味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

土蔽ゆれば則ち草木長ぜず

2018-08-26 09:17:24 | ブログ
第3526号 30.08.26(日)

土蔽(つひ)ゆれば則ち草木長ぜず、水煩しければ則ち魚鼈(ぎょべつ)大ならず、気衰ふれば則ち生物遂げず、世乱るれば則ち禮慝(れいとく)にして樂淫す。是の故に其の聲哀しんで荘(おごそか)ならず、楽しんで安からず、慢易(まんい)にして以て節を犯し、流湎(りうべん)して以て本を忘る。廣ければ則ち姦(かん)を容れ、狭ければ則ち欲を思ふ。條暢(じょうちょう)の気を感(そこな)ひ、平和の徳を滅ぼす。是を以て君子は之を賤むなり。『礼記』577

 土が疲れると草木が育たず、水が腐ると魚やすっぽんが大きくならず、身体の元気が衰えると、生物の命が全うされないように、社会が乱れると人心も荒(すさ)み、礼儀が邪になり、音楽が淫らになる。そうした音楽であればその音は哀れで重みがなく、浮かれて落ち着きがなく、のんびりし過ぎて節度がなく、楽しみに溺れて帰りを忘れる、といった有様になるであろう。あるいは音調が緩に過ぎれば邪意もまぎれ込み、急に過ぎれば、それに付け入って私欲が心を満たそうとする。このように、音楽は、その誤った用法においては、天地の万物伸長の生気を傷(そこな)い、温和の人心を害するのであって、君子はこの類の音楽を賤しむのである。

 【コメント】<音楽は、その誤った用法においては、天地の万物伸長の生気を傷い、温和の人心を害する>とありますが、一人音楽だけにとどまらず、私は『南洲翁遺訓』・漢籍を繙く時にそのような精神構造になるのです。荘内南洲会二代理事長・小野寺先生からは、それはそれは御心の籠ったご芳翰を多量頂戴致しています。そのように信じて下さった小野寺先生を裏切ることがあってはならないと自覚し、朝夕小野寺先生に御挨拶しています。

 ことほど左様に、荘内の先達の先生方がたの勤勉さ・高潔さを学ばせて戴きました。それをお手本に日々自覚し、とりくんでいるつもりです。

 それと私が鹿児島南洲会で学んだ時に、支援・激励してくださった先生方に対しても、精神的に裏切るようなことがあってはならないと心しています。

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『善の研究』第12回

 思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのもこれが為である。純粋経験は事実の直覚その儘であって、意味がないといわれている。かくいえば、純粋経験とは何だか混沌無差別の状態であるかのように思われるかも知れぬが種々の意味とか判断とかいうものは経験其者の差別より起るので、後者は前者により与えられるのではない。経験は自ら差別相を具えた者でなければならぬ。たとえば、一の色を見てこれを青と判定したところが、原色覚がこれによりて分明になるのではない、ただ、これと同様なる従来の感覚との関係をつけたままである。また今余が視覚として現われたる一経験を指して机となし、これについて種々の判断を下すとも、これによりてこの経験其者の内容に何らの豊富をも加えないのである。

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『菜根譚』七

 醲肥(じょうひ)辛甘(しんかん)は真味にあらず、真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人にあらず、至人はただ是れ常なり。

 〔訳〕濃い酒や肥えた肉、辛いものや甘いものなど、すべて濃厚な味の類は、ほんものの味ではない。ほんものの味というものは、水や空気のようにただ淡白な味のものである。これと同じく、神妙不可思議で、奇異な才能を発揮する人は、至人ではない。至人というものは、ただ世間並みな尋常の人である。

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是の故に先王之を情性に本づけ、

2018-08-25 09:31:48 | ブログ
第3525号 30.08.25(土)

是の故に先王之を情性(じょうせい)に本(もと)づけ、之を度数に稽(かんが)へ、之を禮義に制し、生気の和を合せ、五常の行(みち)に道(よ)り、之をして陽なれど散らず、陰なれど密(と)ぢず、剛毅なれど怒らず、柔気なれど懾(おそ)れざらしむ。四暢中(しちょううち)に交りて、外に発作すれば、皆其の位に安んじて相奪(あいうば)はしめざるなり。然る後に之が學等を立て、其の節奏を廣くし、其の文采(ぶんさい)を省(あきらか)にして、以て徳厚(とくこう)を縄(ただ)し、小大の稱を律し、終始の序比べ、以て事行(じこう)に象(かたど)り、親疏(しんそ)貴賎長幼男女の理をして皆樂に形(あらは)れ見えしむ。故に曰く、楽は其の深きを觀ると。『礼記』575

