「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」
「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」
「今日は、広島城の本丸上段にある、広島大本営跡じゃ」
「画面奥には、天守閣の屋根が見えるよ」
「今日は、広島大本営跡についての話でがんす」
広島大本営跡
明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。
(案内板より)
「そもそも、大本営ってなんじゃろ?」
「大本営は、戦前の日本において、天皇のもとで戦争を指導した最高統帥機関。つまり、軍部の最高決定機関じゃの。この大本営が、日清戦争のときは、1894(明治27)年6月5日に設置された」
「6月? 案内板には、8月に戦端が開かれた(=戦争が始まった)って書いてあったけど?」
「日清戦争について、少し説明しとくと…。この年の2月、朝鮮で東学の乱が起こった。これを抑えることができなかった朝鮮王朝は、宗主国の清(しん。今の中国)に兵を出してくれるように頼み、これを受けて日本も朝鮮へ兵を出すことにした」
「なんで日本が兵を出すん?」
「1885年、日本と清との間で結ばれた天津条約というのがある。その条約の中に、どちらかの国が朝鮮に兵を出すときは、相手の国に連絡をするという一文があったんじゃの」
「ほぉ」
「日本政府は6月2日、日本人居留民の保護を目的に朝鮮へ兵を送ることを決め、5日に大本営を設置した。戦闘は7月ころから始まっていたんが、宣戦布告が行われたのは、8月1日じゃったというわけ」
「8月に戦端が開かれたってのは、そういう意味か。で、そのころの広島には、山陽鉄道が開通して、宇品港(うじなこう。今の広島港)もできとったと」
「宇品港は、5年前の1889(明治22)年に竣工して、山陽鉄道の糸崎-広島間は、1894年の6月に開通した」
「ほぉ、広島駅(当時は広島停車場)は、今から130年にできたんじゃね」
「鉄道を使えば、本州の北端の青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃの」
「9月、その大本営が広島に移された」
「大本営が設置された東京は戦地から遠いので、情報が伝わるのに時間がかかる。そこで、できるだけ戦地に近い広島に移されることになった」
「なるほど」
「で、9月13日に大本営が広島に移され、2日後の15日、明治天皇も広島に入られたんじゃの」
「明治天皇も、鉄道を使われた?」
「9月13日の午前7時に新橋停車場を出発、名古屋・神戸にそれぞれ1泊したあと、15日の午後5時に広島停車場に到着されたそうじゃ」
「おぉ、東京から広島まで、2泊3日の旅じゃったんじゃね。広島の大本営は、明治天皇が来られることが決まってから、仮設で作られたもの?」
「広島城には旧陸軍の第五師団があって、1877(明治10)年に木造洋館2階建ての建物が建てられた。日清戦争のころは司令部として使われていたものを、大本営として使ったんじゃの」
「ほいじゃったら、追い出された第五師団の司令部は?」
「大本営として使われた建物は、1896(明治29)年に永久保存されることが決まった。そこで、この年の6月、司令部の建物が本丸下段に作られたそうじゃ」
「大本営が永久保存されたということは、広島へ原子爆弾が投下されるまであった?」
「1945(昭和20)年8月6日、広島への原子爆弾投下の際は、その爆風によって建物が倒壊したそうじゃ。ちなみに、爆心地からの距離は、約900メートル」
正面:
聖蹟 明治二十七八年戦役廣島大本営
左側:
昭和十年三月建設 文部省
「「聖蹟(せいせき)」「文部省」の文字は、セメントかなんかで埋めて、読めんようにしてあるけど?」
「戦前、明治天皇の行幸先やゆかりの施設などは、聖蹟として文部省から指定された。聖蹟に指定された大本営跡は、広島城とともに観光名所になったそうじゃ」
「ということは、戦後になって反発を受けてから、文字を埋めちゃったんかね?」
「戦後の1948(昭和23年)、連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けた文部省が、聖蹟の指定を解除したことから、文字を埋めちゃったんじゃろうの」
「以下、余談」
「確認のために聞いてみるんじゃけど、明治二十七八年戦役って、日清戦争のことよね?」
