通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

臨時帝国議会仮議事堂跡

2024年07月10日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡じゃ」











「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡についての話でがんす」







臨時帝国議会仮議事堂跡

明治27年(1894年)日清戦争のとき、宇品港が兵站(へいたん)基地となった関係もあって、明治天皇は広島に大本営を進められることとなった。
広島城内の第五師団司令部の庁舎を行在所(あんざいしょ)と定めて、同年9月15日ここにおうつりになった。それにともなって政府の高官や要職が来広した。その後、翌28年4月戦争が終結して、天皇が帰京されるまでの約7か月余、広島市は事実上日本の首都となった。
この間、同年10月18日から7日間の会期で臨時帝国議会第七議会が広島に招集された。そのため貴族院、衆議院の仮議事堂がこの当たりに仮設された。

(説明板より)



「日清戦争があった1894年の広島には、宇品港(うじなこう。今の広島港)が1889(明治22)年に竣工、山陽鉄道の糸崎-広島間が1894年6月に開通しとった」

「鉄道を使えば、本州の北端、青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃね」

「第1師団・東京、第2師団・仙台、第3師団・名古屋、第4師団・大阪が、鉄道を使って広島へ移動することができた」

「第5師団は、広島にあったね」

「第6師団は九州の熊本にあるんじゃが、これも鉄道を使えば、関門海峡のある福岡・小倉まで移動することができたんじゃの」

「軍事的に便利な場所にあって、戦地にも近い広島へ大本営が移されることになって、明治天皇も9月15日に広島へ来られたと」

「明治天皇が広島に来られたことで、帝国議会も広島で開かれることになった」

「帝国議会って、今でいう国会のことじゃろ?」

「ほうじゃの」

「それを広島で?」

「このとき開かれた第7回帝国議会は、戦前戦後を通じて、東京以外の場所で開かれた、唯一の国会じゃそうな」

「ほぉ」

「で、貴族院・衆議院あわせて500人以上の議員のほとんどが、広島に来られたそうじゃ」

「明治天皇が広島に来られるだけでも大変じゃろうに、それだけよぉけ(=たくさん)の議員さんが来られたら、そりゃ大変な騒ぎじゃったじゃろう」

「広島県は、議員が泊まる場所の確保に奔走したといわれとる」

「ところで、戦争をやっとるこんな時期に、なんで議会を開かにゃいけんかったんじゃろ?」

「この年の9月に衆議院議員の選挙があっての」

「ほぉ、選挙があったん」

「このときの帝国議会では、1億5000万円という臨時軍事予算案や、戦争関連法案が取り上げられた。戦時中ということもあって、提出された議案のほとんどが、全会一致で可決されたそうじゃ」





「以下、余談」


「そういや、大本営は第五師団の司令部を借りとっちゃったけど、議会の議事堂は仮設のを建てられたんじゃね」

「9月30日から工事に着工して、10月14日に竣工、翌15日に議会を召集する詔勅(しょうちょく)が公布されたんじゃの」

「文字どおり、突貫工事じゃった」

「最初は50人の職人で始めた工事が、最後のころには1,000人近い職人で工事をしよったいうけぇの」

「ほぉ。で、広さはどれくらいあったん?」

「敷地面積が約25,200平方メートルで、建築面積が約2,350平方メートル。洋風の木造平屋建てで、建設費は約32,000円かかったそうじゃ」

「そのころ、国会議事堂ってあったん?」

「今の国会議事堂が竣工したのが、1936(昭和11)年。ちなみに、第1回の帝国議会が開かれたときの仮議事堂は、1890(明治23)年に竣工。建築面積が約8,469平方メートル、建築費が約233,868円かかったそうじゃ」

「こっちも平屋建て?」

「洋風の木造2階建てじゃったそうな」

「そういや、仮議事堂が広島城の外にあるのは、城内に場所がなかったけぇかね?」

「確かに、今は広島城の外、中国電力の基町ビルの一角に仮議事堂跡碑が建てられとる。が、この場所も江戸時代の広島城の敷地内で、戦前まで旧陸軍の第五師団が西練兵場として使いよった場所なんじゃの」








