北風が強くて寒かったが朝一番の歯医者で治療が終わって少し暖かい日差しが出た11時過ぎに今日もサイクリングに出かけることにした。地元の歴史も調べながらブログに残しておきたい。
今日のコースは前回の続きで花見川区役所から検見川神社と京成検見川駅~JR新検見川駅でコーヒータイムして終了。約10kmのサイクリングであった。
(自宅~花見川消防署畑出張所~瑞穂の杜~花見川区役所~花見川サイクリング道路~瑞穂橋~浪花橋~検見川神社裏のJR地下トンネル~検見川神社裏~京成検見川そば踏切~真言宗豊山派 寳藏院~検見川神社急な石段登り~神社の裏から見学~新検見川駅とスーパー西友~マロンドでコーヒーとパン休憩~西小中台団地付近経由~スーパーマルエツ~帰宅)
↓花見川区役所入口のセブンイレブンのある交差点

↓その交差点のすぐそばにある大賀ハス発祥の地の碑文、苔むした色あせておまけに歩道の陰に隠れて目立たない。碑文はスマホの10倍以上のデジタルズームと手振れで画質低下!


↓花見川区役所→ピンク色の建物 (1992年(平成4年)4月1日 - 千葉市の政令指定都市移行に伴い当区を設置。)沼地を埋め立てた広大な土地の花見川沿い一角に建てられた。

↓花見川区役所から花見川にでるとそこは花見川サイクリング道路である。



↓瑞穂橋は新しく作られた橋で区画開発中の幕張町へ渡れる。川の下流側を望む。遠く右手に海浜幕張地区の高層ビルが見える。

↓浪花橋のそばにある碑文。「千葉市長荒木和成終焉の地」と刻まれている。


(参考文献)
1972年1月14日、千葉市議会特別委員会が機動隊に守られながら航空燃料輸送パイプライン埋設賛成を強行採決した。新東京国際空港公団と消防署や公民館等の環境整備費11億円の支払いの密約を交わした荒木は、3月15日に工事のための道路占用許可を出した。
しかし、工事が開港に間に合う見通しが立たなくなったことから、空港公団は同年7月に開港までのパイプライン稼働を諦めて鉄道を利用する暫定輸送の方針を出した。千葉市への支払いが行われないままなされた空港公団の方針転換[注 1]に激怒した荒木は、工事をさし止めたうえ原状復帰を命じ、更に密約の存在を暴露して「以後、空港公団は相手にせず」と声明を出した。
これ以降パイプライン工事が停滞することとなり、開港が大幅に遅れる要因の一つとなった[4][8][9][10]。その後、パイプラインと暫定輸送(千葉市は千葉港からの鉄道ルートの経由地でもあった)の問題を抱え込んだ荒木は、国や市との板挟みの複雑な立場に置かれ、選挙が近づく中で航空燃料輸送問題の決断を迫られている最中に急死した[4]。 出典: Wikipedia
ちなみに我が家が千葉に移住してきたときに成田空港へ航空機燃料を運ぶ巨大パイプラインの建設反対が近隣の団地も含めて起こっていたのを覚えている。パイプライン完成までは幕張駅を通って国鉄の貨物タンク車で輸送していたのである。
↓浪花橋、すぐそばをJR総武線が走っている。

↑二股の左の道はJR新検見川駅へゆくグリーンベルトに出る。右側(警備員の姿のある方)の道を進むとJR線路に沿って検見川神社のそばの地下道に行ける。






↓そこはもう検見川神社の西参道に登る入口である。



↓先を進むと京成電鉄千葉線の踏切に出る。そこは検見川神社の正面入り口で本殿に登る急な階段が見える。



↓すぐそばに真言宗豊山派の寺、寳藏院(ほうぞういん)がある。(出典:猫の足跡、宝蔵院の創建年代等は不詳ながら、宥秀法印が開祖となり寛永5年(1628)に開基(中興開基)したと伝えられます。)