「ほうじゃの。そのころの日本では、明治二十七八年戦役と呼んどったようじゃ」
「日本ではということは、中国ではなんて呼んどっちゃったん?」
「甲午(こうご)中日戦争と呼んでいたそうじゃ」
「甲午?」
「甲午は干支(えと)のひとつで、「きのえうま」とも呼ぶんじゃの」
「あぁ、干支の名前を戦争の名前につけとってんじゃね」
「60年でひとまわりする干支の、その最初が甲子(こうし、きのえね)。甲子から、60年の半分の30年後に回ってくるのが甲午。甲午の年の1894(明治27)年から30年後、1924(大正13)年に、兵庫県西宮市に作られた野球場といえば?」
「甲子園球場!」
「正解じゃ」
「あぁ、甲子園という名前は、干支の名前からつけとってんじゃね」
「日清戦争のことを甲午中日戦争と呼んだように、この戦争のきっかけとなった東学の乱も、甲午農民戦争と呼ばれるそうじゃ」
「以下、さらに余談」
安彦良和『王道の狗 第6巻』講談社、2000年、133ページ
「これは、広島城の本丸下段、今の広島護国神社あたりから、広島城の天守閣方向を撮影した写真を模写したもの」
「確かに、左手奥に天守閣が見えるね。で、手前にある建物のうちの、どれが大本営なんじゃろ?」
「右手にある2階建ての建物が、大本営、もと第五師団司令部。中央が、野戦監督長官部及び同衛生長官部事務所。左が事務所で、これはのちに昭憲皇太后御座所(しょうけんこうたいごうござしょ)として使われるんじゃの」
「昭憲皇太后?」
「昭憲皇太后は、明治天皇の皇后」
「その御座所ってことは、皇后も天皇と一緒に広島に来られたん?」
「日清戦争も終わりのころ、1895(明治28)年の3月19日から4月27日まで、広島に来られたそうじゃ」
↓広島城については、こちら↓
広島城
【参考文献】
財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、20ページ
財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、24ページ
竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、112ページ
訪問日:2024年7月6日
「今日は、広島大本営跡について話をさせてもろうたでがんす」
「ほいじゃあ、またの」
「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」
「今日は、広島城の本丸上段にある、広島大本営跡じゃ」
「画面奥には、天守閣の屋根が見えるよ」
「今日は、広島大本営跡についての話でがんす」
広島大本営跡
明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。
(案内板より)
「そもそも、大本営ってなんじゃろ?」
「大本営は、戦前の日本において、天皇のもとで戦争を指導した最高統帥機関。つまり、軍部の最高決定機関じゃの。この大本営が、日清戦争のときは、1894(明治27)年6月5日に設置された」
「6月? 案内板には、8月に戦端が開かれた(=戦争が始まった)って書いてあったけど?」
「日清戦争について、少し説明しとくと…。この年の2月、朝鮮で東学の乱が起こった。これを抑えることができなかった朝鮮王朝は、宗主国の清(しん。今の中国)に兵を出してくれるように頼み、これを受けて日本も朝鮮へ兵を出すことにした」
「なんで日本が兵を出すん?」
「1885年、日本と清との間で結ばれた天津条約というのがある。その条約の中に、どちらかの国が朝鮮に兵を出すときは、相手の国に連絡をするという一文があったんじゃの」
「ほぉ」
「日本政府は6月2日、日本人居留民の保護を目的に朝鮮へ兵を送ることを決め、5日に大本営を設置した。戦闘は7月ころから始まっていたんが、宣戦布告が行われたのは、8月1日じゃったというわけ」
「8月に戦端が開かれたってのは、そういう意味か。で、そのころの広島には、山陽鉄道が開通して、宇品港(うじなこう。今の広島港)もできとったと」
「宇品港は、5年前の1889(明治22)年に竣工して、山陽鉄道の糸崎-広島間は、1894年の6月に開通した」
「ほぉ、広島駅(当時は広島停車場)は、今から130年にできたんじゃね」
「鉄道を使えば、本州の北端の青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃの」
「9月、その大本営が広島に移された」