「以下、さらに余談」


「帝国議会初日の10月18日には、明治天皇が出席されて、会期が始まった。その休憩所として仮議事堂内に建てられたのが、御便殿(ごべんでん)」

「御便殿といえば、比治山(ひじやま)に御便殿跡があるよ」

「御便殿は、日清戦争の終わった1895(明治28)年、広島市に払い下げられた。広島市はこれを比治山公園内に移築し、市民に開放したんじゃの」

「御便殿は、広島に投下された原子爆弾で倒壊して、今はないんよね」

「仮議事堂の方は、1931(昭和6)年に解体されるまで、広島陸軍予備病院第四分院や第五師団司令部庁舎、広島陸軍地方幼年学校仮校舎など、いろいろと使われたそうじゃ」





【参考文献】

財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、31ページ

財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、24ページ

竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、116ページ





訪問日:2024年7月6日






「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
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広島大本営跡

2024年07月07日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、広島城の本丸上段にある、広島大本営跡じゃ」

「画面奥には、天守閣の屋根が見えるよ」









「今日は、広島大本営跡についての話でがんす」





広島大本営跡

明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

(案内板より)



「そもそも、大本営ってなんじゃろ?」

「大本営は、戦前の日本において、天皇のもとで戦争を指導した最高統帥機関。つまり、軍部の最高決定機関じゃの。この大本営が、日清戦争のときは、1894(明治27)年6月5日に設置された」

「6月? 案内板には、8月に戦端が開かれた(=戦争が始まった)って書いてあったけど?」

「日清戦争について、少し説明しとくと…。この年の2月、朝鮮で東学の乱が起こった。これを抑えることができなかった朝鮮王朝は、宗主国の清(しん。今の中国)に兵を出してくれるように頼み、これを受けて日本も朝鮮へ兵を出すことにした」

「なんで日本が兵を出すん?」

「1885年、日本と清との間で結ばれた天津条約というのがある。その条約の中に、どちらかの国が朝鮮に兵を出すときは、相手の国に連絡をするという一文があったんじゃの」

「ほぉ」

「日本政府は6月2日、日本人居留民の保護を目的に朝鮮へ兵を送ることを決め、5日に大本営を設置した。戦闘は7月ころから始まっていたんが、宣戦布告が行われたのは、8月1日じゃったというわけ」

「8月に戦端が開かれたってのは、そういう意味か。で、そのころの広島には、山陽鉄道が開通して、宇品港(うじなこう。今の広島港)もできとったと」

「宇品港は、5年前の1889(明治22)年に竣工して、山陽鉄道の糸崎-広島間は、1894年の6月に開通した」

「ほぉ、広島駅(当時は広島停車場)は、今から130年にできたんじゃね」

「鉄道を使えば、本州の北端の青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃの」

「9月、その大本営が広島に移された」

「大本営が設置された東京は戦地から遠いので、情報が伝わるのに時間がかかる。そこで、できるだけ戦地に近い広島に移されることになった」

「なるほど」

「で、9月13日に大本営が広島に移され、2日後の15日、明治天皇も広島に入られたんじゃの」

「明治天皇も、鉄道を使われた?」

「9月13日の午前7時に新橋停車場を出発、名古屋・神戸にそれぞれ1泊したあと、15日の午後5時に広島停車場に到着されたそうじゃ」

「おぉ、東京から広島まで、2泊3日の旅じゃったんじゃね。広島の大本営は、明治天皇が来られることが決まってから、仮設で作られたもの?」

「広島城には旧陸軍の第五師団があって、1877(明治10)年に木造洋館2階建ての建物が建てられた。日清戦争のころは司令部として使われていたものを、大本営として使ったんじゃの」