↓京成電鉄の「検見川駅」、昔ながらの線路を渡って駅舎にゆく造りである。ちなみに国鉄の「新検見川駅」ができたのはここよりずっと後であり、それゆえに駅名に京成という文字は付されなかったとある。検見川界隈はまさに京成電鉄によって栄えたと言える。

↓検見川神社の急な石段を登って本殿に向かう。かなりの高台にあり検見川浜が埋め立てられる以前は東京湾の海辺がすぐそばまで来ていた。またこの神社は当方が49年前に千葉に移住してきたときは、「八坂神社」と名乗っていた。(沿革を参照)






●沿革:元和2年(1616年)、検見川を領有した幕府旗本の金田正明が一族が崇敬していた宇迦之御魂神を、更に寛永年間(1624年~1644年)に当地にあった神社(応永16年(1409年)創建)の祭神である伊弉冉尊を合祀した。 昭和62年(1987年)に「八坂神社」から「検見川神社」へ改称。 (出典:Wikipedia)
↓神社のお守りは9つとある。


↓トンネルはJR総武線をくぐるものだが、40年以上前はまだ開かずの踏切がこの浪花町にあって車は不便だった。この切通が掘られて陸側から海岸へ抜けるルートが便利になったが検見川神社の周りは急な崖として残ったのである。(資料:1981.7.6 津田沼~千葉間複々線化開業)






↓検見川神社改名に尽力したとされる宮間宮司の彫像
(出典:1987年12月に八坂神社から検見川神社に改称し現在に至り検見川神社のその発揚に尽力された宮間宮司の顕彰銅像です。→https://ja.foursquare.com/v/%E5%AE%AE%E9%96%93%E5%B5%93%E5%A3%AB%E7%BF%81%E9%A1%95%E5%BD%B0%E5%83%8F/5986ad6b35f98307710271c8)



↓新検見川駅前の老舗パン&カフェのマロンド(川島屋)、ここで美味しい焼きたてのパンとコーヒーで休憩、以前はここのコーヒーは本格的な抽出ですばらしかったがここ10年は機械で自動抽出になりコンビニと同じになってしまったのが残念だ。客がくつろげる席も多数あるがすべて古くなってしまった。また新検見川駅構内には昔は3階にレストラン、ホームに立ち食い蕎麦屋、構内に天丼のてんやなど変遷があったがすべて潰れた。今は近年できた軽食喫茶やコンビニがあるが駅としての利便性はまあまあである。


↓スーパー西友、1972年に千葉に来てもう49年たつが当初は西友前の駅舎踏切が開かずの踏切で困った。のちに東京方面から帰宅する客用に降車専用改札ができたのを覚えている。この西友は当時わたしが勤務していた中堅ゼネコン(藤田組:現フジタ)が1970年代後半?に建設したもので商品種類もデパート並み?開業後は屋上にファミリーレストランと機関車のレールがある遊園地が作られていてまさに地域住民の社交の場で自慢の西友であったのだ。写真のスロープは陸側と海側を自転車でも渡れるようにした回廊だった。むろん地下道はあったが自転車はむりだった。


↓建物は6Fまであるが正面入口は実は3Fで後ろの崖から下に食品売り場の2~1Fがある。

↓現在の新検見川駅裏側と新検見川駅開業時の姿(1951年7月)当時の建物があった場所で方向を合わせて撮影 (出典:千葉市の昭和、いき出版、千葉県教科書販売株式会社 2011/9)

↓昭和40年代の新検見川駅、49年前に千葉市に移住して当時代々木にあったゼネコンまで通勤するのに約2時間を要した。当時はまだ複線で快速急行貨物も混在通行しており車両の故障も多くまさに「痛勤」であった。( ;∀;)

↓跨線橋の両側の土手には桜が植えられていて春は美しい景色だったが今は失われて残念だ。ちなみにホームから当時は南側に見えた電電公社の無線局の巨大アンテナがあった。太平洋戦争時は戦艦や潜水艦との交信に使われたようだ。

