第3526号 30.08.26(日)
土蔽(つひ)ゆれば則ち草木長ぜず、水煩しければ則ち魚鼈(ぎょべつ)大ならず、気衰ふれば則ち生物遂げず、世乱るれば則ち禮慝(れいとく)にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで荘(おごそか)ならず、楽しんで安からず、慢易(まんい)にして以て節を犯し、流湎(りうべん)して以て本を忘る。廣ければ則ち姦(かん)を容れ、狭ければ則ち欲を思ふ。條暢(じょうちょう)の気を感(そこな)ひ、平和の徳を滅ぼす。是を以て君子は之を賤むなり。『礼記』577
土が疲れると草木が育たず、水が腐ると魚やすっぽんが大きくならず、身体の元気が衰えると、生物の命が全うされないように、社会が乱れると人心も荒(すさ)み、礼儀が邪になり、音楽が淫らになる。そうした音楽であればその音は哀れで重みがなく、浮かれて落ち着きがなく、のんびりし過ぎて節度がなく、楽しみに溺れて帰りを忘れる、といった有様になるであろう。あるいは音調が緩に過ぎれば邪意もまぎれ込み、急に過ぎれば、それに付け入って私欲が心を満たそうとする。このように、音楽は、その誤った用法においては、天地の万物伸長の生気を傷(そこな)い、温和の人心を害するのであって、君子はこの類の音楽を賤しむのである。
【コメント】<音楽は、その誤った用法においては、天地の万物伸長の生気を傷い、温和の人心を害する>とありますが、一人音楽だけにとどまらず、私は『南洲翁遺訓』・漢籍を繙く時にそのような精神構造になるのです。荘内南洲会二代理事長・小野寺先生からは、それはそれは御心の籠ったご芳翰を多量頂戴致しています。そのように信じて下さった小野寺先生を裏切ることがあってはならないと自覚し、朝夕小野寺先生に御挨拶しています。
ことほど左様に、荘内の先達の先生方がたの勤勉さ・高潔さを学ばせて戴きました。それをお手本に日々自覚し、とりくんでいるつもりです。
それと私が鹿児島南洲会で学んだ時に、支援・激励してくださった先生方に対しても、精神的に裏切るようなことがあってはならないと心しています。
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『善の研究』第12回
思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起るので、後者は前者により与えられるのではない。経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたままである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。
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『菜根譚』七
醲肥(じょうひ)辛甘(しんかん)は真味にあらず、真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。
〔訳〕濃い酒や肥えた肉、辛いものや甘いものなど、すべて濃厚な味の類は、ほんものの味ではない。ほんものの味というものは、水や空気のようにただ淡白な味のものである。これと同じく、神妙不可思議で、奇異な才能を発揮する人は、至人ではない。至人というものは、ただ世間並みな尋常の人である。
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土蔽(つひ)ゆれば則ち草木長ぜず、水煩しければ則ち魚鼈(ぎょべつ)大ならず、気衰ふれば則ち生物遂げず、世乱るれば則ち禮慝(れいとく)にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで荘(おごそか)ならず、楽しんで安からず、慢易(まんい)にして以て節を犯し、流湎(りうべん)して以て本を忘る。廣ければ則ち姦(かん)を容れ、狭ければ則ち欲を思ふ。條暢(じょうちょう)の気を感(そこな)ひ、平和の徳を滅ぼす。是を以て君子は之を賤むなり。『礼記』577
土が疲れると草木が育たず、水が腐ると魚やすっぽんが大きくならず、身体の元気が衰えると、生物の命が全うされないように、社会が乱れると人心も荒(すさ)み、礼儀が邪になり、音楽が淫らになる。そうした音楽であればその音は哀れで重みがなく、浮かれて落ち着きがなく、のんびりし過ぎて節度がなく、楽しみに溺れて帰りを忘れる、といった有様になるであろう。あるいは音調が緩に過ぎれば邪意もまぎれ込み、急に過ぎれば、それに付け入って私欲が心を満たそうとする。このように、音楽は、その誤った用法においては、天地の万物伸長の生気を傷(そこな)い、温和の人心を害するのであって、君子はこの類の音楽を賤しむのである。
【コメント】<音楽は、その誤った用法においては、天地の万物伸長の生気を傷い、温和の人心を害する>とありますが、一人音楽だけにとどまらず、私は『南洲翁遺訓』・漢籍を繙く時にそのような精神構造になるのです。荘内南洲会二代理事長・小野寺先生からは、それはそれは御心の籠ったご芳翰を多量頂戴致しています。そのように信じて下さった小野寺先生を裏切ることがあってはならないと自覚し、朝夕小野寺先生に御挨拶しています。
ことほど左様に、荘内の先達の先生方がたの勤勉さ・高潔さを学ばせて戴きました。それをお手本に日々自覚し、とりくんでいるつもりです。
それと私が鹿児島南洲会で学んだ時に、支援・激励してくださった先生方に対しても、精神的に裏切るようなことがあってはならないと心しています。
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『善の研究』第12回
思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起るので、後者は前者により与えられるのではない。経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたままである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。
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『菜根譚』七
醲肥(じょうひ)辛甘(しんかん)は真味にあらず、真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。
〔訳〕濃い酒や肥えた肉、辛いものや甘いものなど、すべて濃厚な味の類は、ほんものの味ではない。ほんものの味というものは、水や空気のようにただ淡白な味のものである。これと同じく、神妙不可思議で、奇異な才能を発揮する人は、至人ではない。至人というものは、ただ世間並みな尋常の人である。
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