「ほいじゃったら、追い出された第五師団の司令部は?」

「大本営として使われた建物は、1896(明治29)年に永久保存されることが決まった。そこで、この年の6月、司令部の建物が本丸下段に作られたそうじゃ」

「大本営が永久保存されたということは、広島へ原子爆弾が投下されるまであった?」

「1945(昭和20)年8月6日、広島への原子爆弾投下の際は、その爆風によって建物が倒壊したそうじゃ。ちなみに、爆心地からの距離は、約900メートル」




正面:
聖蹟 明治二十七八年戦役廣島大本営




左側:
昭和十年三月建設 文部省



「「聖蹟(せいせき)」「文部省」の文字は、セメントかなんかで埋めて、読めんようにしてあるけど?」

「戦前、明治天皇の行幸先やゆかりの施設などは、聖蹟として文部省から指定された。聖蹟に指定された大本営跡は、広島城とともに観光名所になったそうじゃ」

「ということは、戦後になって反発を受けてから、文字を埋めちゃったんかね?」

「戦後の1948(昭和23年)、連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けた文部省が、聖蹟の指定を解除したことから、文字を埋めちゃったんじゃろうの」





「以下、余談」


「確認のために聞いてみるんじゃけど、明治二十七八年戦役って、日清戦争のことよね?」

「ほうじゃの。そのころの日本では、明治二十七八年戦役と呼んどったようじゃ」

「日本ではということは、中国ではなんて呼んどっちゃったん?」

「甲午(こうご)中日戦争と呼んでいたそうじゃ」

「甲午?」

「甲午は干支(えと)のひとつで、「きのえうま」とも呼ぶんじゃの」

「あぁ、干支の名前を戦争の名前につけとってんじゃね」

「60年でひとまわりする干支の、その最初が甲子(こうし、きのえね)。甲子から、60年の半分の30年後に回ってくるのが甲午。甲午の年の1894(明治27)年から30年後、1924(大正13)年に、兵庫県西宮市に作られた野球場といえば?」

「甲子園球場!」

「正解じゃ」

「あぁ、甲子園という名前は、干支の名前からつけとってんじゃね」

「日清戦争のことを甲午中日戦争と呼んだように、この戦争のきっかけとなった東学の乱も、甲午農民戦争と呼ばれるそうじゃ」





「以下、さらに余談」




安彦良和『王道の狗 第6巻』講談社、2000年、133ページ


「これは、広島城の本丸下段、今の広島護国神社あたりから、広島城の天守閣方向を撮影した写真を模写したもの」

「確かに、左手奥に天守閣が見えるね。で、手前にある建物のうちの、どれが大本営なんじゃろ?」

「右手にある2階建ての建物が、大本営、もと第五師団司令部。中央が、野戦監督長官部及び同衛生長官部事務所。左が事務所で、これはのちに昭憲皇太后御座所(しょうけんこうたいごうござしょ)として使われるんじゃの」

「昭憲皇太后?」

「昭憲皇太后は、明治天皇の皇后」

「その御座所ってことは、皇后も天皇と一緒に広島に来られたん?」

「日清戦争も終わりのころ、1895(明治28)年の3月19日から4月27日まで、広島に来られたそうじゃ」







↓広島城については、こちら↓

広島城





【参考文献】

財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、20ページ

財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、24ページ

竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、112ページ





訪問日:2024年7月6日






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明治天皇の御用井戸跡

2024年07月03日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、広島市中央図書館北側の歩道にある、明治天皇の御用井戸跡じゃ」



北西方向から見る



南東方向から見る





「今日は、明治天皇の御用井戸跡についての話でがんす」







「説明文を読むと、明治天皇だけじゃのうて、歴代の広島藩主も、この井戸の水を飲んどってんじゃね」

「ほうじゃの」

「で、この井戸は広島城の三の丸屋敷内にあったって書いてあるけど、ここは今、広島城の外よね」

「ほうなんよ。ここから南にある、そごう広島店・旧広島市民球場跡の南側までが、江戸時代の広島城じゃった」

「ほぉ、広島城はそんなに広かったん?」

「今の広島城の周りにある堀が内堀で、広島電鉄の市内電車の線路が走っているあたりが外堀。で、明治天皇の御用井戸があったすぐ南側に、内堀と外堀の間にある中堀があったんじゃの」



