでは」と思って感謝しちゃうと、なにが起こるんだろう(笑)。

でも、視えちゃったら「それは、成仏できてない何代前の霊だよ。これこれして、成仏させてあげないと」ってなって起こってきたことに感謝できなくなっちゃう可能性もあります。
知ってしまうと「ああ、悪霊さん、ありがとう」って言いにくい(苦笑)。でも、視えなけりゃ僕が書いたような「誤解」ができる(爆)。


視えてないから信じれちゃう。視えたら判断しちゃう。

その会でも言ったんですけど、スピリチュアルな「能力」があることと、スピリチュアルに生きることとは違う。
能力のすごさではなくて、生き方の素晴らしさが大事なのかもね、と彼をみていて思いました。
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