当時は付近の鉄道はまだ京成電鉄千葉線しかなくまわりは田んぼだったと記されている。

↓現在の新検見川駅南口全景、美しいロータリーは昔と変わらないが駅前には近年移転してきた葬祭業のセレモの建物も見える。近年は北口ともどもエレベーターも設置されてご老人には有難い駅となった。



↓検見川神社とJR新検見川駅の衛星写真 (地図をクリックすると拡大します)


↓新検見川駅前のマロンド店で周りに飛んでいた電波を受信したWi-Fiのチャンネル画像(2.4GHzと5GHz帯、Wi-Fiアナライザーアプリ使用) さすがに近年はWi-Fiサービスを実施する店や事業所が増えている。店のWi-Fiのkawashimayaらしきものが確認できます。


↓今日のワークアウト結果、歩数は20時現在4477歩だった。



今日のコースは前回の続きで花見川区役所から検見川神社と京成検見川駅~JR新検見川駅でコーヒータイムして終了。約10kmのサイクリングであった。
(自宅~花見川消防署畑出張所~瑞穂の杜~花見川区役所~花見川サイクリング道路~瑞穂橋~浪花橋~検見川神社裏のJR地下トンネル~検見川神社裏~京成検見川そば踏切~真言宗豊山派 寳藏院~検見川神社急な石段登り~神社の裏から見学~新検見川駅とスーパー西友~マロンドでコーヒーとパン休憩~西小中台団地付近経由~スーパーマルエツ~帰宅)
↓花見川区役所入口のセブンイレブンのある交差点

↓その交差点のすぐそばにある大賀ハス発祥の地の碑文、苔むした色あせておまけに歩道の陰に隠れて目立たない。碑文はスマホの10倍以上のデジタルズームと手振れで画質低下!


↓花見川区役所→ピンク色の建物 (1992年(平成4年)4月1日 - 千葉市の政令指定都市移行に伴い当区を設置。)沼地を埋め立てた広大な土地の花見川沿い一角に建てられた。

↓花見川区役所から花見川にでるとそこは花見川サイクリング道路である。



↓瑞穂橋は新しく作られた橋で区画開発中の幕張町へ渡れる。川の下流側を望む。遠く右手に海浜幕張地区の高層ビルが見える。

↓浪花橋のそばにある碑文。「千葉市長荒木和成終焉の地」と刻まれている。


(参考文献)
1972年1月14日、千葉市議会特別委員会が機動隊に守られながら航空燃料輸送パイプライン埋設賛成を強行採決した。新東京国際空港公団と消防署や公民館等の環境整備費11億円の支払いの密約を交わした荒木は、3月15日に工事のための道路占用許可を出した。
しかし、工事が開港に間に合う見通しが立たなくなったことから、空港公団は同年7月に開港までのパイプライン稼働を諦めて鉄道を利用する暫定輸送の方針を出した。千葉市への支払いが行われないままなされた空港公団の方針転換[注 1]に激怒した荒木は、工事をさし止めたうえ原状復帰を命じ、更に密約の存在を暴露して「以後、空港公団は相手にせず」と声明を出した。
これ以降パイプライン工事が停滞することとなり、開港が大幅に遅れる要因の一つとなった[4][8][9][10]。その後、パイプラインと暫定輸送(千葉市は千葉港からの鉄道ルートの経由地でもあった)の問題を抱え込んだ荒木は、国や市との板挟みの複雑な立場に置かれ、選挙が近づく中で航空燃料輸送問題の決断を迫られている最中に急死した[4]。 出典: Wikipedia
ちなみに我が家が千葉に移住してきたときに成田空港へ航空機燃料を運ぶ巨大パイプラインの建設反対が近隣の団地も含めて起こっていたのを覚えている。パイプライン完成までは幕張駅を通って国鉄の貨物タンク車で輸送していたのである。
↓浪花橋、すぐそばをJR総武線が走っている。