(「今昔マップ on the web」より)

「えーと、この今昔マップは、どうやって見りゃええんかいね?」

「向かって左側が1894(明治27)年ころの広島で、右側が現在の広島」

「お城の周りが真っ白じゃけど?」

「このころ、広島城周辺には旧陸軍の第五師団と、その関連施設があったんじゃの」

「確かに、御用井戸は中堀の内側にあるように見えるね」







「次は、この碑について見ていこう」


正面:
聖蹟
明治天皇日清戦役ノ際
広島御駐輦中ノ御用井

正面左:
勅喩拝受五十年記念ノ為メ之ヲ建ツ

正面右:
聖蹟此處ニ在リ朝夕之ヲ仰グ
聖徳敬慕ノ懐愈々深ク
聖諭奉禮ノ念益々切也

裏:
昭和七年 野砲兵第五聨隊
将校同相當官
準士官下士官兵
一同



「「広島御駐輦ノ御用井…」の「駐輦」は、なんて読むん?」

「「駐輦」は「ちゅうれん」と読んで、天皇が行幸先に滞在することをいう。ちなみに、「輦(れん)」は天皇の乗る車をいうそうじゃ」

「「勅喩拝受五十年記念…」の「勅喩」って、なに?」

「「勅喩」は「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」のことで、1882(明治15)年、明治天皇が陸海軍軍人に下賜されたものじゃ」

「勅喩の拝受から50年を記念して、昭和7年にこの碑を建てた、って刻んであったね」

「昭和7年は、西暦でいうと1932年。軍人勅諭が下された1882年から、ちょうど50年にあたる年なんじゃの」





「以下、余談」




「おおっ、碑の奥(北西方向)に見えるのは、エディオンピースウイング広島じゃん!」

「ほうじゃの。エディオンピースウイング広島は、サッカーJリーグ・サンフレッチェ広島の新しい本拠地となるサッカースタジアムじゃ」

「開業が今年2月で、グランドオープンは8月1日じゃったね」

「8月1日にグランドオープンするのは、ひろしまスタジアムパーク。ひろしまスタジアムパークは、エディオンピースウイング広島とその周辺にある広場から構成されとるんじゃの」



↓ひろしまスタジアムパークについては、こちら↓

ひろしまスタジアムパーク|HIROSHIMA STADIUM PARK

HIROSHIMAスタジアムパークPROJECT|サンフレッチェ広島





訪問日:2024年6月29日






「今日は、明治天皇の御用井戸跡について話をさせてもろうたでがんす」

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旧広島水上警察署(旧広島港湾事務所)

2023年06月01日 | 見て歩き
明治時代以降の日本では
近代化が図られ、
西洋風の外観を持つ
木造やレンガ造りの建物が
建てられるようになった。

今でも広島市内に残る
明治時代の木造洋風建築で、
被爆建物のひとつが、
旧広島水上警察署なんじゃの。




(撮影日:2018年2月11日)





今日は、
旧広島水上警察署
(旧広島港湾事務所)
についての話でがんす。





水上の警備と取り締まりを行う
水上警察署は1881(明治14)年、
広島県には広島と尾道に設置された。

広島には中島新町、
今の平和記念公園あたりに置かれた。

1886(明治19)年、
仁保島村宇品(にほじまむらうじな。
現:広島市南区元宇品(もとうじな))
へ移転したのち、
翌1887年、現在地に新築された
庁舎に入る。

1909(明治42)年、庁舎は
現在の木造2階建ての洋風建築に
建て替えられた。

1904(明治37)年6月、
水上警察署の中に設けられた
京橋分署宇品臨時出張所は、
同年9月に宇品分署となり、
1926(大正15)年、
宇品警察署へ昇格した。