 こうしたわけで、先王は音楽の組織を作るには、人間の性情に根拠を置き、整然たる原則を立て、礼儀に適わせ、天地の和気に合わせ、五行の理に従わせ、発揚する音はあっても散漫にならず、収斂する音はあっても鬱血することなく、剛健の気を表わしても怒気はなく、柔和の気は表わしても怯懦の感じはなく、陰陽剛柔(収斂・発揚・剛健・柔和)の四気が適度に樂曲の中に配合され、音になって外に発現するのであり、四気みなそれぞれの位置を占めて相侵さないようにする。以上のように音楽の原則を立ててから、次いで学習の階程を定め、基本になる小節の種類を多くし、樂章の区分を明瞭にして、それによって学習の便利を計り、音楽の感化が民徳を敦厚(とんこう)にすることを計るのであり、また音楽が物ごとの大小先後の名称や順序の模範を示すようにし、それによって事物の道理を表わすことを計って、親疏・貴賎・長幼・男女の道をことごとく音楽に表現せしめるのである。こうしたわけで、昔から「音楽には誠に深い意味がある」と言われている。

 【コメント】音楽を作るに際して、人間の性情、整然たる原則、礼儀に適わせ、天地の和気・五行の理に従わせ、散漫にならず、鬱血することなく、怒気はなく、怯懦の感じなく、四気が適度に配合され、四気みなそれぞれの位置を占め相侵さないようにして、調和よく作ったとされています。
 こういう真摯な思想が今日も踏襲されているでしょうか。興味と売名と金銭欲で取り組んでいる人が多いのではないでしょうか。
 出来ればここで紹介した処を学んで下されれば、世の秩序をよくすることに貢献すると思う次第です。

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『善の研究』第11回

 純粋経験とは意志の要求と実現の間に少しの間隙もなく、その最も自由にして、活発なる状態である。勿論選択的意志より見ればかくの如く衝動的意志によりて支配せられるのはかえって意志の束縛であるかも知れぬが、選択的意志とは已に意志が自由を失った状態である故にこれが訓練せられた時にはまた衝動的となるのである。意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在における現在の活動にあるのである。元来、意志に伴う動作は意志の要素ではない。純心理的に見れば意志は内面における意志の統覚作用である。而してこの統一作用を離れて別に意志なる特殊の現象あるのではない、この統一作用の頂点が意志である。

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 『菜根譚』五

 耳中、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払(もと)るの事ありて、わずかにに是れ徳に進み行を修むるの砥石なり。若し言々耳を悦ばし、事々心に快(こころよ)ければ、便(すなは)ち此の生をとって鴆毒(ちんどく)の中に埋在せん。


〔訳〕人間は平素、常に耳には聞きづらい忠言を聞き、常に心には思い通りにならぬことがあって、それでこそ徳に進み行を修めるための砥石となる。これと反対に、もしどの言葉も耳を喜ばせ、すべての事が心を満足させるようであっては、それではこの人生を鴆毒の中に埋め沈めてしまうことになる。
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コメントへの御禮
 
 荘内南洲会理事・高木先生、ブログへのコメント、誠に有難うございました。連日、必死になって漢籍を繙いています。
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夫れ民、血気心知の性有りて、

2018-08-24 09:53:09 | ブログ
第3524号 30.08.24(金)

夫れ民、血気心知の性有りて、哀楽喜怒の常無く、感に應じ物に起りて動き、然る後に心術形(あらわ)る。是の故に急微噍殺(きゅうびしょうせい)の音作(おんおこ)りて民思憂(たみしいう)し、嘽諧(せんかい)慢易(まんい)繁文(はんぶん)簡節(かんせつ)の音作りて民康樂(たみこうらく)し、粗厲(それい)猛起(もうき)奮末(ふんまつ)廣賁(こうふん)の音作りて民剛毅に、廉直勁正(れんちょくけいせい)荘誠(そうせい)の音作りて民肅敬に、寛裕(かんゆう)肉好(じゅうこう)順成(じゅんせい)和動(かどう)の音作りて民慈愛に、流辟(りゅうへき)邪散(じゃさん)狄成(てきせい)滌濫(できらん)の音作りて民淫乱なり。『礼記』574