「大本営が設置された東京は戦地から遠いので、情報が伝わるのに時間がかかる。そこで、できるだけ戦地に近い広島に移されることになった」
「なるほど」
「で、9月13日に大本営が広島に移され、2日後の15日、明治天皇も広島に入られたんじゃの」
「明治天皇も、鉄道を使われた?」
「9月13日の午前7時に新橋停車場を出発、名古屋・神戸にそれぞれ1泊したあと、15日の午後5時に広島停車場に到着されたそうじゃ」
「おぉ、東京から広島まで、2泊3日の旅じゃったんじゃね。広島の大本営は、明治天皇が来られることが決まってから、仮設で作られたもの?」
「広島城には旧陸軍の第五師団があって、1877(明治10)年に木造洋館2階建ての建物が建てられた。日清戦争のころは司令部として使われていたものを、大本営として使ったんじゃの」
「ほいじゃったら、追い出された第五師団の司令部は?」
「大本営として使われた建物は、1896(明治29)年に永久保存されることが決まった。そこで、この年の6月、司令部の建物が本丸下段に作られたそうじゃ」
「大本営が永久保存されたということは、広島へ原子爆弾が投下されるまであった?」
「1945(昭和20)年8月6日、広島への原子爆弾投下の際は、その爆風によって建物が倒壊したそうじゃ。ちなみに、爆心地からの距離は、約900メートル」
正面:
聖蹟 明治二十七八年戦役廣島大本営
左側:
昭和十年三月建設 文部省
「「聖蹟(せいせき)」「文部省」の文字は、セメントかなんかで埋めて、読めんようにしてあるけど?」
「戦前、明治天皇の行幸先やゆかりの施設などは、聖蹟として文部省から指定された。聖蹟に指定された大本営跡は、広島城とともに観光名所になったそうじゃ」
「ということは、戦後になって反発を受けてから、文字を埋めちゃったんかね?」
「戦後の1948(昭和23年)、連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けた文部省が、聖蹟の指定を解除したことから、文字を埋めちゃったんじゃろうの」
「以下、余談」
「確認のために聞いてみるんじゃけど、明治二十七八年戦役って、日清戦争のことよね?」
「ほうじゃの。そのころの日本では、明治二十七八年戦役と呼んどったようじゃ」
「日本ではということは、中国ではなんて呼んどっちゃったん?」
「甲午(こうご)中日戦争と呼んでいたそうじゃ」
「甲午?」
「甲午は干支(えと)のひとつで、「きのえうま」とも呼ぶんじゃの」
「あぁ、干支の名前を戦争の名前につけとってんじゃね」
「60年でひとまわりする干支の、その最初が甲子(こうし、きのえね)。甲子から、60年の半分の30年後に回ってくるのが甲午。甲午の年の1894(明治27)年から30年後、1924(大正13)年に、兵庫県西宮市に作られた野球場といえば?」
「甲子園球場!」
「正解じゃ」
「あぁ、甲子園という名前は、干支の名前からつけとってんじゃね」
「日清戦争のことを甲午中日戦争と呼んだように、この戦争のきっかけとなった東学の乱も、甲午農民戦争と呼ばれるそうじゃ」
「以下、さらに余談」
安彦良和『王道の狗 第6巻』講談社、2000年、133ページ
「これは、広島城の本丸下段、今の広島護国神社あたりから、広島城の天守閣方向を撮影した写真を模写したもの」
「確かに、左手奥に天守閣が見えるね。で、手前にある建物のうちの、どれが大本営なんじゃろ?」
「右手にある2階建ての建物が、大本営、もと第五師団司令部。中央が、野戦監督長官部及び同衛生長官部事務所。左が事務所で、これはのちに昭憲皇太后御座所(しょうけんこうたいごうござしょ)として使われるんじゃの」
「昭憲皇太后?」
「昭憲皇太后は、明治天皇の皇后」
「その御座所ってことは、皇后も天皇と一緒に広島に来られたん?」
「日清戦争も終わりのころ、1895(明治28)年の3月19日から4月27日まで、広島に来られたそうじゃ」
↓広島城については、こちら↓
広島城
【参考文献】
財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、20ページ
財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、24ページ
竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、112ページ
訪問日:2024年7月6日
「今日は、広島大本営跡について話をさせてもろうたでがんす」
「ほいじゃあ、またの」