嫌われる勇気(13)

2014年10月30日 11時00分00秒 | 沖縄の生活

▲<沖縄の空も、秋模様になりました>

第4章 「世界の中心はどこにあるか(4)」

アドラーの「嫌われる勇気」岸見一郎+古賀史健著より 185~189P

d.あなたは世界の中心ではない

まず、我々は共同体(=社会)の一員として、そこに所属しています。共同体の中に自分の居場所があると感じ、「ここにいてもいいのだ」と感じられる事、つまり所属感を持っている。これは人間の基本的欲求です。

例えば学業、仕事、交友、そして恋愛や結婚も、すべては「ここにいていいのだ」と思える場所や関係を探す事に繋がっています。

そして、自分の人生における主人公は「私」である。

しかし、「私」は、世界の中心に君臨している訳ではありません。「私」は、人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、一部なのです。

自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。

こうした人にとって他者とは「私のために何かをしてくれる人」と考えます。すべて私のために動くべき人であり、私の気持ちを最優先して考えるべきだと、本気で思ってしまいます。

そのため、他者と接する時にも「この人は私に何を与えてくれるのか?」ばかりを考えてしまいます。

でもその期待が満たされる訳ではありません。何故なら、「他者はあなたの期待を満たすために生きている訳では無い」のです。

期待が満たされなかった時、大きく失望し、ひどい侮辱を受けたと感じます。そして憤慨する。

「あの人は私に何もしてくれなかった」「あの人は私の期待を裏切った」「あの人はもう仲間ではない、敵だった」と。自分が世界に中心にいる、という信念を持っている人は、遠からず「仲間」を失う結果になる。


あなたは共同体の一部であって、中心ではないのです。我々はみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではありません。

共同体に対して自らが積極的にコミットする(「人生のタスク」に立ち向かう)事によって得られるものです。

つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避する事無く、自らの足を踏み出して行く。「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく、「私はこの人に何を与えられるか?」と、考えなければならないのです。

所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得して行くものです。

※「所属感」は、マズローの欲求の5段階「愛と所属の欲求」に影響を与えました。そして、「私は、世界の中心に君臨している訳では無い。「私」は、人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです」は、アドラー心理学の壮大な世界観を表現しています。


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