1937(昭和12)年、
広島と尾道の水上警察署は廃止され、
宇品警察署がその業務を引き継ぐ。

日中戦争のただ中ということもあり、
その業務が増えて
場所も手狭となったため、
1938(昭和13)年に
増築と模様替えを行った。


1945(昭和20)年8月6日、
原子爆弾が投下され被爆。

爆心地から
約4600メートル離れていたが、
爆風で屋根が浮き、
増築部分は梁(はり)が折れるなど
被害を受けた。


戦後も警察署として使われたが、
1964(昭和39)年、
宇品警察署は広島南警察署として
新庁舎へ移転する。

翌年から広島港湾事務所として、
1981(昭和56)年からは
その倉庫として利用された。



↓広島南警察署については、こちら↓

「広島南警察署」広島県警察



↓広島港湾事務所については、こちら↓

「広島港湾振興事務所」広島県







(撮影日:2010年2月20日)




(撮影日:2018年2月11日)




(撮影日:2023年4月30日)


旧広島水上警察署を
北側から撮った写真を
3枚並べてみた。

2010年は建物を囲むフェンスもなく、
窓にはめられたベニヤ板(?)も
1階だけだった。

2018年には
建物の周囲にフェンスが設置され、
1階だけでなく
2階の窓にもベニヤ板がはめられ、
画面左下には
説明板が新設された。

今年(2023年)撮影したものは、
窓のベニヤ板が外され、
1階の外壁には
ペンキが塗られている。





(撮影日:2010年2月20日)




(撮影日:2023年4月30日)


玄関を比べてみると、
ペンキを塗っただけでなく、
白壁のはがれた所を修理し、
玄関上の丸い電球を取り付けてある。





(撮影日:2010年2月20日)


南側(海側)は
今はこういう形になっているが、
北側と同じような玄関が
南側にもあったという。

というのも、水上警察署時代は
海側が正面玄関で、
そのころは海だったところが
今は埋め立てられている。





(撮影日:2023年4月30日)


玄関から海へ下りていく階段が、
囲いからのぞいているのがわかる。



【参考文献】

被爆建造物調査研究会『ヒロシマの被爆建造物は語る』広島平和記念資料館 1996年 26ページ






今日は、
旧広島水上警察署
(旧広島港湾事務所)
について話をさせてもろうたでがんす。



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三次市歴史民俗資料館(旧 三次銀行)

2023年05月29日 | 見て歩き


三次(みよし)市内に残る
洋風建物のひとつが、
三次市歴史民俗資料館。





今日は、
三次市歴史民俗資料館
(旧 三次銀行)
についての話でがんす。





この建物の話をする前に、
三次銀行の話から始めよう。

三次銀行は、
1921(大正10)年12月、
双三郡(ふたみぐん)
三次町(現:三次市)に設立された。

設立当時、三次銀行の
監査役が所有していた家屋を
借りて営業を始めた。

経営が軌道に乗って
営業を拡大すると、
店舗が手狭となったため、
1927(昭和2)年、
現在地(三次中町)に移転、
鉄筋コンクリート造2階建ての
本店を新築する。

1945(昭和20)年、
三次銀行は芸備銀行と合併、
芸備三次中町支店となるが、
1950(昭和25)年に支店は廃止された。

翌1951(昭和26)年から
三次郵便局の庁舎として使われるが、
1977(昭和52)年
郵便局の移転により
庁舎は廃止される。

1979(昭和54)年、
三次市に払い下げられた
のちに整備され、
1981(昭和56)年に
三次市歴史民俗資料館として開館した。

現在は、
1階は辻村 寿三郎
(つじむら じゅさぶろう)
人形館として寿三郎の作品を、
2階は三次市の歴史・民俗資料を
展示している。




正面玄関。




正面の柱上部には、
楕円を中心とした
曲線模様のレリーフ装飾が
施されている。







三次市歴史民俗資料館
の裏側にある木造の建物は、
三次郵便局時代のもの。





↓三次市歴史民俗資料館については、こちら↓

◇ 寿三郎人形館みよし 辻村寿三郎人形館 広島 三次 ◇





【参考文献】

『みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編』菁文社 2007年 18ページ






今日は、
三次市歴史民俗資料館
(旧 三次銀行)
について話をさせてもろうたでがんす。



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