 さて人には血気や知覚の機能があって、時を定めず哀楽喜怒の情が、感覚に応じ、外物に接して発動し、それによって人それぞれの心情が明らかになる。従って世に、音調の急速で繊細、抑え弱められた感じの音の多い樂曲が行われるのは、人民に憂慮の多いことを示している。音調が緩徐として柔和に、伸び伸びとして華やかに章節の長い感じのする樂曲が行われるのは、人民の安楽していることを示している。音調が荒々しく、始めは激しく末は湧きあがり、全体として雄壮の感じのする樂曲の行われるのは、人民が剛毅であることを示す、単調で力強く、荘重の感じの樂曲が行われるのは、人民が恭敬であることを示す。ゆったりとして潤いがあり、柔らかに静かに流れてゆく感じの樂曲が行われるのは、人民が慈愛ぶかいことを示す。音調がしばしば変転し、散漫で、軽快で、踊り狂うような感じの樂曲が行われるのは、人民が放縦であることを示すのである。574

【コメント】人民が醸し出す音調は、人民が剛毅であることを示すのも、恭敬であることを示すのも、ゆったりとして潤いがあり、慈愛ぶかい事を示すのもいいことでありますが、散漫で、踊り狂うような感じになり放縦になるようなものであってはならないと思います。

 その為には私が毎日発信している漢籍を学ぶことが最良だと信じます。

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 『善の研究』第10回

 今なお少しく精細に意識統一の意識を定め、純粋経験の性質を明にしようと思う。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現するので、ある。意識においては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。我々の注意を指導する者はこの作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、この作用は無意識であるが、しからざる時には別に表象となって意識上に現われ来り、直に純粋経験の状態を離れるようになるのである。即ち統一作用を働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的あるといわねばならぬ。

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『菜根譚』四

 勢利紛華は、近づかざる者を潔しとなし、これに近づきて而も染まざる者を尤も潔しとなす。智械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。

〔訳〕権勢名利や豪奢華美のたぐいに、近づかないように心掛ける者は潔白な人である。然しそれらに近づいても、その悪習に感染しない者こそ、最も潔白な人物である。権謀術数のたぐいを、全く知らない者は高尚な人である。然しそれを知っていても、自分では用いない者こそ、最も高尚な人である。

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是の故に先王大事有れば、

2018-08-22 14:38:28 | ブログ
第3523号 30.08.23(木)

是の故に先王大事有れば、必ず禮有りて以て之を哀み、大福有れば、必ず禮有りて以て之を楽む。哀楽の分は皆禮を以て終ふ。樂は聖人の樂む所なり、而して以て民心を善くす可し。其の人を感ぜしむること深く、其れ風を移し俗を易ふ。故に先王の教を著す。『礼記』573

 従って先王は、大事(不幸)があれば、必ずこれに対する礼があって悲哀を適宜にし、大福があれば、必ずこれに対する礼があって歓楽を適宜にし、哀楽の程度はみな礼によって全うされる。音楽は聖人の楽しむものであり、かつこれによって民心を善導することができる。音楽の、人を感化する力は大きく、風俗を改化する効があるから、そこで先王は音楽について教訓を明らかにしたのである。

 【コメント】人間社会にはいろいろなことが起りますから、要はそれらを受け取る人々が、世の人々が歓迎する方向で活用して欲しいものです。

 今年の高校野球も終わりました。プレー中に相手チームの選手が負傷した時、対戦相手の選手が痛み止めのスプレーをかけて痛みを和らげてあげるという美しい行為もあり、感動しました。

 昨日は秋田の金足農高準優勝チームが秋田空港についた時1400名の方々が、歓迎の出迎えをしてくれたとのことです。一人で県大会から甲子園での大会まで投げぬいた吉田投手の頑張りに満腔の拍手を送りたいと思います。大変御苦労さまでした。準決勝進出は103年ぶりであったとのことです。