↑二股の左の道はJR新検見川駅へゆくグリーンベルトに出る。右側(警備員の姿のある方)の道を進むとJR線路に沿って検見川神社のそばの地下道に行ける。






↓そこはもう検見川神社の西参道に登る入口である。



↓先を進むと京成電鉄千葉線の踏切に出る。そこは検見川神社の正面入り口で本殿に登る急な階段が見える。



↓すぐそばに真言宗豊山派の寺、寳藏院(ほうぞういん)がある。(出典:猫の足跡、宝蔵院の創建年代等は不詳ながら、宥秀法印が開祖となり寛永5年(1628)に開基(中興開基)したと伝えられます。)


↓京成電鉄の「検見川駅」、昔ながらの線路を渡って駅舎にゆく造りである。ちなみに国鉄の「新検見川駅」ができたのはここよりずっと後であり、それゆえに駅名に京成という文字は付されなかったとある。検見川界隈はまさに京成電鉄によって栄えたと言える。

↓検見川神社の急な石段を登って本殿に向かう。かなりの高台にあり検見川浜が埋め立てられる以前は東京湾の海辺がすぐそばまで来ていた。またこの神社は当方が49年前に千葉に移住してきたときは、「八坂神社」と名乗っていた。(沿革を参照)






●沿革:元和2年(1616年)、検見川を領有した幕府旗本の金田正明が一族が崇敬していた宇迦之御魂神を、更に寛永年間(1624年~1644年)に当地にあった神社(応永16年(1409年)創建)の祭神である伊弉冉尊を合祀した。 昭和62年(1987年)に「八坂神社」から「検見川神社」へ改称。 (出典:Wikipedia)
↓神社のお守りは9つとある。


↓トンネルはJR総武線をくぐるものだが、40年以上前はまだ開かずの踏切がこの浪花町にあって車は不便だった。この切通が掘られて陸側から海岸へ抜けるルートが便利になったが検見川神社の周りは急な崖として残ったのである。(資料:1981.7.6 津田沼~千葉間複々線化開業)






↓検見川神社改名に尽力したとされる宮間宮司の彫像
(出典:1987年12月に八坂神社から検見川神社に改称し現在に至り検見川神社のその発揚に尽力された宮間宮司の顕彰銅像です。→https://ja.foursquare.com/v/%E5%AE%AE%E9%96%93%E5%B5%93%E5%A3%AB%E7%BF%81%E9%A1%95%E5%BD%B0%E5%83%8F/5986ad6b35f98307710271c8)



↓新検見川駅前の老舗パン&カフェのマロンド(川島屋)、ここで美味しい焼きたてのパンとコーヒーで休憩、以前はここのコーヒーは本格的な抽出ですばらしかったがここ10年は機械で自動抽出になりコンビニと同じになってしまったのが残念だ。客がくつろげる席も多数あるがすべて古くなってしまった。また新検見川駅構内には昔は3階にレストラン、ホームに立ち食い蕎麦屋、構内に天丼のてんやなど変遷があったがすべて潰れた。今は近年できた軽食喫茶やコンビニがあるが駅としての利便性はまあまあである。


↓スーパー西友、1972年に千葉に来てもう49年たつが当初は西友前の駅舎踏切が開かずの踏切で困った。のちに東京方面から帰宅する客用に降車専用改札ができたのを覚えている。この西友は当時わたしが勤務していた中堅ゼネコン(藤田組:現フジタ)が1970年代後半?に建設したもので商品種類もデパート並み?開業後は屋上にファミリーレストランと機関車のレールがある遊園地が作られていてまさに地域住民の社交の場で自慢の西友であったのだ。写真のスロープは陸側と海側を自転車でも渡れるようにした回廊だった。むろん地下道はあったが自転車はむりだった。


↓建物は6Fまであるが正面入口は実は3Fで後ろの崖から下に食品売り場の2~1Fがある。

↓現在の新検見川駅裏側と新検見川駅開業時の姿(1951年7月)当時の建物があった場所で方向を合わせて撮影 (出典:千葉市の昭和、いき出版、千葉県教科書販売株式会社 2011/9)

↓昭和40年代の新検見川駅、49年前に千葉市に移住して当時代々木にあったゼネコンまで通勤するのに約2時間を要した。当時はまだ複線で快速急行貨物も混在通行しており車両の故障も多くまさに「痛勤」であった。( ;∀;)

↓跨線橋の両側の土手には桜が植えられていて春は美しい景色だったが今は失われて残念だ。ちなみにホームから当時は南側に見えた電電公社の無線局の巨大アンテナがあった。太平洋戦争時は戦艦や潜水艦との交信に使われたようだ。

当時は付近の鉄道はまだ京成電鉄千葉線しかなくまわりは田んぼだったと記されている。

↓現在の新検見川駅南口全景、美しいロータリーは昔と変わらないが駅前には近年移転してきた葬祭業のセレモの建物も見える。近年は北口ともどもエレベーターも設置されてご老人には有難い駅となった。



↓検見川神社とJR新検見川駅の衛星写真 (地図をクリックすると拡大します)


↓新検見川駅前のマロンド店で周りに飛んでいた電波を受信したWi-Fiのチャンネル画像(2.4GHzと5GHz帯、Wi-Fiアナライザーアプリ使用) さすがに近年はWi-Fiサービスを実施する店や事業所が増えている。店のWi-Fiのkawashimayaらしきものが確認できます。


↓今日のワークアウト結果、歩数は20時現在4477歩だった。



花見川区役所は沼地だったんですか?
そういわれてみれば周辺はあたらしい街の感じがしますね?
サイクリングロードの写真はキレイなものばかり・・・
天気がよかったこともありますが、なんともクリアーでピントもバッチリ!素晴らしいです。
パイプラインは稲毛海浜公園も通っています。
所どころにガードマンの駐在する小屋がありました。
でも、現在はなくなっていますね?
設置当時はいろんなトラブルがあったんですね?
忘れかけていますが成田空港建設は想像を絶するほどの難産でした。
検見川神社、いいですね!最近散歩で何度か訪れています。
立派な神社ですが、ちょっと狭い・・・なんかゆっくりできないイメージがあります。
そう、西友もなつかしい・・・駅側から入店するとすでに三階なんですよね?
ここは朝早くから開店しているので、散歩のついでに寄ることがあります。
店内は、ちょっと寂れた感じがしてなにかさみしいです。
長旅、おつかれさまでした・・・
そうです。花見川区役所や高層マンションが建っていた場所は広大な葦の沼地でした。まだそう遠い思い出ではない気がします。街ができてゆく過程をつぶさに見ていたのでよく記憶に残る開発の歴史でした。
マンションを建設した鹿島建設は当初今のセブンイレブンがある近くに鉄骨を溶接してマンションに使う為に巨大な工場を設置していました。まだ昨年のことのように思い出されます。
それから、検見川神社は崖の上に建っていたので本殿の敷地は狭いです。その点まだなだらかな稲毛の神社の方が広くてゆったりしています。ともかく検見川駅、新検見川駅共々周りは高低差がかなりあり、ビルも戸建も建設が難しかったエリアと言えます。
西友はおっしゃる通り崖に建てたスーパーで玄関入るとそこは3階だったのです。しかし最上階は今は何もないですが、というか上がれない、でも開店当初は子供連れで賑わい、お洒落なファミリーレストランでランチを楽しむことが出来ました。
またあの頃の西友に戻ってくれると良いなと思っている地元民は多いことと推測します。弁当が安くて美味い、惣菜も出来の良い品物が多く我が家の近くに来て欲しいと思っています。
勝手なごたくを並べてしまいましたがまたの訪問をお待ちしています。