 お互い人生に処して大事なことは、世の人々の共感を得る事だと思います。1.兎に角勤勉であること、2.勤労精神旺盛であること、3.人に親切であること、4.人をいじめない事、悪口を言わない事、5.贅沢をしないこと、節約をすること、6.ウソを言わない事、騙さない事、7.誠心誠意尽すこと等々、枚挙に暇がありません。

 つい先般まで、アウレリウスの言葉等々をご紹介しました。人間の営みはすぐ消え去ってしまいます。ですから、後々人々の心に残る美しい思い出としての金言を残したいものです。その美しい言葉が、人々の心を打って後々の世の人々の心まで和ませ喜ばせることになれば幸いではないでしょうか。ボクシングのある会長が、私が歴史を創ったと胸を張って叫びましたが、それに感動した人が一人でもいたでしょうか。

 それより迷子になった二歳児を救った尾畑春夫様みたいな人をこそ、世の人々は救世主として尊敬するだろうと思います。先ず尾畑様の頭の下げ方が美しいと思いました。そして食べ物、お風呂、など御礼の行為に甘んじない姿、政治家諸氏も学ばなければならないと思うことでした。

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『善の研究』第9回

 しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時に我々はこれを純粋の経験として見なければならぬ、たとえば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。元来、経験に内外の別あるのではない、これをして純粋ならしむる者はその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。また表象だけであった時には、夢においてのように全く知覚と混同せられるのである。感覚がいつでも経験であると思われるのはそがいつも注意の焦点となり統一の中心となるが為であろう。

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夫れ豕を豢ひ酒を為るは、

2018-08-21 17:27:01 | ブログ
第3522号 30.08.22(水)

夫れ豕(し)を豢(やしな)ひ酒を為(つく)るは、以て禍を為すに非ざるなり。而も獄訟(ごくしょう)益々繁(しげ)きは、則ち酒の流、禍を生ずるなり。是の故に先王因りて酒禮を為(つく)る。壹献(いっけん)の禮、賓主百拝し、終日酒を飲みて、酸ふを得ず。此れ先王の酒禍に備ふる所以なり。故に酒食は歓を合する所以なり。楽は徳に象(かたど)る所以なり。禮は淫を綴(とど)むる所以なり。『礼記』573

 そもそも人が豚を飼い、酒を造るのは、これを用いて祭儀や宴礼を行うためであり、もとより災いを求めるわけではないのに、しかも世に訴訟ざたのますます多いのは、酒の流弊であることが少なくない。そこで先王はこのために飲酒に関する礼を設けたのである。即ち、たとい一杯のやりとりにも主客が互いに百拝することにして時間をかけ、終日飲んでいても大して酔わないように定めた。これが先王の、人びとが酒の災いにあうことを防ぐ方法であり、酒宴は人びとが歓びを合わせるための物である。こうして、音楽は君徳に象り、礼儀は物ごとに節度を保たしめる物である。

 【コメント】酒宴は<人びとが歓びを合わせるための物であり、人びとが酒の災いにあうことを防ぐ方法である>とあります。万物の霊長と言われる人間は、栄養になるとして口に入れたものを活かすことが大切だと思います。

 酒を酌み交わし、人間としての心の交流を重ね、人生に活かすことは素晴らしいことだと思います。

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昨夜は台風19号の風雨が一晩中続きました。枕崎で育った私は台風銀座枕崎という処で育ちました。枕崎の港の岸壁に当った波が10メートルくらい上るのを幼少から眺めて来たものです。

 台風になれているといっても、万一のことを考え、家の戸締りは徹底しないといけないので、万全の措置を致しました。

 昨日は、荘内から西郷さん遺跡めぐりにおいでくださった小林慶太さまから、いろいろお世話なりましたとして、お礼の電話がありました。
 依頼された私は、誠心誠意尽しましたが果してそのお気持ちが伝わったかどうか、今回の鹿児島訪問が、西郷さんの人生の一旦を知ることになってくれたら有難いと思ってくださればと存じます。

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『善の研究』第8回

 かく意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚を失わぬのである。この点は知覚的経験においても、表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展する時は、全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったという如きは、その一例である。或は知覚的経験では、注意が外物から支配せられるので、意識の統一とはいえないように思われるかも知れない。しかし、知覚的活動の背後にも、やはり或無意識統一力が働いていなければならぬ。注意はこれに由りて導かれるのである。また之に反し、表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。